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プロポーズはいらない  作者: 5’4”
14/14

14.覚えていない約束

 カフェでテーブル席を片付けていたアリサは、お盆を持ち上げる。


『アリサ』


 振り返って、疑問に思った。声は女性だったけれど、ウナは呼び捨てにしないし、奥さまからだって「さん」づけだ。呼んだのは誰だろう。


 ――約束を、果たすんだよ!


 バシン、と背中を叩かれたかと思った。振動だけが走って、あとを引く痛みはない。


 いつの間にか手の中は空っぽだった。お盆は。洗うはずだったコーヒーカップが。ケーキのお皿にフォークまで、なにもかもがない。割れて破片になったのでも、足元にも落ちておらず、きれいさっぱり消えた。


「やくそ、く……」


 アリサは、なにかを忘れている?


 笛に似た風の音がする。あたりは暗くなりかけている。


 ここは洞窟だ。カフェにいたはずなのに。


 一歩を踏み出して、ぐらりとめまいを感じた。


 寒い。ように思えたのに、二の腕をさすっても感覚が薄かった。麻痺しているように鈍い。

 だからって、夢じゃない。アリサは仕事中だった。お店が暇なときにぼんやりすることはあっても、歩きながら居眠りすることはない。


『アリサ、来い』


 しわがれた、男の命令だった。あの暗い奥から呼びかけている。怒ってはいないけれど、嬉しそうでもない。


 しゃがむと、甘酸っぱい香りがした。鹿が目の前まで迫っている。口にカゴを咥えて、差し出して、まるでアリサが落としたものを返すようにした。カゴには新鮮な野いちごが詰まっている。


「これを、届けるの……?」


 それとも、家に持って帰るところだった?


『アリサ、戻ってきな』


 老婆の声だ。知っているのに、わからない。アリサの祖父母はこんな声でもなかった。

 戻る? 知らない人のところへ?


 あたしを呼ぶのは、誰?











 




 ホールでテーブルの上を片付けていたアリサが、いなくなった。閉店時間を過ぎたからお客は捌けている。ウナは静かな店内でアリサと手分けしてホールの掃除をしていたところだった。


 床にはお盆が派手な音を立てて転がり、ティーカップが割れている。


 転けたか、その場で放り投げてでもいなければこんな騒がしいことにはならない。アリサならこんな乱暴な扱いはしない。なのにアリサは忽然と、理由なく姿を消した。


「アリサちゃん?! どちらですの? ねぇお怪我は?!」


 どこからも出てこない。床を掃除し終わっても、戻って来なかった。トイレにもいない。 


 この時間、マーサは現金を締めて銀行へ行き、その足で帰宅するから聞けない。裏に回ると、マスターはゴミ出しをしていた。


「マスター、アリサちゃん見てませんか?」


「なんや、そこらにおるやろ。俺にはまだ帰りの挨拶してくれてへんわ」


「どちらにもいないのですわ。帰ったはずないのに。片付けだって途中ですもの」


「お手洗いちゃう?」


「いませんでした。まるで消えたみたい、ですわ」


 怪訝な顔をして、マスターは振り返った。


「せやったら、ちょお外まわって見てくるわ。ウナくんは店内で待っとって」


 店内の大掃除を徹底するつもりで、くまなく探した。トイレをなんども見に行った。棚の扉を開け閉めする。砂糖の大袋をどかしたりもした。子どものかくれんぼでもないのに。


 モップを隅から隅へかけるけれど、テーブルの下にもなにもいない。 


「ウナくん、助っ人連れて来たで」


 裏口からマスターに続いて、ジェッドとケイファスも入って来た。


「警察に話そて探しとったらちょうど街で見かけてん。知り合いやし、騎士と魔法使いのコンビやしでこないなときこそ頼らな損やろ」


「アリサがいないって聞いたが」


 長身の男が二人、店内を慎重に見渡す。


「私もずっと探してるのですけれど……ほんとうに、消えてしまったみたいですわ。外からも帰って来てません」


 おろおろと、すがるように騎士と魔法使いを見つめてしまう。いつもカフェを訪れるときとは、纏う雰囲気が違う。近寄りがたいほど。


 バケツにモップを絞るウナを見て、マスターは「そない心配しなや」と笑った。接客業を長くしているだけあって、笑顔ひとつにも人の心をほぐす魅力がある。仕事にも就いて自分は一人前だと思っていたのにウナはまだ子どもでしかなかった。


「俺はもうちょい、外見てくるで。こりゃ夜は閉店や。暗くなるよってあとは男手でなんとかする。ウナくんはしんどいやろ、帰ってええさかい。はよ家で休んどき」


 とは言われたものの、家に戻る気にはなれなかった。かといってここに座ってぼーっとしているわけにもいかない。


「私は裏や着替えの部屋をもう一度確認してきますわ」


 エプロンの裾を握っていた手を開いて、カウンターを跳ね上げた。

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