19. 朗報と悲報
ケイファスの目の前でアリサは語ってくれた。
ゴウラ市で失踪していた間のことを、アリサは詳しく覚えていなかった。覚えているのはいちごがなくなっていたこと、それと山で保護されて、帰宅してからのことだと言う。
一緒に山へ登った女の子たちがアリサがいなくなったと騒ぎ、近隣の幻獣討伐を終えた軍隊に捜索を求めた。見つかったとき、アリサはなにかに操られるかのように鹿のミルクを絞っていたらしい。本人確認にはうなずいたものの、おぼつかない足取りで抵抗なく連れられるまま山を降り家に戻ったという。
果たされていない約束をそのままに――。
不本意にも、逃げた形となってしまった。
奇妙な老夫婦と出会ったというアリサの過去を聞いて、ケイファスは細く息を吐いた。
約束とは、人ならざるものの間で交わされる重い契約のこと。束縛だ。そして人の都合など考えない、理不尽を体現するものが、幻獣なのだ。
通常人間は幻獣を認知できないけれども、彼らの飼う鹿に誘導されたのなら説明がつく。
「幻獣との約束に、絡め取られてる」
「うん……やっぱり、あれは幻獣だよね」
アリサにはその自覚がありそうだった。
「人間と意思疎通ができる幻獣なら、かなりの老齢で……狡猾で残忍なこともする」
「ひどい扱いは、受けてないけど」
そうかもしれない。宿の代わりに鹿のミルク搾り程度の手伝いを要求しただけ。関わりが短期間で終わったから、そう感じるのだろう。
「いい知らせは、アリサの額の目はどうやらただの印で、一時的なものだということ。約束を果たせば消えるものだ」
自らの額へ触れたアリサは、そこになにがあるのかあまりわかっていないようだった。第三の目があるなら感覚があるはずだ。幻獣が把握できる追跡機能と監視機能があるだけで、つけられたアリサに扱えるものではない。
ケイファスがアリサと額をくっつけて覗いたのは、逆探知したようなもの。印を第三の目だと思ったのは、幻獣が印を媒介にしてアリサを連れ戻そうとしていたから。開きかけた世界が第三の目の能力に見えた。まったく紛らわしいことをする。あのときは気が動転していたことだし。
それから話を聞いていてひっかかったことがひとつ。
「ただ、悪いことに……老夫婦を手伝うという約束が『いつまで』かの確認はできていない。どうかな?」
え、と呟くアリサの顔が青白んだ。アリサは「泊めてほしい」と願い、老夫婦は「泊まらせてやる」と受け入れた。代わりに「明日から手伝え」と言った。
「あたしは一晩、だけのつもりで……お手伝いも長くて一日くらいだと思って……」
「幻獣はそこに付け込んでる」
迷い込んだ人間を隷属させようとした。困っている人間に対して悪質な詐欺だ。加害側といえば幻獣であるため、法律で罰することもできない。
そういうときのために軍が存在するわけだが。人外の無法には人外の横暴が許されている。
「残念だけど、まだ解決してない」
アリサはマグカップから手を離して、膝の上に置いた。いつのまにか彼女の顔を隠していたコーヒーの湯気は消えている。
「あたしはゴウラ市に帰らなきゃいけない……?」
「確認しに帰ったほうがいいだろうね」
「でも、あの山のどこにいるのかはっきり覚えてないよ。そもそも迷って入ってしまったのに」
「僕が探すから」
「……できるの?」
「できるから、僕も一緒に行く」
「え、でもケイファスは首都で軍の仕事もあるし」
「それこそ、軍は幻獣に対応するためにあるんだ。幻獣を追っての出張は珍しくない」
そうしてやわらかく微笑む。
「上に報告して、許可が下り次第出発したい。
……マスターたちに、自分から話できそう?」
こくこく、と細かくうなずく。
彼女は不安だとか、怖いとか言い出してこない。本当ならウナかマーサの前で一度くらい泣いていてもいいはずなのだ。
実のところ、幻獣の可能性を隊長へ話しただけで終わった。
ただしアリサを故郷へ戻し、幻獣の存在を確かめるために一個隊を出動させることは渋られた。被害者はたったのひとり、幻獣であると裏付ける証拠はアリサの額にあるしるしくらいだが、彼女の記憶は曖昧だ。
軍を動かすには理由が弱い。ジェッドは告げた。ケイファスひとりが先に行動を起こせ、俺は上を説得してから隊を連れて追いかけるから。アリサを任せる、と。
夕方の早いうちにカフェでの仕込みを終えて、ウナはまっすぐマスターの家へ来た。もちろんアリサの様子を見るためだ。
ウナは帰り際にケイファスへ念を押すようにアリスを助けてくれと訴える。
「私も、いざとなったら実家の力を使いますわ。軍の一個隊を融通してもらうくらい……してみせますわ」
微笑みは凄艶で、男二人は一瞬呆然とした。
同じく夕方、時間差でジェッドが現れた。アリサの件を幻獣絡みだとして報告がてらケイファスと駐屯地へ連れ立った。カフェは念の為今日はお休みするらしく、マスターもマーサも夕方から家にいる。
みんな笑顔で別れた後、ジェッドとケイファスは並んで歩いた。
「アリサは、今回どこから意識戻ったんだろうな」
「き……きかないでっ……」
両手で顔を覆う。願わくば、覚えているのはキスの後からであってくれ。きみが勝手にキスしてきたんだ、なんてことケイファスはアリサを傷つけずにうまく説明できる自信がない。
「事故処理で……隠蔽……」
一口目のケーキを食べさせるとき、口を開かせなければなからなかった。唇をめくるために触れてしまった。指先が、しっかりした弾力のしっとりした感触を覚えている。
彼女のためにもなかったことにしたい。
「ケイファスが襲われた側だしな……」
ポン、と背中を叩かれる。
「ま、不可抗力だろ」
なにがあったか話していない、つまりアリサを騙しているとなれば、嬉しくない励ましだ。事実を告げたところで、疑われたり嫌悪感を示されるならまだしも、アリサは記憶がないままでも謝罪してきそうな性格だ。
謝らせるのは確実に違う。だから、知らないふり――のほうが、最善なのだと思う。




