第20話 炎の道、太田へ(太田左近視点)
天正十三年三月十日。
紀州の空は、春の気配を孕みながらも重く沈んでいた。
その日――
羽柴秀吉が動いた。
総大将・羽柴秀吉。
副将・秀長、秀次。
兵、十万。
紀州惣国一揆を殲滅するための、
圧倒的な大軍である。
太田城の櫓から見下ろす海は、
まるで嵐の前触れのように鈍く光っていた。
左近は拳を握った。
――来たか。
覚悟はしていた。
右近から届いたロザリオが、
すべてを物語っていた。
三月二十一日。
秀吉軍は千石堀城を包囲した。
太田衆、雑賀衆、根来衆の連合軍が守る城は、
わずか半日で落ちた。
火薬の匂いが風に乗り、
黒煙が紀州の空を覆った。
その煙は、
太田城からも見えた。
左近は櫓の上で、
その煙をじっと見つめた。
「……早い」
秀吉軍の進軍速度は異常だった。
まるで、
紀州を一気に焼き尽くすつもりでいるかのようだ。
三月二十三日。
秀吉軍は二手に分かれた。
風吹峠。
桃坂。
その二方向から、
根来寺へ総攻撃を仕掛けた。
根来寺は、
七十二万石を誇る巨大寺領の中心。
僧兵三万を擁する、
紀州最大の要害である。
だが――
秀吉軍の火力は、
その堅固さを一瞬で無にした。
火矢が空を覆い、
鉄砲の火花が山を照らし、
根来寺の堂塔は次々と炎に包まれた。
山全体が燃えているようだった。
左近のもとに、
逃げ延びた僧兵が駆け込んできた。
「左近殿!
根来寺が……焼かれました!
大塔も……大塔も……!」
左近は目を閉じた。
根来寺の大塔――
紀州の象徴ともいえる巨大な塔。
その柱には、
今も銃弾の跡が残っているという。
秀吉軍の火力が、
どれほど苛烈であったかを物語る傷跡だ。
左近は静かに呟いた。
「……秀吉は、本気だ」
紀州惣国一揆を、
根こそぎ滅ぼすつもりなのだ。
根来寺が落ちたその日の夕刻。
太田城の周囲がざわめき始めた。
斥候が駆け込んできた。
「左近殿!
秀吉軍が……太田城へ向かっています!」
左近は立ち上がった。
胸の奥に、
熱いものが込み上げた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
――覚悟。
右近から届いたロザリオ。
自ら送った脇差。
あの夜の別れ。
すべてが、
この瞬間のためにあった。
左近は太田衆の兵たちの前に立った。
「聞け!
根来寺は落ちた。
雑賀の地も、いずれ炎に包まれるだろう。
だが――
太田衆は退かぬ!」
兵たちの目に、
炎が宿った。
「我らは雑賀衆の誇りを賭けて戦う!
秀吉の十万がどうした!
太田の地は、太田の手で守る!」
鬨の声が太田城に響き渡った。
左近は空を見上げた。
紀州の空は重く、
だがその奥には、
確かな光があった。
――和友。
俺はここで戦う。
お前が祈るなら、
俺は刃で応える。
そして、
太田城の戦いが始まろうとしていた。




