職人の手と、静かなる怒り
ルークは叫ばなかった。
声を上げて立ち尽くす一秒すら、今の彼女から命を削り取ると直感したからだ。
床を蹴ったルークは、抱えていた真鍮の新型コアを毛布の上へと滑らせるように置き、そのままの勢いで魔導ストーブの前へと滑り込んだ。
バチッ、と青白い火花が散り、むき出しの銅線回路がヒルデガルドの掌の皮膚を焼く嫌な音が響いている。素手で触れればルーク自身も感電して弾き飛ばされる。ルークは迷わず、分厚い絶縁用の作業革手袋を嵌めた両腕を彼女の細い脇の下へと差し込み、自分の体重を後ろへ預けて一気にその身体を引き剥がした。
バチィッ! と最後の火花が爆ぜ、回路から彼女の両手が離れる。
「……っ、あ……」
糸が切れたように、ヒルデガルドの華奢な身体がルークの胸の中へと倒れ込んだ。
酷い有様だった。ルークが貸した革外套の背中には泥靴で蹴られた跡がいくつも残り、だらりと垂れ下がった彼女の白く細い両手は、掌の皮が赤く爛れて血が滲んでいる。体内の魔力を限界まで吸い出されたせいで、彼女の唇は雪のように白く、浅い呼吸を繰り返すたびに小さな肩が痙攣していた。
それでも、ヒルデガルドは薄く開いた漆黒の瞳でルークの顔を捉えると、震える唇をわずかに動かした。
「……ルーク、様……。あの子たち、少しは……あたたかく、なりましたか……?」
声になっていない、かすれた吐息のような問いかけだった。自分の手の激痛を訴える言葉など、一言もなかった。
ルークの奥歯が、ギリッと音を立てて噛み締められた。
胸の奥から突き上げてくる激情を、ルークはすべて飲み込み、職人の冷徹な集中力へと無理やり変換した。
「ああ。君が守り抜いた。……あとは俺の仕事だ。目を閉じていろ」
ルークはヒルデガルドを毛布の上へと静かに寝かせると、すぐさまストーブへと向き直った。
ここからは一秒の遅れも許されない。
ルークは革手袋を外し、まだ熱を帯びているストーブの内部へと素手を突っ込んだ。ヒルデガルドの血がこびりついた銅線の端子をペンチで素早く整え、工房の炉で鍛え上げてきたばかりの「新型・高効率魔力変換コア」を、ストーブの腹の空洞へと正確に叩き込む。
ガチン、と重厚な金属音が響き、四隅の固定ボルトをレンチで目にもとまらぬ速さで締め上げていく。迷いも無駄も一切ない、何千回と鉄と向き合ってきた熟練の職人の手つきだった。
「ルーク兄ちゃん……っ! これ、使って!」
毛布の中から這い出してきたトマと幼いリリィが、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で駆け寄ってきた。
二人が薄いシャツのお腹の下から取り出したのは、自分たちの体温で必死に温めながら守り抜いた、四つの「再生魔導石」だった。今朝、ルークがヴァルモン侯爵家から回収してきた石だ。
「怖いおじさんたちが来て、薪も石もぜんぶ持ってっちゃったけど……これだけは、ぼくたちのお腹の下に隠して守ったよ! ヒルダ姉ちゃんが、上から覆いかぶさって蹴られながら守ってくれたんだ!」
ルークが受け取って確かめると、四つのうち二つの底面には、トマたちがヤスリで削り出した「ドリル穴の不正跡」がはっきりと露出していた。そして残りの二つは、混じり気のない純粋な琥珀色の結晶だ。
「……よく守ったな、二人とも。最高の仕事だ」
ルークはトマの頭を一度だけ強く撫でると、不正跡のない琥珀色の魔導石を一つ選び、新型コアの台座へとセットした。
そして、側面の起動レバーを力強く引き上げる。
ヴンッ――と、低く力強い魔力の駆動音が広間に響き渡った。
次の瞬間、新型コアの内部に組み込まれた二重の銅製反射板が琥珀色の光を何倍にも増幅し、熱の対流を生み出す小さな風車が静かに回転を始めた。
格子窓から、これまでとは比較にならないほど豊かで柔らかい熱波が、ブワリと広間全体へと吹き出した。氷室のように凍てついていた部屋の空気が、みるみるうちに春の陽だまりのような温もりへと塗り替えられていく。
ルークは手を止めなかった。そのまま工具箱から金槌と太い鉄釘を掴み取ると、床に蹴り散らかされていた木の板を拾い上げ、割れた窓枠へと的確に打ち付けていく。
カン、カン、カンッ! と小気味よい槌音が響き、わずか数分のうちに、吹き込んでいた氷の暴風が完全に遮断された。
