59. ウナと兄上
「ジュエレ」
低い声でファースト・ネームを呼ばれて、ウナはサッと一礼をした。
「……兄上さま。お帰りでございましたの」
小さくうなずいて、高いところから見下ろしてくる。ウナはラセペレセ国の女性平均身長ど真ん中だが、兄はがっしりしていて背も高い。ケイファスほどではないが、ジェッドと同じくらいだろう。父はさらにどっしりと貫禄もついてくる。
「日々は充足しているか」
「はい。叔父さまと叔母さまのおかげでつつがなく」
実の兄妹にしてはあまりにも他人行儀なやりとりに、ちょうど使用人たちがいた廊下も緊迫している。
「奥方さまとご子息さまはご健勝のことと存じます」
結婚してから兄は家を建て、行事があるときくらいしか実家には帰ってこない。嫁子しかり。
家が広いこともあり、性別の違い、家督を継ぐ者と継がぬ者と区別されて、そう顔を合わせる生活はしていなかったせいでもある。父は、自身の右腕である兄を仕事で連れ回すことが多いので男同士の連携は強いそうだ。
「ああ。エシャも三歳だ。誕生日会を催す。父に話しておいた」
「かしこまりました。後ほど父から詳細を伺います」
「そうしてくれ」
ふいに腕を上げて、高いところで迷うように揺れ――ウナの身長を同性の部下と間違えたのか高く上げすぎた。その手をポンとウナの肩に置く。ウナががんばって微笑みを返すと、兄もぎこちなく笑った。
髪も瞳も同じ色味だし、確かに兄妹だけれども、世間一般にある育ち方をしていないがために、友人よりも遠い存在に感じる。
ウナにとって、兄は敬うべき存在であり、彼の庇護下にあっても頼るべき人ではない。
幼い頃一度、兄に頭を撫でてもらった思い出がある。あのときのほうが自然な触れ方であった。もう、昔のことになってしまった。
怖い、ことはない。ただ兄も妹も互いにどう接していいかわからない、が本音だろう。
友人を呼んで賑やかしくしてくれ、と言伝されたので、ウナはいつもの人員に声をかけた。つまりアリサ、ケイファス、ジェッドである。マスターとマーサにはすでに兄から招待状が届いているはずだ。
甥の誕生日パーティーのために、ウナはアリサと色違いのドレスを新調した。
昼間は明るくにぎやかに、招待された子どもたちの笑い声が響く。甥はたくさんの人からお祝いをいただいてご満悦だった。
夜になって大人たちの社交が本格的に始まる。
甥や参加者の子どもたちは帰されたが、会場はそのままに出し物の演出ががらりと変わった。道化や芸人と入れ替わり、酒が加わり楽団が途切れなく曲を奏でる。
社交に付き合わされて、少々辟易した。
ウナも似たり寄ったりだが、兄も艶福家である。妻子持ちと周知されているにも関わらず、誘惑をかけてくるわけだ。
しかも本人の父母、妹が横に並んでいる状態で、だ。さすがに口説くようなあからさまではないものの、ウナが眉をひそめてしまうくらいにはお見通しできるもの。
それらをばっさり切り落とす兄をおそれおおくも見直した。
かつ、ウナに声をかけようとしてくる若い男性たちの型通りの挨拶以上の言葉を阻止するものだから、ウナは驚きっぱなしだった。兄が結婚してからさらに会う機会は減ってはいたが、女性に対する見方が変わったのだろうか。
だいたい挨拶は終わり、ウナが一息つきそうになっても、ぴしりと背を伸ばしたままの兄はさすが若頭さまである。
待ち侘びていた三人がやってきて、ウナは頬がゆるんだ。
「オーシェンさま、夜の部も参加をお許しくださりありがとうございます」
兄が眉をぴくりと動かした。彼女のドレスがウナと同じ形だったので覚えていたとみえる。
「ウナの」
「はい。友人のアリサです」
同僚、ではなく友人と名乗ってくれたアリサにきゅんとした。威圧感のある兄に怖気付くことなく笑顔なのも、なぜだかウナが嬉しい。
「兄上さま、私からもご紹介を。アリサちゃんの後ろにいるジェッドさんとケイファスさんはカフェの常連さんですけれど、軍人さんでもありますのよ」
「ああ」
彼らの適切な距離感に、兄も悪い反応を示さなかった。
アリサたちが来てくれて、ウナは家族のもとから離れることを許された。
「これからもよろしく頼むぞ」
アリサでもなくケイファスでもなく、ジェッドに目を合わせて紡がれた言葉に、ウナは微笑みつつも耳にしっかり刻んでいた。
「みなさん、お庭をご案内しますわ」
催し物のために使われる会館には庭を整えてある。灯りに浮き出る花々は昼間とは違う装いとなり、見るものを楽しませた。
こんなよい夜に、不穏なものを見つけたくはなかったというのに。
「ジェッドさん? 兄からなにを頼まれてますの?」
「あれは……」
目をさまよわせたジェッドは珍しく濁す。
「兄君から聞いていないのか」
「兄とは疎遠なもので」
そうか、とジェッドはあいづちを打った。その声は乾いている。
