27. 夢譚夫婦の棲家
野いちごの茂みを辿りながらアリサはケイファスと進む。
いつあの鹿と遭遇するかとはらはらしつつ、帰りの目印に色付きリボンを枝に結んでいた。
「ああ、ここか」
先に世界の歪みに気づいたケイファスが先導してくれる。
何度も夢に見て、妄想だと思っていた洞窟が、ぽっかりと口を開けてアリサたちを待ち受けていた。
そっと顔色をうかがおうとしてくるケイファスに笑えたかは定かではないけれども、覚悟を決めたのだと伝わった気はする。
踏み入る時機はアリサに任されていた。
繋いだ手をぎゅっとすれば、返してくる力がある。ひやりとした空気に包まれ、不安を掻き立てる暗闇の先へ歩んでいく。
だんだんと思い出してきた。
老夫婦は仕事をしているのだという。アリサには薬草を採ってきたり、鹿のミルクを絞ってチーズを作るといった簡単な作業を任された。出来上がったものを老婆は老爺に渡した。老爺はチーズを食べるでもなく、湖の中に浸してこね始める。
不思議なことに、湖は霧に覆われていた。どのような変貌を遂げるのか、外からはわからない。やがて取り出された鳥の形に練られた物体は、カラスに似ている。飛んで洞窟から出ていってしまった。
その夜も夫婦はアリサを帰そうとしなかった。もちろんアリサは村へ帰して、と訴えたはず。
「いんや、あたしらがいいと言うまで居てもらうよ。中途半端はしなさんな」
アリサが摘んできた野いちごにかじりつきながら、老婆は目を細める。それからはアリサの意識を奪って、こき使っていた。
アリサが逃げても、連れ戻そうとして。
あの場に戻るのか、と思うと気が滅入る。けれどもひとりじゃない。ケイファスがいてくれるから、いまは先へ進めた。
迷子になって入ったときと同じように、老夫婦はもやに包まれた湖を覗き込んでいる。
離れているからこちらに気づいているふうでもないのに、顔のしわのせいなのか、にやにやして見える。手招いているようで気味が悪い。
彼らに聞こえないようにアリサとケイファスは体を近づけ、小さな声で会話する。
「アリサ。あれで間違いない?」
「……うん。あの二人」
「見たところ夢譚夫婦だね。何千年も生きる彼らは美しい夢も恐ろしい夢も作れる存在で、悪さといってもせいぜい悪夢を見せるくらいのはずだけど……」
時しも、起こったのは爆発だった。なんでもない顔でケイファスは手を振り上げただけ。それで湖が黄色く膨らんで爆ぜた。
ひんやりとした風が、ふわりと髪を持ち上げる。
「――え、」
「アリサに害をなすなら排除する」
ではやはりケイファスの仕業か。
人間相手だとちゃんと対話に臨んでいたうえで、手加減もできていたのに――幻獣だと見るやいなや慈悲もない。
彼の元隊長の言、「いざ幻獣を前にすると容赦なくおいしいとこどりしちゃう」ってこのことか。そりゃあ、ここまで極端に走れば要らぬ恨みも買ってしまうかも……。
ぺち、と冷たい水滴が頬を叩いた。湖は二百メートルは先にありそうだったのに、爆発でここまで届くとは。
まずは話をしないのか、という疑問は表情に出ていたらしく、ケイファスは困ったように笑う。
「話が通じる相手だった?」
首を横に振る。
言葉が通じるからといって、意思が通じることと同義ではない。血の繋がった親子でさえ相互理解は難しいときがある。そこを人と理の交わらない幻獣とくれば、なおのこと。
だからといって彼らよりさらに上をいく苛烈な行動に出るのはいかがなものか。それともこれくらい圧倒していなければ、幻獣は話を聞いてくれない?
「グオォおおおおおぉぉぉぉ!!!」
老爺の、獣のような咆哮がこちらに飛んできた。湖に浸けていた腕は真っ黒になっている。
「アリサ、あんたがソイツを連れてきたのかい!」
老婆は歯軋りの合間にふうふうと息を漏らし、這いつくばりながら迫ってくる。くだけた岩盤の欠片ででも怪我をしたのか、黒い血が跡を残す。
「よくも……!」
「善良なる人を騙し奴隷に落とす悪しき幻獣たち。アリサにつけた印を消せ。話はそれからです」
咆哮を背後に、透明感のある声は凛と響いた。
「これまで何人騙してきたんですか?」
「ケッ、手伝いを申し出てきたのはいつも人間のほうからだよ」
「都合よく利用してきたんですね。さぁ、それももうおしまいです」
「こんな精神異常者、相手にしてらんないね」
「ああ、その名前知ってるんですね」
「古い奴ほど騎士と魔法使いの恐ろしさは知ってるさ。はぁ、せっかくうまいことやってたのにさ」
「わかってるなら、文句並べてないで行動に移してください」
場慣れしているケイファスは平気そうに会話を交わしているが、アリサは手のひらに汗をかきっぱなしである。
チッと盛大な舌打ちをして、老婆は手を伸ばす。
「あんたとは関わり合いたくないね。いいさ、アリサの印を消してやる。こっちに寄越しな」
ケイファスに支えられるようにして、老婆に近づく。爪だけが異様につるりとした指がアリサへと伸びた。
額に熱がこもった――と思った次には、
ぷつりと、感覚が消えた。




