第19話 別れの刃(太田左近視点)
紀州の山々に、湿った初夏の風が吹き抜けていた。
太田城の石垣は夕陽を受けて赤く染まり、
海は鈍い光を返している。
――秀吉が来る。
その気配は、風の匂いで分かった。
雑賀衆、根来衆、太田衆。
紀州惣国一揆は、秀吉の標的になりつつある。
そんな折、
左近のもとに、ひとつの包みが届いた。
堺からの密使が、
人目を避けて太田城に入った。
「太田左近殿。
高山右近様より……密かに預かって参りました」
使者が差し出したのは、
掌に収まるほどの小さな木箱だった。
左近は静かに蓋を開けた。
中には――
小さなロザリオ が入っていた。
黒い木玉が連なり、
小さな十字架が揺れている。
左近は息を呑んだ。
右近が、
こんなものを送ってくるはずがない。
これは――
危機を知らせる暗号 だ。
右近はキリシタン。
左近は寺門徒。
信仰は違う。
だが、
互いの“魂の言葉”は理解できた。
左近はロザリオを掌に包み込んだ。
その小さな十字架は、
まるで右近の声のように震えていた。
――秀吉が動く。
――紀州が危ない。
――お前も危ない。
――生きろ。
胸の奥に、
熱いものが込み上げた。
その夜、
左近はひとりで太田城の奥に籠った。
蝋燭の炎が揺れ、
壁に影が長く伸びる。
左近は、
自らの脇差を取り出した。
刃は細く、
だが鋭い光を放っている。
これは、
左近が若い頃から肌身離さず持っていたものだ。
太田衆の頭領としての誇り。
雑賀の武士としての魂。
そして――
和友としての記憶。
左近は脇差を布で包み、
静かに書状を添えた。
「和友へ。
これは俺の形見だ。
もし俺が倒れたなら、
これを見て笑ってくれ。
俺は最後まで、
この地を守って戦ったと」
筆を置いた瞬間、
胸が締めつけられた。
――これは、事実上の別れだ。
右近は秀吉の側にいる。
左近は秀吉の敵となる。
もう、
同じ道を歩くことはできない。
だが、
互いの魂は、
どこかで繋がっている。
左近は脇差の包みを使者に託した。
「これを……右近に届けてくれ。
誰にも見られるな。
命に代えても守れ」
使者は深く頭を下げ、
闇に消えた。
翌朝。
左近は太田城の櫓に立ち、
紀州の山々を見渡した。
根来寺の僧兵三万。
雑賀衆の鉄砲隊。
太田衆の兵たち。
すべてが、
秀吉の大軍と戦うために動き始めていた。
左近は、
腰の刀に手を添えた。
右近に送った脇差の重みが、
まだ掌に残っている。
「……和友。
俺はここで戦う。
雑賀衆の誇りを賭けて」
風が吹き抜け、
太田城の旗が大きく揺れた。
その風は、
まるで右近の祈りが届いたかのように
優しく、しかし確かに吹いていた。
左近は静かに目を閉じた。
――別れは済んだ。
あとは、戦うだけだ。
紀州の空は重く、
嵐の前触れのように沈んでいた。