「別に悪いことじゃない。余裕があるときにカフェを様子見してくれというものと、不審な人物がいた場合の排除、頼まれたのはこの二点だな」
「えっ、ジェッドはウナちゃんのお兄さんに頼まれてカフェ来てたの?」
それからアリサはケイファスと顔を見合わせる。
「僕も初耳だよ」
「なんでジェッドなの?」
ウナの代わりにアリサが訊いてくれて助かった。
「俺が女に興味なさそうだから、だそうだ」
兄の審美眼よ。アリサに思いを寄せているケイファスは除外するとして、ジェッドからは邪なものなどなにも感じずに楽しく過ごせていた。それも虚構の友人関係だったわけだ。
「別に俺じゃなくても護衛は散らばってるぞ」
「そちらは把握しておりましたわ」
「えっっ……そんな人いるの?」
ぎょっとしているのはアリサだけだ。
「ええ。私がカフェと家の往復を無事に過ごしているのもその方々の働きがあってこそですもの」
それにしても、ジェッドには落胆した。軍人という肩書きもあって、心頼みにはしてしまっていたものの、兄が彼に仕事を依頼しているとはついぞ気づかなかった。ウナに知られてもかまわなかったのだろうが、本当に知らなかったのだ。
「カフェを……コーヒーを気に入って来てくださっていると思ってましたわ」
「それも事実だ。護衛の依頼があろうとなかろうと通いをやめるつもりはない」
にっこり笑ってみせる。
「それはよろしゅうございます。今後ともお取り立てをお願いいたしますわ」
「ウ、ウナちゃん……」
瞬間的に分厚い心の壁を生やしたことをアリサも感じ取ったらしい。
「ああ、コーヒーがうまくてやめられないからな」
ウナの切り離しに気づいているのかいないのか。
友人くらいにはなれたと思ったのに、ウナが男性と築ける関係性などこのようなものだ。
守られることに不満はない。個人であるウナよりアレクサンテリ家のほうが大事だから。
自然と知り合った友人だと思っていた人物が、金で雇われたから仲良くしてくれていただけ、とも知れば普通に失望する。
こうなっては純粋に、鳥籠の外から飛び込んできてくれたのはアリサだけだ。ウナの世界に光をくれたのは……。
これから先は割り切って接客するしかない。カフェにお金を落とす以上、客は客。
……よし。
突然、ジェッドはなにかをわずらわしそうにして、頬の辺りを弾いた。虫でもいたのだろうか。
「お前……」
誰に話しているのだか。腰に手を伸ばす仕草は、剣を引き抜こうとしているようだった。いまはそこにないもの。仕事で来てはいないから武器は置いてきたのだろう。
まさか虫ごときに長物を取り出すわけがない。
なにが起こっているのだか。
呆気にとられていると、アリサが動いた。
「ジェッド、どいて!」
「は?」
「アリサ、ダメだ!」
ケイファスが片腕を掴んだけども、アリサは別な腕を伸ばす。
パン、と肌が鳴った。
「なんですの……?」
なぜかアリサが地面に倒れた。足を引っ掛けたのか靴が脱げている。
「幻獣だ、捕獲して駐屯地に持っていく」
ジェッドがなにもない宙――幻獣のことらしい、を肩に担いでまさに運搬するところだった。
そこに、幻獣がいた? ジェッドが襲われていた?
ウナがケイファスを振り返る。そこではアリサがケイファスの大きな上着をひざにかけられていた。
「ケイファスも、ジェッドと一緒に駐屯地に……」
「このままのアリサを置いていけるわけないだろ」
顔を手で覆ったアリサは、抵抗せずケイファスに抱き上げられた。脱げた靴をウナが拾って、ケイファスへと預ける。
「ごめんねウナちゃん、あたしたち帰る……」
「すみません」
口々に告げる。混乱したままの頭で、ようやく一声だけかけることができた。
「お気をつけて」
一人きりの時間は短かった。
「ジュエレ、けがはないか?」
「ありません、兄上」
「一人でなにをしている」
「友人たちを見送ったところです。兄上さまは、ご挨拶終わりましたの?」
兄は上着を脱ぎ、ウナの肩にかけてくれた。
「ああ。幻獣が出たと報告を受けた。ジェッドとやらが片付けてくれたようだが。じきに会も閉める」
戻るぞ、とやんわりと背中を押されて室内へと歩く。
一瞬だけ結ばれた視線に、遠い日の兄を見た気がする。
小さい頃、大人に飽きたウナは彼を家の中で年が近い珍しい存在として認識していた。兄と遊んでほしくて彼の部屋を突撃したこともある。幾度となく乳母や周囲に兄から引き離された。
自分と同じく勉強漬けの兄だって、きっと抜け出して遊びたいはずだと誘ったが、「怠惰はならぬ。」と一言もらった。それでも、まなじりをゆるめて頭を撫でててくれた感触だけはしっかりと覚えている。
あのときの、瞳であった。
夜も更けて、会はお開きになっても、ウナは庭での一連の出来事を考え続けてしまうのだった。
60話は7月31日朝10時に投稿予定です。
2026/07/31
誤字報告ありがとうございます!




