凍える夜と、命を削る魔力
ガシャンッ!!
砕け散った窓ガラスの破片が、ランプの光を反射しながら広間の床へと降り注いだ。
「きゃあああっ!!」
割れた窓から、獣の咆哮のような黒吹雪と氷の粒が渦を巻いて吹き込んでくる。机の上の魔導ランプの火が大きく揺らぎ、作業していた子どもたちが悲鳴を上げて身を寄せ合った。
その直前――年長の少年・トマの手の中では、侯爵家から回収された魔導石の底の黒い皮が削り落とされ、透明な樹脂で巧妙に塞がれた「細いドリルの穴」が確かに姿を現していた。
「トマ、リリィ! その石を早く服の中に隠して!」
ヒルデガルドは咄嗟に叫び、ルークから借りた厚手の革外套を大きく広げて子どもたちを背後に隠した。
ドカッ、と音を立てて窓枠を蹴り破り、雪まみれの黒い外套を着た三人の大男――ボルグの用心棒たちが、棍棒を手に土足で広間へと雪崩れ込んでくる。
「へっ、こんな吹雪の夜に何コソコソと石なんか削ってやがる! 会頭からの命令だ、このボロ屋敷に残ってる魔導石と薪は、一欠片残らず俺たちが回収していくぜ!」
「な、何をなさるのですか! ここは子どもたちが寝起きする場所です、出て行ってください!」
ヒルデガルドは壁際に立てかけてあった掃除用の竹ボウキを掴み、震える足に力を込めて男たちの前に立ち塞がった。
だが、大男の一人が鼻で笑い、無造作に振り抜いた棍棒が竹ボウキの柄を真ん中からへし折った。
バキィッ! と乾いた音が響き、折れたホウキの先が床を転がる。
「うっ……!」
「邪魔すんじゃねえよ、忌み子の小娘が! おい、炊事場の薪と、木箱の石を全部袋に詰めろ!」
二人の男が奥へと踏み込み、孤児院に残されていたわずかな薪と、ボルグが以前に売りつけた不良品の魔導石を麻袋へと乱暴に放り込んでいく。
その間、トマと幼いリリィは、たった今削り出したばかりの「侯爵家の魔導石」を数個、自分たちの薄いシャツのお腹の下へと必死に押し込み、床にうずくまって息を潜めていた。
「おい、そこのガキども! 腹の下に何を隠してやがる、出せ!」
男の一人がトマたちの不自然な様子に気づき、泥だらけのブーツで近づいた。
しかし、そのブーツが子どもたちに届くより早く、ヒルデガルドが身を投げ出すようにしてトマとリリィの上へと覆いかぶさった。
「いけません……っ! この子たちには、指一本触れさせません!」
「チッ、しつこい女だ!」
ドゴッ、と鈍い音が広間に響いた。
男が蹴り上げたブーツのつま先が、ヒルデガルドの脇腹から背中へと容赦なくめり込む。
「――っ、く、うぅ……!」
肺から空気が押し出され、ヒルデガルドの口端から赤い血の筋が垂れた。それでも彼女は、ルークの分厚い革外套で子どもたちを包み込んだまま、石像のように固く背を丸めて決して退こうとはしなかった。もう一度蹴りつけられても、彼女は自分の腕の中で震える小さな命と、彼らが守っている「ルークとの約束の石」を死守し続けた。
「……ふん、ただのガキを庇ってやがるだけか。まあいい、木箱の石も薪も全部回収したぞ」
袋を担いだ仲間が戻ってくると、男はヒルデガルドの黒い頭髪を忌々しげに見下ろし、床にツバを吐いた。
「窓も割ってやったし、火の気はこれで完全にゼロだ。この『北の黒吹雪』の中じゃ、夜明けまで生き残れるかどうか怪しいもんだな。……おい小娘、夜明け前にもう一度様子を見に来てやる。ガキどもが凍え死ぬのが嫌なら、その時は大人しく土地の権利書に指印を押すんだな!」
下卑た哄笑を残し、男たちは割れた窓から吹雪の闇へと消えていった。
あとに残されたのは、氷点下の暴風が吹き荒れる、暗く冷たい広間だけだった。
「ヒルダ姉ちゃん……っ! 血が出てる、ぼくたちのせいで……!」
「へ、平気よ、トマ……。ルーク様のこの外套が分厚かったから、全然痛くなんかないわ。……それより、石は無事?」
ヒルデガルドが血の滲んだ唇で微笑むと、トマとリリィは涙をポロポロとこぼしながら、懐から温められた数個の再生魔導石を取り出して頷いた。
ヒルデガルドはすぐさま木の板を持ってきて割れた窓に打ち付けようとしたが、釘も金槌も男たちに蹴り散らかされており、隙間から吹き込む氷の風を止めることはできなかった。
時間が経つにつれ、広間の温度は恐ろしい速度で奪われていった。
床に敷いた毛布の上に子どもたちを集め、ありったけの布を上から重ねても、石造りの壁と床から這い上がってくる底冷えはどうしようもなかった。
一時が過ぎ、二時が過ぎる頃には、一番幼いリリィの身体からガタガタという震えすら消え始めていた。
「……さむい、よぉ……。ヒルダ、ねえちゃん……てが、いたいよぉ……」
うわ言のように呟くリリィの唇は、死人のように暗い紫色に変わっていた。
ヒルデガルドが慌ててリリィの小さな手を両手で包み込む。だが、その小さな指先はすでに感覚を失うほど氷のように冷え切っており、呼吸も浅く、今にも意識の糸がぷつりと途切れそうになっていた。
他の子どもたちも、青白い顔で互いの肩を抱き合いながら、眠るように意識を失いかけている。このままでは、ルークが戻る夜明けを待たずに、幼い命が凍りついて消えてしまう。
