17. マスターの家
マスターの家で改めて、ケイファスからマーサとウナにも経緯を説明した。マーサは自分の知らないところで事件が起こっていたことに驚愕し、現在のアリサが五体満足であることを知って涙を流した。従業員であるアリサとウナを実の娘のように可愛がってきたためだ。ハンカチで声を抑えつつも、ケイファスの話を中断させることなく終わらせた。
「アリサは……幻獣の世界へさらわれていた、という表現が一番しっくりくるかと思います」
幻獣の縄張りにアリサが迷い込んだ、のか幻獣がアリサを連れこんだのかははっきりしないが、とにかくアリサの意思であちらへ渡ったのではなさそうだからそう言った。
「アリサちゃんにこれ以上の危険はありませんよね?」
「原因がわからない以上、安心できるとは言えません」
「そりゃ、幻獣とっ捕まえれば解決するんちゃうの?」
「カフェのある区域に幻獣の気配はありませんでした。断言できる材料はありません。たた、経験から幻獣だと思う、としか」
それぞれ言葉を反芻するように、沈黙が降りた。ケイファスだってもっと希望のあることを言いたいが、空約束なんてできない。
「もし、幻獣がまたアリサをどうこうしようとするかもわからないので、そばで誰かに見ていていただきたいのですが。さすがに僕は寝室で待機できません」
女性のマーサかウナに頼むことになる。ウナが手を挙げた。
「私がアリサちゃんと同じ部屋で寝ますわ」
「そうしていただけると助かります」
アリサだって、目覚めたときにそばに見知った人間がいたほうがいいだろう。
「ケイファスくんも、うちに泊まっていかないかしら?」
提案はマーサからだった。
「今夜アリサさんに変化があったら、すぐに対応してもらえると思うと安心できるわ。難しいなら、無理にとは言わないけれどねぇ。できたら……」
目尻をハンカチで拭いて、念押しに「ねぇ」と微笑まれる。
「客室もあるさかい、遠慮せんで。よろしゅう頼みます」
ウナの家ではないため、彼女は黙っているが「泊まっていけ」という圧がある。三人に促されればケイファスとて断りにくい。
マスターの家は名家の分家だとかで古くからあり、部屋数も多かった。居間だけでも雑魚寝なら二、三十人は寝泊まりできそうなくらいだけれど、本家には遠く及びませんわ、だそうだ。
ひとつの客室に寝かされたアリサの直隣の部屋を使わせてもらうことになった。
壁を隔てた向こうは(暫定)女の園である。アリサを見守っているウナに呼ばれなければ足を踏み入れるつもりはなく、ケイファスは風呂を借りてまっすぐベッドに寝転んだ。
湿り気の残る髪をかき上げて、凝った肩を揉みながら今日の事件を振り返る。
どうやら自分にとって近しい人が襲われたことで、ケイファスは緊張状態にあったらしい。幻獣と対峙していれば襲われることはままあるが、仲間が襲われてもここまで恐れない。だって軍人は幻獣と戦うために鍛えているし、立ち向かう覚悟もあるのだから。何の力も持たないアリサが迷子になっている姿を見て、肝が冷えた。
ひとまずの緊張を解き、うとうとと、妄想なのか夢なのかわからないものに包まれていく。
「ケイファスさん、お休みですの?」
ノックは小さかったが、ケイファスはハッと目覚めた。
ドアの外には案の定ウナが立っている。
「アリサさんになにか?」
「苦しそうになさってますわ。見ていただけませんか?」
部屋にいくとマーサが心配そうにアリサを覗きこんでいるところだった。部屋にひとつきりのベッドに横たわるアリサは、うんうん唸っている。白いうさぎが頭周辺を往復していた。まるで頭痛をおさめるために撫でているかのよう。
ほかに寝床はなく、向かい合わせのソファに一枚ずつ毛布がかかっていた。ウナとマーサが寝ずの番をしていたらしい。寝れなくて、といったほうが正しいだろう。
ケイファスは第三の目を開いた。特段怪しいところは見つけられない。
念のためアリサの額にも触れたけれど、かすかに寄せられた眉の上の目はちゃんと閉じている。
観察しているうちに、アリサは落ち着いてきた。
不安気にケイファスの動作を見守っていた女性二人にうなずいてみせる。
「夢見が悪いだけのようです。疲れきっているでしょうから、起きないと思います。……幻獣ではありません」
「そう、よかったわ。ありがとうねぇ、ケイファスくん」
「起こしてしまってごめんなさい」
「このために滞在してますから。またなにかあったら遠慮なく呼んでください」
おやすみなさいを繰り返して、ケイファスは部屋を出た。
廊下の角にはマスターがいた。うるさくしてはいなかったとはいえ、やはり様子が気になってしまったのだろう。
「ケイファスくん、一杯コーヒーに付き合うてくれへん?
