18. 昔話
アリサが目覚めたのは翌日の昼近い時間だった。
夢うつつに見た、目の前で生まれた小ぶりの雪うさぎが鼻で額に触れて、あれは夢じゃなかったと指先を伸ばす。表面を撫でるとつるりとしている。
ウナに支えられて、居間までやってきた。扉を開ければコーヒーの匂いが広がる。マスター、奥さまとケイファスがテーブルを囲んで談笑していた。
「ああ、おはようさん。コーヒー淹れよか」
サッと立ち上がったマスターが台所へ向かう。
「おはようアリサさん」
おっとりと奥さまが微笑んで、椅子を薦めてくれた。
「おはようございます。昨夜は遅日でしたが今日はちょうちょも飛ぶなごやかなお昼寝日和ですね」
相変わらずケイファスは凝った挨拶が好きだ。なぜか敬語に戻っているが、彼の顔を見ると安心する。にこりとすると、ぺこりとされた。
おはよう、とみんなに返しながらウナとケイファスに挟まれた席に座る。
コーヒーが先に置かれたかと思えばトーストに合わせて煮豆とソーセージが出てきた。
「足りひんかったら言うてな。なんやかやあるさかい。今日は俺ら揃って寝坊助してしもうてな。さっき食べたばっかりや」
と、みんな朝ごはんだかお昼だかを食べた後らしい。ありがたくいただいて、胃を落ち着かせた。
そして頭を下げる。
「みなさん、ご迷惑をおかけしました。そしてありがとうございます」
うまく笑えているか自信がない。マスター、奥さま、ウナにケイファスと揃っていて、みな不安と安堵の入り混じった顔をアリサに向けている。
昨日、仕事中に突如意識があやふやになった。妄想なのか夢なのか。はっきり自分でこれが現実なのだと認識が戻ったのはさっき、目覚めてからだ。経緯はわからないまでも、みんなが手を尽くしてくれたのだということは胸が痛いまでわかる。
心に巣食うのは罪悪感だ。これまでアリサがおかしくなる前兆は自覚していたというのに、誰にも打ち明けられなかった。ケイファスには開示してしまっていたと思うが、それでも情報は少なかっただろう。この場にジェッドがいたらなんと責められていたことか。幼馴染は駐屯地へ報告しに行ったあと、仲間を連れて街を周回して万が一の幻獣を警戒しているとのこと。
しばらくしてマスターと奥さまは翌日のカフェの開店準備のために出かけた。ウナは外泊したため、一度実家に帰ってからカフェへ仕込みの手伝いをすると言っていた。
アリサはくれぐれも大事をとるように申しつけられている。ケイファスはそのお守りとして居残った。
昔を思い出しながら、マスターが家を出る前におかわりを淹れてくれたマグカップを手にした。だからといって飲むわけではない。両手でカップを包むだけだ。中身は飲むには熱い。
湯気の向こうに心細そうにしている明るい春の緑が見えた。
「いつ、幻獣と会ったの?」
穏やかな夜を声をきっかけに、思い出した昔を語りだす。
――アリサは、空っぽのカゴを持って歩いていた。一人じゃない。故郷で集まった、女ばかり五人ほどの集団で山の恵みを採りに行くところだ。アリサは野いちごの担当だった。
「じゃあ、ここに集合ね」
ひとりが目印に赤いリボンを木の枝にくくりつける。おのおの目的の果実や木の実を集めたあと、また戻ってくる相談をした。
野いちごがよく茂っている場所を見つけて、夢中でカゴをいっぱいにした。これだけ集めれば、ジャムとドライフルーツも作れるし、余ったいちごでタルトも焼ける。
ほくほくと集合場所に戻ろうとしたところで、足が硬直する。
帰り道が、わからなくなってしまった。遠くまで来すぎてしまって、仲間の姿も見えない。いくら野いちごを効率よく採取できたとして、家まで帰り着けないのでは――ぞくりとつま先から悪寒が走る。あっちに一歩、こっちに一歩としているうちに、夕闇が森の姿を変えていってしまう。