(……冷たい。リリィの手が、どんどん冷たくなっていく……)
掌に伝わる「失われていく体温」に触れた、その瞬間だった。
ズキンッ、とヒルデガルドの頭蓋の奥で、雷に打たれたような激しい痛みが走った。
『――うそ……やだ、死なないで……! ごめんなさい、私のせいで……!』
脳裏にフラッシュバックしたのは、見たこともないはずの、夕暮れの薄暗い階段の下だった。
赤い血だまりの中で、自分と幼い妹を庇って倒れている、名も知らぬ一人の少年。必死に握りしめたその少年の手が、自分の掌の中で少しずつ、取り返しのつかない冷たさへと変わっていく、あの魂が引き裂かれるような絶望の感触――。
「っ、はあ、はあっ……!」
ヒルデガルドの漆黒の瞳から、熱い涙が堰を切ったように溢れ出した。
あれが誰なのか、いつの記憶なのかは分からない。けれど、魂の奥底に刻まれた激しい後悔だけが、彼女の胸を焼くように叫んでいた。
「いや……っ、いやぁっ! もう二度と、私の目の前で、大切な人の手が冷たくなるなんて絶対に嫌……っ!!」
ヒルデガルドは弾かれたように顔を上げた。
視線の先には、部屋の隅に置かれた古い魔導ストーブがあった。中心の「魔力変換コア」が抜かれ、ぽっかりと口を開けた空洞の奥に、熱を伝えるための太い銅線の魔力回路がむき出しになっている。
『どんなに部屋が冷え込んでも、むき出しの回路に君自身の生身の魔力を直接流し込むことだけは、絶対にやめてくれ。君のその綺麗な手が、内側から焼けただれてしまう』
出発前にルークが言った真剣な警告の声と、彼の黄金の瞳が脳裏をよぎる。
約束を破ることになる。こんなことをすれば、自分の手はどうなるか分からない。
けれど、振り返れば、紫色の唇で小さく震えるリリィたちの姿があった。
「……ごめんなさい、ルーク様。でも、私……この子たちを失うわけにはいかないの……っ!」
ヒルデガルドは立ち上がり、ストーブの前へと這うように進み出た。
そして、深呼吸を一つすると、コアの抜かれたストーブの内部へと両手を差し込み、氷のように冷たいむき出しの銅線回路を、素手のまま力いっぱい握りしめた。
「――お願い、私の命を全部あげるから……この子たちを、温めてぇっ!!」
祈りとともに、ヒルデガルドが自身の体内にあるわずかな魔力を解放した。
バチバチィッ!!
闇の中で、青白い魔力の火花が激しく爆ぜた。
安全弁であるコアを通さない銅線の回路が、飢えた獣のようにヒルデガルドの生命力と魔力を強制的に吸い上げていく。同時に、冷え切った鉄の抵抗によって暴走した熱エネルギーが、回路を伝って彼女の小さな掌へとまともに逆流した。
ジュウッ、と皮膚の焼ける残酷な音が響き、焦げた肉の匂いが立ち昇る。
「っ、ぎ、あああああっ……!!」
骨の髄まで灼き尽くされるような激痛に、ヒルデガルドは喉を反らして声にならない悲鳴を上げた。
白く細かった掌の皮が一瞬にして赤く水ぶくれになり、破れた皮膚から鮮血が滲み出して銅線を濡らす。視界がチカチカと明滅し、全身の血液が沸騰するような苦しみに、今すぐ手を離してしまいたいと本能が叫んでいた。
だが、彼女は血の滲む唇を噛み切って痛みに耐え、銅線を握る指先にさらに力を込めた。
(離さない……絶対に、離すものですか……! 私が手を離したら、あの子たちが冷たくなってしまう……!)
彼女の命を削り取って生み出された魔力が、ストーブの熱放出板を少しずつ、淡い茜色へと染め上げていく。
格子窓から、微かだが確かな温もりが、凍てついた広間へとじんわりと広がり始めた。毛布の中で震えていたリリィの顔にわずかな赤みが戻り、子どもたちが無意識のうちにストーブの温もりの方へと身を寄せていく。
「あ……あ、よかった……。あたたかい、ね……」
意識が遠のき、視界が真っ暗に染まっていく中、ヒルデガルドは血と火傷でボロボロになった両手をストーブに縫い付けたまま、満足そうに微笑んでゆっくりと瞼を閉じかけた。
――まさに、その時だった。
吹雪の荒れ狂う外から、雪を蹴散らして走る激しい足音が近づき、孤児院の重い木扉が外から勢いよく押し開けられた。
「ヒルダさん、みんな! 遅くなってすまない、新型のコアが完成したぞ――!」
全身に白い雪を纏い、完成したばかりの真鍮製のコアを胸に抱えて飛び込んできたルークの声が、広間の入口でピタリと凍りついた。
割られた窓。荒らされた室内。鼻を突く、皮膚の焦げた異臭。
そして、赤熱するストーブの前で、血まみれの両手でむき出しの回路を握りしめたまま、糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちようとしている黒髪の少女の姿。
「――ヒルダ、さん……っ!?」
ルークの黄金の瞳が驚愕と絶望に見開かれ、手にしていた工具箱がガシャリと床へ滑り落ちた。
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