彼女は私のことを狙っている
当節はネコも杓子も恋焦がれる季節になったと言うものだろう。春が始まった途端に、やれ彼氏だ恋人だなどと誰も彼もが喧しい。肉体と精神がアンバランスな私たちに恋愛感情を自制する術などはなく、校内は浮かれきっていた。
そんな中で取り残されている──いや、取り残されていたのが私である。色恋沙汰に疎く、ましてや恋愛感情の『れ』の字すら感じたこともない人種だったのだ。
だから、春麗の季節において、校舎裏に呼び出されることなど考えてもいなかった。それどころか、告白されることなんて思いつきやしなかった。
そんな想定外の予定は私の気持ちを重くさせる。それに反して私の待ち人は、はやる気持ちを抑えられず、ソワソワとしているようなのが遠目からでもわかった。
その姿に、私はため息をつきながら歩いていく。すると、向こうもこちらに気づいたようで、それはそれは可愛らしい笑顔を浮かべていた。
彼女──藤花硝子は校舎裏の大きな木の下で待っていた。可憐で穏やかに、それでいて美しく立っていた。
私は彼女の元へと着々と進む。そして、約三十センチメートル、それだけを残して立ち止まった。
私を見つめている瞳は昔から変わらない。まっすぐに伸びるそれはあまりにも眩しいのだ。
だから、離れてここまで来た。それでも硝子はここまで追ってきたのだ。そして、あのころと変わらない調子で、こんなことを言うのである。
「ねぇ、お姉ちゃん。好きだよ。付き合って」
硝子の瞳は潤み、頬を紅潮していた。整った顔でそんなことをしてくる彼女は、今までで一番かわいく見えた。正直、女の私でさえもぐらっと来るほどである。
それでも、ただ可愛いという理由だけでは私は動かないのだ。
だから、誤魔化す。
「え、なんで、そんな突然に」
「突然じゃないよ、私はずっと言おうと思ってた」
一年前と同じだ。延々と繰り返したことだ。私は心の中でため息をつく。
硝子から向けられる好意にはずっと気づいてた。いく年も前からわかっていた。だけれども、それが私には嬉しいといったものではない。むしろ、厄介に感じた。重く感じた。
恋愛感情のわからない私には、それを抱いたまま付き合うことを不誠実を思えた。
だから、距離を取ろうと地元ではないこの学校に、一人暮らしの環境に、私は逃げたのだ。そうやって何度も先延ばしにしようとした。今回もそうするつもりだった。
「と、友達同士ってのはダメ?」
「もうそんなのじゃ満足できないの、もっとお姉ちゃんに触れたい。感じたい。」
「えっと、その──」
それは直接的な要求だった。想定していた二倍はエスカレートしていた。
本当に、友達だけでは満たせないような関係。それが何を指しているのか想像はできたとしても、それを私たち二人に当てはめられない。
躊躇う私に対し、彼女は後押しするように可愛らしく小首をかしげる。
上目遣いによって威力を増した大きな瞳は真っ直ぐに私を捕らえていた。
「ダメかな?」
「ダメっていうか、ほら私たち、女の子同士だし」
「そんなの関係ないよ」
抵抗、しかし並行戦である。開けていた三十センチメートルの距離など彼女にとってはないに等しい。数歩近づかれるだけで、ささやかな防衛ラインは呆気なく突破されるのだ。
「ちょっと、ち、近い」
小さな手が私の服をギュッと掴んでいた。胸と胸が触れ合い、心臓の音まで聞こえてしまいそうな錯覚に陥る。
目の前の女の子は顔を真っ赤にして、私のことをじっと見ていた。
「……まだ全然遠いよ」
「ほら、小さい頃からの刷り込みとか、恋愛感情が未熟とか色々──」
黒くて丸い瞳はまるで宇宙のようで、飲み込まれそうで、慌てて目を逸らす。そして、思い浮かんだ言葉を端から捲し立てる。
そんなことをするから、私はいつも後悔する。
目に見えないところで彼女はポツリと呟いた。
「そっか」
慌てて視線を戻しても、そこに硝子の瞳は存在しない。
俯き、前髪の中へと隠れたその色は、私にはもう読み取れなかった。
「お姉ちゃんはそうなんだね」
弱った声音を皮切りに、彼女の体は私から離れていった。硝子が私に背を向けると、何かが一滴、飛んでいったのだ。
──彼女の目に浮かんだ涙に気づかなかったのは、これが二度目である。
だから、そんな自分の不甲斐なさが憎い。
心の中でだけ舌打ちをもらす。私は彼女を宥めることへと切り替えようと、手を伸ばし、その影をつかもうとした。
だけど、それよりも早くに彼女は遠ざかるのだ。
「硝子?」
「ううん、私が甘かった。お姉ちゃんも同じ気持ちなんだと思ってた」
「わ、私個人としては硝子のこともちろん好きだし、でもそれは恋愛感情とかじゃなくて、その──」
取り留めのない言葉は硝子のしゃくり上げた声で遮られる。
地面には何粒もの涙の跡ができていた。
彼女は鼻を鳴らし、手で顔を拭い、それから振り返った。瞳には光が満ちていた。
だけれども、赤くなった目や、涙の跡まではすぐに消すことはできない。
それでも、つとめて明るい声で彼女は笑う。
「うん、知ってるよ。だから私も一回考えてみるね」
──断れた、のだろうか。
やけに胸にひっかかる笑顔だけを残して、硝子は私の前から去っていった。
木の下に一人だけ取り残された。
幹に手をついて、私はため息を吐く。
「なんでよ、泣かないでよ……」
そして、この木が伝説の木と呼ばれていることを今、思い出したのだった。




