24. Mythical World.
街の外、人がいなくなったあたりで止まって、ケイファスはアリサを半身だけで振り返る。
「行くよ」
ケイファスに合わせて歩き出した。特別なことはなにもない。扉を潜った感じもないし、空気が変わったような気もしなかった。薄暗いのは、木も蔦も茂っているからだ。姿は見えないが鳥も小動物も聞こえる。
握りしめていた手を少し緩めれば、ケイファスが目を合わせた。アリサから話しかける。
「普通の、森にしか見えないね」
返事は否定だった。
「幻獣たちの世界だ」
言われても、ピンとはこない。そんなアリサの思考を読んだかのように、ケイファスは妖しく――艶やかに、胸を跳ねさせるような笑みを浮かべた。
「こうしてきみを攫うこともできるよ……怖くない?」
自由に別な世界を覗けて、入り込めてしまう。アリサを連れ込めてしまうのだから、手を離して閉じ込めてもおけるということ。
でも彼は思い違いをしている。
「怖いのは幻獣であって、ケイファスじゃないよ。
できたらこのまま攫ってほしいくらい」
懇願するような告白は、いささかのからかいも混ぜなかった。本気だ。さわさわと、うなじを切るような冷気が走る。
「だって、あたし、逃げてきたんだよ」
歩みを止めずに、でもケイファスは横に並ぶようにした。
「田舎にいたら悪夢ばっかり見るの。気が狂いそうだったから逃げてきたの。あのおばあさんもおじいさんも怖いよ。普通の人には見えないんでしょ? 実在しなかったらどうしよう。ジェッドにも、家族にも……おかしくなったと思われるの、怖くて、あたし逃げちゃった」
「逃げたんじゃない。幻獣に軟禁されそうになったところを助かったんだよ」
そうなんだ。そうなんだけれども、アリサの親たちとは理解が違う。
「大丈夫。絶対に日常に返してあげるから」
――こんなにも親身になってくれる人を、あたしは頼るしかできない。お返しにアリサからは、なにも有益なものは差し出せやしないのに。
目の端が熱い。かと思えばひんやりしたものが伝った。
繋いだ手にぎゅっと力が込められる。握り返しながら、ひたすら歩く。木の葉を蹴って、蔦を千切って、方角はわからない。
前を向くと目についた。あそこ、紙の繊維みたいだ。完成された絵を手で千切って、無理に元通り貼り合わせたような景色がある。歪にずれて、隙間ができてしまっている。
「そう、あれが歪み。でもあっちには行かないよ」
上ばかりを見て、足元がおろそかになっていた。ばしゃん、とケイファスは軍靴を勢いよく踏み入れている。水草が逃げるようにわさわさと揺れて道を開けていった。
「池の中に入るの?」
ためらうアリサを、ケイファスはやさしく引き入れる。
みずみずしい葉にくすぐられながら、上下が反転し池に体が沈んでいく。急に足場が無くなって、背負った荷物の肩帯が浮く。アリサは引き寄せてくるものにしがみついた。背嚢を避けて、ケイファスの腕が腰にまわっている。恐怖はたちまち消え失せた。
いまならば彼が導く道が地獄へとつながっていたとしても、アリサは無心でついていくだろう。そのくらい、信頼している。
歪みへと潜ってからもはやなにが現実なのかわからない。
どうしてだろう。ケイファスがやけに色っぽく見えてしまう。明かりの彩度か、影のつき方か。
かすかな光が輪郭を縁取るように見えて、人とは一線を画する、もしかしたらこれが魔力なのかもしれない。
とくとくとやや早い心臓を感じながら、身を任せた。
潮の流れに遊ばれて、くるくる回る。けれど、濡れた感触はない。水の流れがある以上、池ではありえないけれど、池からどう海につながったのか。これが人とは違う世界なのだ。
目の前に、明るい春がある。カフェでかつて、まごまごしていた第一印象はとっくに消えた。
あの、と切り出したのはケイファスだ。
「アリサが『幻獣に見えるか』なんて、どうして僕に訊いたの?」
もうずいぶんと昔に思える。
怪しいと、疑念を抱かせる質問をしたのはアリサだ。
「……わかんない」
あえて言うなら、話しやすそうだったから。茶化さず聞いてくれそうだったから。
あの時に、他の誰にも訊かれない、二人きりになれる瞬間があった。同時にアリサは深く考えてはいなかった。
「誰にでも訊いてる?」
「ううん、ケイファスだけ。ケイファスにはなんでかなんでも言っちゃう。……ごめんね」
「やけくそだったとしても、僕を頼ってくれたのは嬉しいよ」
「うん、助けてくれてありがとう」
ケイファスからは微笑みが返ってきた。
「まだ解決してないから。これから頑張ってもらわないと」
いつのまにか頭上に光が降り注いでいた。
あの角度の山、牧羊犬の号令に干し草と堆肥の香り。アリサはいま立っているこの道を知っている。
ゴウラ市ゴウリ町ゴウル郷ゴウレ村に着いた。




