第17話 炎の紀州(太田左近視点)
本能寺の変から二年。
天下は、再び大きく揺れ始めていた。
天正十二年。
小牧・長久手の戦い。
羽柴秀吉と徳川家康が激突し、
尾張・三河・畿内の空気は、
まるで火薬の匂いを孕んだように重く張りつめていた。
紀州の山々にも、
その緊張は確かに届いていた。
太田左近は、
太田城の櫓から紀州の海を見下ろしていた。
潮風は湿り、
空はどこか鈍い色をしている。
――また、戦が来る。
その予感は、
風の匂いで分かった。
ある日、
徳川家康から密使が紀州へ入った。
「太田左近殿。
今こそ、秀吉を討つ好機にございます。
太田衆、雑賀衆、根来衆――
紀州の力を、我らにお貸しくだされ」
家康の誘いは、
左近の胸に火を灯した。
秀吉は、
雑賀・根来を警戒し続けている。
太田衆を味方と見なしていない。
むしろ、
「いずれ殲滅すべき勢力」として
密かに目を光らせていることを、
左近は知っていた。
家康の誘いは、
紀州にとって“生き残りの道”でもあった。
左近は、
根来寺の僧兵たちと会談した。
根来寺――
寺領七十二万石。
僧兵三万。
その規模は、
もはや一つの国である。
僧兵の頭領は言った。
「秀吉は、我らの寺領をすべて召し上げようとしておる。
これは、紀州惣国一揆を滅ぼすための布石よ。
戦わねば、滅ぼされる」
左近は頷いた。
「ならば、立つしかない。
紀州の地を守るために」
こうして、
太田衆・雑賀衆・根来衆の連合軍が結成された。
紀州惣国一揆――
その名にふさわしい大軍である。
連合軍はまず、
秀吉方の岸和田城を攻めた。
太田衆の鉄砲隊が火蓋を切り、
根来僧兵が法螺貝を吹き鳴らし、
雑賀衆が山のように押し寄せた。
火薬の匂いが風に乗り、
岸和田の堀には黒煙が立ち込めた。
左近は、
太田衆の先頭に立って指揮を執った。
「押せ!
秀吉の城を崩せ!」
兵たちの声が響き、
岸和田城は一時、落城寸前まで追い詰められた。
その勢いのまま、
連合軍は大坂近くまで攻め込んだ。
紀州の力は、
畿内を震わせた。
だが――
その影で、
ひとりの男が暗躍していた。
雑賀孫市。
かつて雑賀を率いた英雄。
だが今は、
太田左近と対立し、
雑賀衆の主導権を奪い返そうと虎視眈々としていた。
孫市は、
秀吉に密かに近づいた。
「太田左近は、反秀吉の急先鋒にございます。
紀州惣国一揆の中心は太田衆。
奴らを討てば、紀州はすぐに平らぎましょう」
秀吉は、
その言葉に静かに頷いた。
秀吉の狙いは、
紀州惣国一揆の殲滅。
孫市の裏切りは、
秀吉にとって格好の口実となった。
太田城に戻った左近は、
孫市の動きを知り、
拳を強く握りしめた。
「孫市……
貴様、秀吉に擦り寄ったか」
怒りよりも、
深い悲しみが胸に広がった。
雑賀は、
敵にも味方にもなる。
それが雑賀の気質だ。
だが――
同じ紀州の民を売る行為は、
許されるものではない。
左近は、
太田城の櫓から紀州の山々を見渡した。
風は湿り、
空は重い。
――秀吉は、必ず来る。
紀州惣国一揆を滅ぼすために。
太田衆を殲滅するために。
その戦いは、
これまでのどの戦よりも苛烈なものとなるだろう。
左近は、
静かに息を吸った。
「……来るなら来い。
紀州の地は、俺が守る」
その瞳には、
戦国の荒波に抗う者の強い光が宿っていた。




