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プロポーズはいらない  作者: 5’4”
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8. Cake Incident

 カフェの裏口までやってきて、アリサとケイファスは立ち止まった。緑の瞳(ネビュラ・グリーン)は後ろめたそうにしている。もしくは自分が間違っていればいいのに、と考えているのかもしれない。


 彼の問うあちらの世界をのぞいたかどうかについて、アリサは答えを持っていなかった。だって、あちらもこちらもなんのことかわからない。


 パッと目の前の扉がひとりでに開いた。


「アリサちゃん! おかえりなさいませお待ちしてましたわぁ! もうミルクが二杯分しか残ってなくて……あら? ケイファスさん?」


 裏口を開けたウナが両手を差し出してミルクを受け取る準備をしていた。毛先が丸い彼女の髪が軽やかに揺れる。


「どうも、マーサさんに頼まれてお届けにきました」


「ありがとうございます! マーサさんは一緒ではなかったのですか?」


 にこにこしているウナを目の前にすると、なんだか一気に現実に押し戻された気分だった。十秒前のケイファスとの会話が夢のよう。ずしりとしたミルクの重みを感じる、これが日常なのだ。幻獣なんて身近にない。


「途中で会った知り合いとお話するから遅くなるんだって。表はどう? 忙しい?」


「いえ、いまはゆっくりですわ。買い出しおつかれさまでした。ぼちぼち閉店ですし、どうぞ休んでくださいね」


 カフェとしてのピークは過ぎた。遅めの夕方からはバーとして開店するため、ある程度の時間になれば表を閉める。客が途切れた場合ゆっくり後片付けに集中できる。


 裏口から入った彼はぎこちなく、跳ね上げたカウンターを通りホールへ入っていった。その背中越しに見えるのはまさに席を立とうとしている客が二人だけだ。昼の部ではもう新規の客を受け入れないだろう。


「お好きな飲み物とデザートを選んでください。店のおごりです」


「え、いいですよ。もう閉店ですよね? 帰ります」


「奥さまからお礼をするよう言われてるんです。お急ぎでなければぜひ」


 ケイファスはやっと全身で振り返った。


「でしたら、お茶だけ、……いただきます」


「すぐにお待ちしますね」


 カーディガンを脱ぎ、腕にかけて裏へ戻った。

 奥さま選りすぐりの茶葉と、これまた奥さまお手製ケーキとの兼ね合いを想定して、厨房で並べてみる。


 一番相性のいい組み合わせをトレイに置きかえて、ケイファスが待つ席へと向かった。


「今日は手伝ってくださってありがとうございました。重かったですよね。奥さまがあんなに頼むとは思ってなかったですし。とっても助かりした」


「鍛えてないわけではないので、気にしないでください」


 力の抜けた笑顔に、こちらも頬を上げる。


「奥さま特製エンゼルケーキと紅茶です。お召し上がりください」


 ティーカップだけを引き寄せたケイファスは、ケーキのお皿を押し出す。


「なんだかすみません、ありがとうございます。あの、ケーキはアリサさんが食べてください」


 唖然と彼を見つめる。

 奥さまが作ったケーキを断る人がいるなんて。


「まさか、食べないんですか……?」


「僕より、アリサさんのほうが疲れてるんじゃないかと思って」


「奥さま特製ですよ? あの、エンゼルケーキですよ? 食べないんですか……?」


「たしかにマーサさんが作ったケーキは美味しそうですが」


「奥さまのエンゼルケーキ、食べたことありますか?」


「そういえばありませんね」


 あっさりと言ってくれる。なるほど食べたことがないなら、執着もしないだろう。


 見た目だけじゃない。奥さまのケーキはどれも抜群に美味しい。甘さにも種類があることを知ったのは奥さまのケーキのおかけだ。田舎にあるようなただ甘いだけのお菓子じゃない。素材の味を最大限に引き出し、心酔させる。その日じゅう、なんなら次の日まで心をわくわくさせるおまじないにかかったような。


「食べないという判断は、このケーキを味見してからにしてください!」


 桃色よりもさらに淡い色のケーキをひとくち分切り分け、フォークに刺してケイファスへ向けた。


「へあっえっ……えっ?」


 明るい春の緑はきょろきょろとさまよい、手が居場所を失ってぶつかったティーカップを揺らした。中身がこぼれることはなかったけれど、大いに焦っている。


「奥さまのエンゼルケーキはあたしが首都に来て初めて食べたケーキで、泣いちゃったんです」


「食べる前になにかつらいことでも……?」


「とんでもない! あまりにケーキが美味しくて感動したんです。泣きながら『美味しかったです』って伝えたらマスターと奥さまには笑われましたけど。その場で雇ってください! ってお願いもしたんですよね……」


 そこまで熱心に言われたら、と受け入れてくれたマスターと奥さまの心の広さよ。


「とにかく。泣くほど美味しいということです。さあ、どうぞ」


 そろそろフォークを持つ手が疲れてきた。


「……このまま食べていいんですか?」


「はい、食べてください」


「ほんとうに、いいんですね?」


「遠慮なく!」


 念押しのうえで勧められて、ケイファスは人間に傷つけられた犬が人間から与えられたエサを食べるときくらいの用心深さで口を開けた。ケーキを口に含み、フォークからゆっくりと離れていく。


 もぐもぐと味わっているケイファスは、ケーキの美味しさに感動したのか目元から耳までを赤くしている。瞳は細かく揺れて、まるで春の日差しに照らされた、そよ風に吹かれる生まれたばかりの双葉のよう。


「……おいし、と思い、ます……」


「ね、美味しいですよね!」


 全力の笑顔を浮かべると、ケイファスは手で顔を隠してしまった。それから深くうなずいている。


 よかった、この美味しさを同じ熱量で理解してくれる人がいて。


「ごゆっくりお楽しみください!」


 アリサは席を立って、店仕舞いのために奥へ引っ込んだ。





「アリサちゃん……」


 客席からは見えないところで手招きをするウナへ近寄る。


「ごめん任せっきりで。どこまで終わったかな?」


「あとは客席側のモップがけくらいですけれど、それはケイファスさんがお帰りになってからで構いませんわ。……それより」


 ウナはちらりと客席に目線を移した。テーブルに両肘をついて顔を隠している男がひとりいるだけだ。いまだ感動から抜け出せずにいるらしい。その気持ち、わかる。奥さまのケーキは史上最高だから。


「微笑ましかったのですけれど、ケイファスさん以外の人にああやって食べさせないほうがよろしいですわ……」


 指摘されて、顔見知りにしろ他人にしてはいけない行為だったのかと反省する。


「どうしよう、……迷惑だったかな?」


「ケイファスさんならアリサちゃんには悪気がないってわかってるでしょうし、だいじょうぶでしょう」


「あたし後で謝る……。ケイファスさんが怒ったりしてないか、ウナちゃんも今度さりげなく確かめてくれる……? お願い」


 ええ、と引き受けるウナだってとても優しい。ほとほとアリサは環境に恵まれている。


「ところでわたしからもアリサちゃんにお願いがあるのですわ」


「うん、なに?」


「今度の定休日、ご予定がなければ一緒にお買い物いかかがですか? お洋服を見たいのですわ」


「それはお願いされなくても行くよー! 行きたい!」


 デートだきゃあきゃあと声は小さめにはしゃぎながら、お店の片付けをした。

初日投稿はここまでです。

お読みくださりありがとうございます!

明日から毎日、基本一話ずつ、午前10時に投稿しますのでよろしくお願いします。

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