琥惑の森
「賛成しかねます。今夜の晩餐会は・・・殿下のお見合いも兼ねているんですよ?」
馬上でため息を吐き、シシリア=アルフォートは自らの後方に小さくなっていく城の尖塔に後ろ髪引かれる思いで見遣った。
文官である彼には日の光は眩しすぎるのか、恨めしそうに目を細める。どう考えても今夜中に戻ることは不可能で、それは例えば明日の夜であっても無理なのだ。そう考えてシシリアは赤茶けた金糸を左右に振ってまた溜息を吐いた。
「昨晩、王から仰せつかったばかりだというのに・・・」
「ああ、うん。わかってるよ。」
「王はお前ならエコを説得できるとお考えなのだ。」
「無理無理。この我儘王子がなんで私の言うことなんか聞くんだ?」
少し前を行きながら振り返りもせずに言ったヒーリアに、シシリアは肩を竦めながら隣で手綱を握る王太子をちらりと見た。胡散臭そうなものを見るようなシシリアの視線を受けとめながら、エンファルコードは「心外だな」と磨き抜かれた王子スマイルで返し小首を傾げた。
「そんな我儘王子じゃないつもりなんだけれど?」
涼やかな碧眼を甘やかに細める魅惑的な笑顔。この笑顔の破壊力は恐ろしい。老若男女問わず思わず見惚れてしまう所作だ。しかし、付き合いの長いシシリアは、晩餐会を欠席する口実ができたことに内心ほくそ笑んでいることなどお見通しだ。無駄に笑顔を振りまかれると、その思いに拍車がかかり青い瞳を眇めてまた溜息を零した。
「我儘でないというなら私に大量の仕事を振るのはやめてください。」
「有能だという証拠だからね。仕方ないよ。」
エンファルコードは自らの言葉にうんうんと頷き、王子スマイルを少しだけ崩して口角をほんの少し持ち上げた。
「だって、俺の片腕となってくれるんだったよね?」
「幼子の真心を言質にとるような腹黒王子に育つなんて・・・」
「見る目があったんだか、なかったんだか・・・な?」
一瞬見せた腹黒さを綺麗に消し去り、隣で馬を駆りながら笑う王太子に、シシリアは天を仰ぎヒーリアは苦笑しながら呟いた。
今頃王城では父王が侍女からの報告を受け、さぞかし嘆いていることだろう。そう考えるとさすがのエンファルコードも罪悪感を覚えたが、表向きはどうであれ王太子妃選びの晩餐会には辟易していたのだ。国内の年頃の女性たちは夢にまで見るという美麗さを誇り、彼の正妃になれずとも、側に上がりたいと願う娘たちは多い。貴族の娘たちや周辺国の姫君たちは、どんなチャンスも逃すまいと必死になっている。 王太子という身分で恋だ愛だと言うつもりはなかったが’見つからないのだから’今はその時ではないのだ。エンファルコードは「俺のせいじゃないのにな」とぽつりと漏らす。
「王のお気持ちもわかるがな。」
「すでに成人している王太子が婚約もまだということは、この国では実に異例だからね。王に至っては、幼い頃にすでに傍らに王妃がいらっしゃったのだから。」
ヒーリアとシシリアのまるで己の心の中を悟られたかのような言葉に、エンファルコードはついに笑みを崩し面白くなさそうに前を見据え「ふん」と鼻をならした。
「晩餐会に置き去りにされなかっただけ幸せだと思うんだけどね?」
「晩餐会の警護より、ファージャ狩りの方がマシだ。・・・何より城での訓練より遥かに有益だ。」
「ファージャは賢い動物ですから、私が居ないと捕まえられないでしょう? あの毛皮は高く売れるんです。」
真面目な顔で答えた二人は息ぴったりの間合いで言葉を続ける。
「それに、いつも傍にいてねって、お願いされましたしね。」
「びーびー泣きつきながら、な。」
揶揄するようなその言葉に、王太子はらしからぬ舌打ちをひとつした。
幼馴染でもあるこの二人の腹心には敵わない。
だからこそ、このファージャ狩り――・・・最近国内に不穏な噂をもたらす者たちの正体を突き止めること――に同行させたのだ。王太子自ら動くのは、この時期に不穏分子が蠢いているという事実を広めたくないからであるのだが、それが無謀であることも彼なりに承知していた。
「先を急ごう。」
エンファルコードはマントを払い、愛馬に言い聞かせるように呟いた。
『森がざわついている。』
その知らせは東方に位置する広大な森――琥惑の森の民からであった。
琥惑の森。
エンファルコードは10代になりたての頃、王家のしきたりで1年余りをこの森を治めるフェルーナの民のもとで過ごしていた。
フェルーナとはこの国で随一の腕を誇る狩猟の民でもある。もともと貴族階級ではないフェルーナの民が琥惑の森一帯の統治を任せれているのは、かの地は賊が潜める洞穴や未だ人を寄せ付けない深森の地も多く、森の力を借りることのできない者では到底統治できないからであった。また、初代王妃や近しいところで3代前の王妃がこのフェルーナの民の出身であったことなどから、王家とも繋がりが深い。
豊かな森には野生の動物も多く、それらを食料とする為に仕掛けられた罠もあちこちに点在しているし、時には人知の及ばない不思議な現象が起こることもあった。深みに一度迷い込んだら、二度と帰ってくることができなとも言われている。
それでも、この地で過ごしたことのあるエンファルコードには琥惑の森は危険であるというより、むしろ庇護してくれるような場所であると感じていた。――神聖な場所。多分、己の一生を左右するような。
「ガボットからの知らせでは『森全体がざわつき、何者かが侵入している』との事だったよね?」
ガボットとはフェルーナの民を治めている若き当主だ。彼からの知らせでは、ここ数日森の様子がおかしいというのだ。風もないのに木々がざわめき立っているという。そのざわめきは日増しに大きくなり、人々の心までざわつかせているという。
エンファルコードは、彼と同じくフェルーナの民のもとで過ごしたヒーリアの背中に問いかけた。ほとんど光の差し込まない森の中では黒銀の髪が周囲の濃い緑を吸収していくように見えた。
「エコもそう感じてるんだろう?」
周囲に目を配りながら、ヒーリアは気遣わしげに答えた。
ここ数日の胸騒ぎの正体。
その答えがここにあることは間違いなさそうだった。しかし、どこか腑に落ちない様子で胸に手をあてると、エンファルコードは考え込むように目を閉じた。
「わからないんだ。確かに、ざわついて仕方ないんだけれど・・・これは・・・」
「これは?」
饒舌な王子が口ごもる様に、シシリアも不思議そうに問いかける。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・ダメ。うまく言葉にできない。」
エンファルコードの言葉にがくりと肩を落とした二人だが、ほぼ同時に何かを聞きつけ視線を彷徨わせた。
「人の気配・・・」
「ひとり、か?」
にやり、と笑うヒーリアとシシリアにエンファルコードが苦笑する。
「一番楽しんでるのは誰だろうねえ?」
「殿下の心配の種を取り除くのが」
「私たちの使命でしょう?」
移動用の小さな弓を手にして微笑む腹心たちに、エンファルコードは苦笑した。