60. バオバン・シー
幻獣に近づけば近づくほど、この身に瑕疵が増えれば増えるほど――アリサは女として愛されている実感が持てた。
いけないことだとわかっている。だから自傷同然の行為はやめようとしたところだった。そんなところでの事件。
ウナに誘われて、ウナの甥っ子の誕生日パーティーに参加した夜だった。ウナもジェッドもケイファスも、そこまでは楽しんでいたと思う。主催者に挨拶をして庭で話していたところ、ジェッドに女が不用意に近づいてきた。
「あら、こんないい夜なのに喧嘩?」
剣呑な雰囲気をぶち壊してくれた、裾が地に着いた緑色のドレスを身に纏った見知らぬ女は、ジェッドの首に腕を絡めた。
「お前……」
「なぐさめてあげる」
赤い目を見ようともせず、ジェッドは彼女の手を叩き落とす。たたらを踏んでひるがえったドレスから除いたつま先は、人間のものではなかった。靴も履けない、蹄が自身の裾を踏む。
幻獣……!
「ジェッド、どいて!」
武器のないジェッドが反撃の手段を探っている隙に、アリサは手を伸ばした。
駆け込むように帰宅し、ベッドの上へ落ちた。
魔力を奪った幻獣はもはや戦闘能力はない。ジェッドが駐屯地へ連れて帰ったし、これ以上の危険はなしと判断した。ウナへの謝罪は足りないけれどもなによりもまず、変身するアリサの姿を晒すことを忌避しなければならない。
「アリサ、顔を見せて」
両手が頬へ添えられる。くいとあごを上げればケイファスからじっと観察された。彼の眉間にしわが寄っていく。
「ああ、……赤くなってきてる。 “ Baobhan Sith ”の目の色だ 」
その新緑色の目はさわやかなのに、アリサの内を焼き焦がす。甘いあまぁい真っ白な砂糖が高熱によって泡立ち色を変えてカラメルになっていくような、そんな感覚に支配される。熱くて、熱すぎて、自分でも触れるのが怖いくらい。
次いでケイファスはアリサのくるぶしへそろそろと触れる。持ち上げればアリサの視界にも入った。足首から切り替わっている、ずいぶん小さく固く色黒になってしまった足とも呼べないもの。割れた蹄がくいとアリサの意思によって動いた。
ケイファスのため息がアリサの膝をくすぐる。
「ごめんなさい……」
「人間に戻ってたのに」
「ジェッドは武器もなかったし、とっさに手が出ました……」
「直情的な性格なのはわかってたつもりだったけど、アリサはほんとにもう……」
横に流した形に固めていた前髪をがしがしと乱暴に崩した。ケイファスは身を起こして、服装を整える。
「僕は駐屯地に行って様子を見てくる。待ってて」
ベッドの上で足を畳んでうなずいた。
せっかくウナのそばにも戻れたのに、自分から怪しまれる行動を起こしてしまった。
とりあえず水でも飲もう、冷たいのがいい。ベッドから下りるとうまく立つこともできなかった。鹿の足では体重移動が難しく関節がカクカクとしてしまって、一歩ごとに倒れそうになった。壁伝いに台所へ出る。
台所に寄りかかるようにして立つけれども、ガクガク震えた。
やっとこさ水を飲んで、生きた心地が戻ってくる。
はじめのうちは、姿が変わるのでも時間がかかっていた。魔力を吸う行為に慣れるごとに、魔力を奪った幻獣の特徴が色濃く出るようになってきて――いまではこの通りだ。まだ完全に飲まれてはいないけれど。
魔力の器を破壊する薬も飲んだし、まさか街中で幻獣に遭遇するなんて想定しておらず。ジェッドが襲われそうになっていて、考えるより前に手を出してしまった。
アリサの内にある魔力の器が壊れていれば成せないことだったけれど、いまだ壊れていないようだ。
ベッドへの復路にまたたっぷりの時間をかけて、横たわっているとケイファスが戻ってきた。