「あれは、目……?」
一対の目に、誰か近くにいたと安堵して近寄る。
「あのね、あたし迷っ……」
言い差して、それが人ではなかったことを悟った。突き出た口、小ぶりの耳の横から枝分かれした角が二本、頭に刺さっている。
鹿は、事情は把握した、とでもいうように頭を上下してみせた。鹿が向こうへ踏み出したとき、アリサは追いかけた。
野宿をするにも、あたたかい鹿に寄り添って眠れば風邪も引きづらいだろう。
背後でゴロゴロ、と聞こえた。――雨雲だ。見上げた頬に、あごにぽつりぽつりと雨粒が落ちる。
森の夜は暗い。音でかろうじて鹿が歩いているのがわかる。これではますます家へ帰れない。
鹿を追って着いたのは洞窟だった。運良く、髪がしっとりするまでの間に雨宿り先を見つけることができた。雨音は強くなってきて、数歩後ろの岩肌を跳ねている。
「ここがあなたの住処なの?」
鹿はさらに奥へと進む。洞窟の行き止まりには湖があった。湖のふちに二つの人影が並んでいる。こんどこそ人間だ。こんな場所だけれども、人がいたんだ。
「こ、こんばんは。勝手に入ってきてごめんなさい」
老婆が労うような手つきで鹿の背を撫でる。その手からはもう何十年、もしかしたら何百年生きているしわが刻まれていた。隣の老爺も人間とは思えないほど年老いている。
「道に迷ってしまったんです。どうかお邪魔させてください」
「どうしたもんかね」
眉根を寄せる老婆へ、焦ったアリサはいま持っているだけの財産――野いちごを差し出した。
「これしかありませんが。泊めてください」
老婆がカゴを受け取った。ころころと野いちごをかごの中で転がして品定めしている。
「泊まらせてやるよ。あたしゃ手伝いが欲しかったんだ。言うことを聞いてくれるね?」
にやりと笑って、鹿にご褒美とばかりに野いちごを分けた。
「はい、お手伝いくらいならできると思います」
「よろしかろ。あんた、やっとくれ」
老爺がはじめて振り返る。湖に突っ込んで作業していた腕を引き抜いて、きらきらしているものを粉のように振り落とす。長い――長すぎる腕が、後ずさりしているアリサへ届いた。片腕だけで人の身長ほどもある。それが二本。足が震えるアリサは逃げきれなかった。
ゾッと骨の芯まで冷える。
これまで会話していた相手が、もしかしたら人間じゃなかったとしたら。
「……ひっ……」
頭をわしづかみにされ、反射でぎゅっと目を閉じた。が、それ以上のことはなく、痛みもない。母印を押すようにして額に触れた親指がただの氷のように思えたくらいで、すぐにしわくちゃの手は離れた。
目を開けば老爺はすでに長い腕で湖を捏ねるようにかき回している。
「あの、いまのは……?」
「印はつけた。逃げようなんて考えるんじゃないよ」
野いちごにかじりつきながら、老婆は目を細める。
「約束は守るもんだよ。あんたはあたしらの縄張りに入って、願いごとを口にしちまった。あたしらは受け入れた。
わかるかい? アリサ」
「印なんてつけなくても約束は守ります」
「言ったね。まあ今夜は休みな。明日から働いてもらうよ」
夜は冷えた。鹿を枕にして寝たほうがあたたかかったかもしれない。
翌朝は、起きたのだったか起こされたのだったか。とにかく目をこすりながら洞窟の外へ出て、持たされたバケツに鹿のミルクを搾り始めた。
夕方になる前、アリサは「お世話になりました」と帰ろうとした。
老婆は「いんや」となにごとかを告げた――アリサの記憶はここから曖昧になっている。もう一晩、泊まっていることは後から聞いて確実なのだけれど。
――というのが、アリサが経験した行方不明の真相である。




