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右近と左近  作者: 双鶴


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第22話 太田城、最初の咆哮(太田左近視点)

 天正十三年三月下旬。

 紀州の空は、春の匂いを孕みながらも重く沈んでいた。


 太田城の櫓から見下ろす紀ノ川は、

 雪解け水を含んで勢いを増し、

 白い波頭を立てて流れている。


 その川の向こうに――

 羽柴秀吉の大軍が迫っていた。


 先陣は堀秀政三千。

 続いて長谷川秀一三千。

 合計六千の斥候隊。


 だが、

 その背後には六万とも十万とも言われる本隊が控えている。


 太田衆と根来衆の残存兵力は、

 わずか三千から五千。


 雑賀衆の一部は秀吉に寝返り、

 根来寺は焼かれ、

 紀州惣国一揆は完全に孤立していた。


 それでも――

 左近の胸には、

 燃えるような静かな炎があった。


 


 田井ノ瀬橋付近。

 紀ノ川の浅瀬。


 秀吉軍の斥候隊が渡河を開始した。


 太田城の櫓から、

 左近はその光景を見下ろしていた。


 川を渡る兵たちの鎧が陽光を反射し、

 槍の穂先がきらりと光る。


 左近は、

 わずかに口元を引き締めた。


「……来たな」


 太田衆の鉄砲隊、弓隊は、

 すでに川沿いの茂みに潜んでいる。


 左近は手を上げた。


「まだだ……」


 川の水音。

 兵の足音。

 鎧の軋む音。


 そのすべてが、

 左近の耳に鮮明に届いていた。


 斥候隊が川の中央に差し掛かった瞬間――


 左近は手を振り下ろした。


「撃てぇぇぇぇッ!!」


 轟音が紀ノ川の川面を揺らした。


 太田衆の鉄砲隊が一斉に火を噴き、

 続いて弓隊が矢の雨を降らせた。


 川の中で悲鳴が上がり、

 兵たちが次々と倒れていく。


 水面が赤く染まった。


 左近は叫んだ。


「第二列、撃て!

 逃がすな、押し返せ!」


 再び轟音。

 再び矢の雨。


 秀吉軍の斥候隊は混乱し、

 川の中で身動きが取れなくなった。


 その隙を突いて、

 太田衆の鉄砲隊がさらに撃ち込む。


 やがて――

 川は静かになった。


 斥候隊は53名を失い、

 完全に撃退された。


 太田城の兵たちが歓声を上げた。


「やったぞ!

 太田衆が秀吉軍を退けたぞ!」


 左近は、

 その声を聞きながらも表情を変えなかった。


 勝利の喜びよりも、

 胸の奥に広がるのは――

 冷たい予感だった。


 


 その日の夕刻。

 秀吉軍の陣から、

 異様な動きが見え始めた。


 堀を掘る音。

 杭を打つ音。

 土嚢を積む音。


 左近は櫓からその光景を見つめた。


「……水攻めか」


 秀吉は、

 太田城を力攻めではなく、

 “水”で沈めるつもりだ。


 紀ノ川の流れをせき止め、

 太田城を丸ごと水没させる――

 あの恐るべき戦法。


 左近は拳を握った。


 ――やはり、来たか。


 秀吉は、

 太田衆を根絶やしにするつもりだ。


 だが、

 左近の瞳には恐れはなかった。


 むしろ、

 静かな炎がさらに強く燃え上がっていた。


「上等だ。

 水でも火でも、好きに使え。

 太田衆は退かぬ」


 その声は、

 夜風に乗って太田城の石垣を震わせた。


 そして――

 太田城の最期の戦いが、

 静かに幕を開けようとしていた。


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