いうても、夜中やしデカフェやけどな」
「いただきます」
居間に移動して、「ここ」と指さされた場所に座った。カフェは選び抜かれた二、三種類の豆だけが置かれていたが、マスターの家にはいろんな種類のコーヒーが豆の状態で並んでいた。食器棚に焙煎前から段階的に色づいた豆まで揃えられている。二人分の食器より種類は多いかもしれない。
「今日はお疲れさん。アリサくん見つけてもろてほっとしたわ」
「いえ。これでも軍人ですから国民のために動くのは当然の責務です」
「それでもやで。アリサくんもうちの大事なかわええ看板娘やから」
軽やかな話し口調からは想像できないが、マスターの手つきはひとつひとつ丁寧だ。
いくつもの瓶の中から選び取ったコーヒー豆をブレンドして、一杯分ずつ挽いていく。ガリガリと音が響く、これは日常なのだと引き戻してくれる。今日は大変なことがあったから、日常をなぞらえるのがいい。
コーヒーは淹れてくれたが、マスターはまだカップを渡してくれない。流れるようにコーヒーの棚とは別の戸棚から瓶を取り出す。一見水のようだが、蓋を開けるとキツいアルコール臭がした。
「あの、お酒はちょっと……」
状態が安定しているとはいえ、あくまでアリサを監視するためにいるのだ。酒はまずい。
ククッと喉で笑ったマスターはためらいなく酒を注いだ。
「わかっとる、ただの香り付けや」
染み込ませた砂糖に火をつけて、アルコールを飛ばしてコーヒーに混ぜれば完成らしい。
「いつもと味わいが違って、……これも美味しいです」
「昼間は出せへんやつや、内緒な。トクベツやで」
「ありがとうございます」
「いや、ケイファスくんやったら言うてくれればいつでも出すわ。ジェッドくんにも世話んなったしそう言うといて」
「そこまでしていただかなくても、普段からよくしてくださっているのでじゅうぶんです」
マスターは一口コーヒーを飲んで、腕を組んだ。
「……前からわかっとったけど。真面目か」
それは、軟派からは程遠いけれども。
「めっちゃイケメンくんの相棒がおれば顔はもう諦めな仕方あらへんけどな、もうちょい余裕みせぇや。ドーンと構えとかな女のひとりふたり、いや三人五人落とせへんで」
「ぅあ、は、はい……」
そんなふうに女遊びしたくはないが、指摘は内臓にずしりときた。その通りすぎて。外見をジェッドと比べてしまえば誰でも勝ち目はない。別に彼ほどモテたいとまでは思い上がっていないし、モテたところで迫ってくる女性への対応に困るだけだ。
「あんな、からかってんねん。ごめんて。優しゅうてええ男なんやから自信持ち。こんだけ市民に親身になってくれる軍人さん他におらんで、ほんま感謝しとる」
バシバシと薄い肩を叩かれ、持っていたカップの中でコーヒーが暴れる。半分以上飲んでいたからこぼすことはなかったけれども、なぐさめられている事実が惨めに思えた。確かな思いやりもあるから、ほんのちょっぴりだ。
「そない落ち込まれたら俺がマーサにどつかれてまうわ……。俺の奥さんな、ケイファスくんとジェッドくんのコンビ気に入ってんねん。どっちとも違った良さがあって素敵やってな」
それは身内扱いされているということではないか。母親が言う自分の息子は顔は平凡だけどかわいいのよ、といった自慢に近い。かつて他人からこんなに褒められることは、なかった。
温かい飲み物をいただいたせいか、体が火照る。
「アリサくんが目ぇ覚ましたらまた話そうや」
この後ベッドに戻ったが、朝まで起こされることはなかった。




