7. おつかい
「アリサさん、ちょっと」
そう声をかけてきた奥さまは在庫確認表を握っていた。
「ごめんなさいね。今週いつもよりお客さんが多かったみたいで、ミルクが足りないの。一緒に買い出しに行ってくれるかしら?」
瓶一本なら運べない重さでもないが、店で使うとなれば注文の単位はケースにも及ぶ。ひとケースは4本の瓶が入るが、ひと瓶はおよそ4リットル近い。今週足りない分の補充であればケースとまではいかないまでも、老齢の女性が持ち歩くのは辛いだろう。マスターは店を回す要なのでカウンターから離れられないし、アリサかウナ――もう一人の店員だったらウナのほうが接客は上手だ。だから奥さまはアリサをお供に選んだ。
ほとほと困ったようにお願いしてくる奥さまは愛らしい。もちろん嫌がることなくエプロンの上からカーディガンを着て外出の用意をした。
アリサとて力自慢というわけではないが、ミルク瓶のひとつやふたつなら運べる。台車で運ぼうにも、途中には階段や段差があるから結局は手で運ぶことになってしまうし、道の往復で余計な時間もかかる。
平日のお昼過ぎなので、土日よりは街中に人が少ない。
普段卸しを頼んでいる食料品店までやってきた。ドアを開けようとして、かけられた看板が目に入る。
「あらやだ、今日は臨時休業なのね」
これはアリサも把握していなかった。
「ちょっと遠くなりますけど、別なお店に行きましょう」
ミルクを買えたとして、瓶を運ぶ腕がカフェまで耐えられるか心配だけれど、必要なのだから他に選択肢はない。
「ケイファスくん」
奥さまがにこやかに大きめのお声で、しかし上品に呼びかけると男性は「えっ」と振り返る。五十メートルはあった距離を近づく。
「マーサさん、……アリサ、さん」
軽く手を上げるとケイファスはピシリと足をそろえた。下を向きながら。
「雨も忘れ風薫るかな。街角の花が植え替えられてますよ、すっかり新しい季節ですね」
「……へぇ、もう花が変わったんですね」
確かに花壇の土に堆肥が混ぜられふかふかしている。植えられているのは硬いつぼみだ。よく街中の変化に気がつくものだ。いつも周囲を観察しているのだろう。
若者たちの、若者らしくない挨拶を奥さまはコロコロと楽しんでらっしゃる。
「どうしたの、ケイファスくんは見回り?」
「いえ。仕事帰りですが……駐屯地での待機だけだったのでこんな時間に」
たしかに、上着を脱いで襟を開いた軽装だ。カフェを訪れるときは仕事の休憩時間で、上着のボタンまで閉めたきちんとした身なりしか見たことがなかったからこんな崩し方をするのかと意外だった。
「予定がなければ、ちょっとお手伝いしてもらえないかしら? 重い荷物を運ばなくちゃいけないの」
そういうことでしたら、と快諾したケイファスは奥さまの従僕のように後ろへ回った。
幸いにも別な食料品店は開いていて、奥さまとほっと顔を見合わせて入った。
「ケイファスくん、このくらい持てるかしら?」
奥さまの手にはミルクの瓶がふたつ、持ち運べるようケースに入っている。
「もちろんです。他にはありますか?」
「ほんとう? 頼りになるわぁ。じゃあ、ヘビィクリームとハーフ&ハーフとバターミルクも心配だから買っちゃおうかしら」
また重い液体ばかりを選ぶものだ。
「お、奥さま、買いすぎでは……」
こんなことになるなら遠回りが必要で遅くなってもいいから、台車を持ち出してくるべきだった。
アリサの動揺をよそに、ケイファスは苦笑している。
「大丈夫です。そこまでやわじゃないので。必要なら入れてください」
「嬉しいわぁ。お礼もちゃんとさせてもらいますからね」
無事にお会計も済ませて、店を出るときには持ち帰りケースは三つになっていた。荷物の三分の一でも渡すよう交渉したが、困った様子のケイファスからアリサへ預けられたのはミルク瓶一本だけだった。
帰り道、奥さまはその視界にまた誰かをとらえた。
「あらぁ、お得意さまだわ。わたし、ご挨拶してきていいかしら? 遅くなると思うから先にカフェに荷物を届けてくださる?」
それからすすっとアリサの耳元にささやく。
「帰ったらケイファスくんへお礼に飲み物とケーキを出して差し上げてね」
「はい、わかりました」
商売人の性か、奥さまはちゃっかりもしている。
「ケイファスくんよろしくね、ありがとう」
おやつ時を過ぎ、街には学生の姿が増えてきた。
カフェまでもうあと五分もかからない。裏道を歩きながら、アリサは横を見た。
「あの、以前のことですけど」
カフェでは従業員と客で向かい合うばかりだから、歩く拍子がずれれば手も触れてしまいそうなこの距離は慣れない。お互い荷物を抱えているから、実際に触れることはないけれど。
「幻獣に見えるか、って訊いたじゃないですか」
「はい」
あれから一ヶ月も経っただろうか。覚えているケイファスは真顔だった。忘れるわけがない、か。それほど変な質問だった。
「ごめんなさい、変なことを言って。忘れてください」
そうですか、の一言で終わるはずだった会話。
「アリサさんは、人間ですよ」
春の緑には影が差していた。瞳を通して心を見透かすように、しんと見つめて離さない。
体の芯が揺らぐ。
「でも初めて会ったときには少し、迷いました」
どういうことだ、と瞠目する。迷うというのは返答することを渋ったのか、アリサが人間か幻獣か判断をつけかねた、という意味なのか。
静かに続きを待つアリサの心臓は、ゆっくりとだが大きく脈打っていた。
「アリサさんは、『あちらの世界』を、のぞいたことがあるんじゃないですか?」
――「あちら」?「世界」?
彼が言うのだから、幻獣の住む世界ということだろうか。
騎士や魔法使いといった特別な力のないアリサが別世界を認識できるものではない。自分の意思で戸を開けるかのように言わないだろう。
泳ごうと飛び込んだ湖の奥底に広がる景色を、陸とは違うという意味で別世界というのなら。アリサは泡立つ水中を見たことがある。でもそれは、街から歩いて森に入るのとどう違う?
総じて幻獣は自然の中にいるものだと言われている。街の中で働いているアリサが姿を変えた幻獣などと誰も思うまい。妖精ならば人の身近に生きるものもいるらしいが、特別な力なしで彼らを認識できることはない。その特別な力を持つのが、ジェッドやケイファスといった軍人で古で言う騎士や魔法使いだ。