風が止み、ストーブの温風が部屋の隅々まで行き渡ると、唇を紫にして震えていた子どもたちの頬に、ようやく生きている人間の赤みが戻ってきた。緊張の糸が切れたリリィたちが、暖かいストーブの前で丸くなり、すうすうと規則正しい寝息を立て始める。
広間に、パチ、パチ、と魔導石が優しく燃える音だけが満ちた。
ルークは工具を置き、毛布の上で浅い息をついているヒルデガルドの傍らへと戻った。
懐から取り出したのは、工房を出る前に薬師の店を叩いて買っておいた、魔力火傷用の白い軟膏と清潔な麻の包帯だった。ルークは彼女の傍らに片膝をつき、煤と血で汚れた彼女の小さな左手を、壊れ物を扱うようにそっと持ち上げた。
「……っ、つ……」
濡らした清潔な布で血を拭き取り、ひんやりとした軟膏を爛れた掌に塗ると、ヒルデガルドの長い睫毛がピクリと震え、うっすらと瞼が開いた。
「……ルーク、様……?」
「動くな。今、薬を塗って包帯を巻く」
「ごめんなさい……。私、約束を、破ってしまいました……。絶対に生身の魔力は流さないって、約束したのに……」
消え入りそうな声で呟き、ヒルデガルドは申し訳なさそうに視線を落とした。怒られると思ったのか、その細い肩が小さくすくんでいる。
ルークは何も言わず、彼女の左手から右手へと軟膏を塗り広げ、白い包帯を幾重にも丁寧に巻き上げていった。
だが、包帯の端を留め終えたルークの指先は、自分でも抑えきれないほど微かに震えていた。
ルークは包帯に包まれた彼女の両手を、自分の大きな両手でそっと下からすくい上げるように包み込み、そのまま自分の額へと押し当てた。
「……ルーク様?」
「……怖かった」
絞り出すような、ひどく低く掠れた声だった。
いつも貴族の前で貼り付けている余裕も、職人としての冷静な仮面も、今のルークには残っていなかった。
「扉を開けて、君がストーブの前で倒れかけているのを見た瞬間……心臓が止まるかと思った。また俺の目の前で、誰かを庇って、その手が冷たくなるんじゃないかと思って……っ」
脳裏に焼き付いて離れない、前世の夕暮れの階段。血だまりの中で握りしめた玲奈の手と、目の前のヒルデガルドの手が重なり合い、ルークの黄金の瞳が苦しげに揺れた。
「俺の服が汚れるだとか、目が穢れるだとか、そんなくだらない遠慮はどうでもいい。……ただ、俺の前で勝手に傷ついて、勝手にいなくなろうとするな。それだけは、絶対に許さない」
額に押し当てられたルークの掌から、火傷の痛みを溶かすような熱い体温と、激しい鼓動が伝わってくる。
ヒルデガルドは息を呑み、自分の手を包み込んでいる白銀の青年を見つめた。
「……私、生まれてからずっと、誰からも必要とされていませんでした」
ぽつりと、静かな夜気に溶けるような声で、ヒルデガルドが語り始めた。
「この黒い髪と目のせいで、親からも捨てられて、街の人からは石を投げられて……。でも、この孤児院の子どもたちだけは、夜中に怖い夢を見て泣いている時に私が手を握ると、『ヒルダ姉様の手は温かいね』って笑ってくれたんです」
漆黒の瞳から、透明な涙が一筋、すっとこぼれ落ちて毛布を濡らした。
「私の不吉な色を見ないで、私の手を必要としてくれたこの子たちの手が、氷みたいに冷たくなっていくのを見たら……どうしても、手を離すことなんてできませんでした……」
叫ぶでもなく、ただ静かに吐露された彼女の孤独と献身に、ルークは深く息を吐き出し、包帯の上から彼女の手をもう一度だけ強く握りしめた。
「……わかった。君がどれだけこの場所と子どもたちを大切にしているか、痛いほどわかったよ。だから、もう二度と君にこんな無茶はさせない」
ルークは顔を上げ、机の上に置かれた二つの石――トマとリリィが命懸けで守り抜き、底面にドリル穴の跡が露わになった「ヴァルモン侯爵家の使用済み魔導石」へと視線を向けた。
黄金の瞳に、絶対零度の静かな炎が宿る。
「工房からここへ戻る途中、ヴァルモン侯爵家の筆頭家令・セバス殿のところへ急使を走らせておいた。侯爵家に納品された魔導石に重大な詐欺の疑いがある、明日の朝一番に検分をお願いしたい、とね」
窓の外を見れば、あれほど荒れ狂っていた黒吹雪がいつの間にか弱まり、東の空がわずかに白み始めていた。
商業ギルドの開門の鐘が鳴り、悪徳商人ボルグが執行官を連れて乗り込んでくる「約束の朝」が、すぐそこまで迫っている。
「少しだけ眠っていろ、ヒルダさん。……夜が明ければ、すべての決着をつける」
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