第三の目を開眼したままだ。戦うケイファスのそばにいなかったから、久しぶりに見る。硬い表情で、集めてきた情報を共有してくれた。駐屯地に行ったジェッドの様子、ウナが無事に帰宅したこと。
「蛭女は収容されたよ」
「討伐じゃないの?」
人を襲う幻獣はもれなく倒されるのだと思い込んでいた。
「軍が相手にするのはたいていが交渉の余地もない凶悪な幻獣で、存在を抹消するしかない。今回は珍しく生け取りにできたからね。調査と研究に回されるんだと思うけど、それは研究部門の仕事だろうから」
「バオバン・シー……ダルデュアさんと似た雰囲気があったけど」
「まあ似てるかな。どっちも人間の男の血をすする幻獣だよ」
「でも違うのね?」
「細かいことを言うとそうだね」
人間の脚と鹿足の境を撫でながら、ケイファスは無表情に問う。
「あの場にいたジェッドとウナさんには、説明する? どうする?」
アリサが幻獣の魔力を吸い、姿を変えてしまうことを発表するかどうか。
「ウナちゃんはともかく、ジェッドはもう誤魔化されてはくれないと思う……」
腕を伸ばすと、ケイファスは抱きしめてくれた。
「ジェッドはちょっと不機嫌っていうか……怒ってたのかな、あれ」
「だろうね。……あたしからちゃんと話するよ」
一般人のウナはアリサを責めずとも、ジェッドは幻獣を知るのだから、もしアリサが事前に説明していたら力になってくれたかもしれない。……くれなかったかもしれない。ジェッドはわりと正義感が強いきらいがあるから、アリサが幻獣の力を取り込んだと知れば討伐対象とみなしそうで恐れた、というのが本音だ。ジェッドにしてみたら、断罪する際の性別はさほど大した問題ではない。
なんと説明したものか、よく練らないと。
でも、頭が回らないのだ。
「ふたりで考えよう」
そう言ってくれたケイファスを見上げて、唇を求めた。
深呼吸をして熱を下げようとするのだけれど、微熱っぽいぼんやり感は抜けない。目線をずらすとそこにある、筋の張った首。喉仏が動く。
「アリサ、……まさかとは思うけど血が欲しいの?」
ハッと顔を離す。無意識にかぷかぷ、と歯形もつかないくらいの力で首の付け根を噛んでいた。
「ううん、血なんて飲みたくない。でもケイファスの首が……、なんだかおいしそう? で……」
もごもご告げた褒め言葉? には、小さい声が返ってくる。
「血を抜いたほうが血圧が下がっていいかもしれない……」
「どうしたの?」
「アリサさぁ……さっきからなんだけど」
「うん」
「くっそエロい」
「エ、えー……?」
「目つきも仕草も雰囲気も……。わかってるよ、バオバン・シーの影響だってのは」
でも、と眉尻を下げる。
とりあえず掴めればいいと不揃いに両手の指を組んで、手の甲を握りしめる。ベッドに押し付けられて、ケイファスを下から見つめた。
降りてくる唇を受け止める。
糸切り歯を舌でなぞられて、異変に気づく。前より伸びて、鋭くなっている、かも。
「血が欲しかったら、飲んでいいよ」
薄く笑っている。そっちのほうが、色気立ってる自覚はないのだろうか。
「なに言って……」
「飢えたなら僕の血をあげる」
シャツのボタンを三、四個外して広げた。
「欲しくないってば。あたし、ケイファスを傷つけたくないよ。そんな簡単に血をあげるなんて言わないで」
彼の血を求めて何度も迫っているダルデュアを差し置いて、アリサにはためらいなく飲めという。
「アリサが欲しがるもの、全てあげたいんだ。だから、求めるのは僕だけにして」
「だからって、血はイヤ。ほんとに欲しくないから」
「うん、わかった」
でもせっかくなので肩と首の間にキスをする。ケイファスは力任せに抱きしめてきた。そちらこそが、衝動を我慢しているようだ。
61話は8月2日朝10時に投稿予定です。




