悪徳燃料商の罠
吹き込んできた氷のような北風が、広間の空気を一瞬にして凍りつかせた。
土足のまま踏み込んできたのは、脂ぎった頬に金縁の指輪をいくつも光らせた中年男――ボルグと、丸太のような腕に棍棒を提げた二人の用心棒だった。
ボルグの小さく濁った目が、床にへたり込んでいるヒルデガルドの素顔を捉え、面白いものを見つけたかのように下卑た色に歪んだ。
「うわっ、噂には聞いてたが、ヴェールの下は本当に真っ黒な魔女のツラじゃねえか! 髪も目もドブみたいに黒ずんでやがる。こんな穢れた忌み子が居座ってるなんざ、これから貴族様が集まる再開発の一等地に対する冒涜だぜ」
ボルグは床にツバを吐き捨て、手にした羊皮紙の借用書をバサリと振った。
「さあ、耳を揃えて金貨三十枚を出しな! 払えねえなら、今この場でこのボロ屋敷を叩き壊して更地にしてやる!」
「ま、待ってください、ボルグ様!」
ヒルデガルドは涙の跡を袖で拭い、震える足で必死に立ち上がった。
「約束が違います……! 去年の冬にお借りした魔導石の代金は、春から毎月少しずつお返しする契約だったはずです。どうして急に全額だなんて……!」
「ああん? これだから無知な小娘は困るねえ。ここをよく読んでみな」
ボルグは鼻で笑い、羊皮紙の隅に虫の足のような極小の文字で書き込まれた特約条項を指先で叩いた。
「『周辺の区画整理および担保土地の価値に変動が生じた場合、債権者は即時一括返済を要求できる』――ちゃんと商業ギルドの公印も押してある正式な契約書だ。お前が自分の指印を押したんだぜ? 文句があるなら今すぐ金貨三十枚を出しな!」
「そんな……その時は吹雪で子どもたちが凍えそうで、契約書を読む余裕なんて……」
「そりゃお前の都合だろうが! おいお前ら、手始めにその壊れたストーブと壁からぶっ壊せ!」
ボルグが顎をしゃくると、二人の用心棒が獰猛な笑みを浮かべて棍棒を振り上げた。子どもたちが悲鳴を上げてヒルデガルドの修道服の裾にしがみつく。
ヒルデガルドは咄嗟に両手を広げ、子どもたちの前に立ち塞がって目を閉じた。
だが、振り下ろされるはずの暴力は来なかった。
代わりに彼女の視界を覆ったのは、ふわりと温かい革の匂いがする厚手の外套と、太陽の光を織り上げたような白銀の髪だった。
「……ルーク、様……?」
いつの間にか彼女の前に割り込んでいたルークが、自分の外套を脱いでヒルデガルドの頭からすっぽりと被せ、彼女の美しい黒髪を男たちの汚らわしい視線から完全に遮っていた。
そのままルークは一歩前に出ると、棍棒を構えた用心棒たちの前に音もなく立ち塞がった。
「なんだてめえは! 邪魔するならお前ごと叩き潰すぞ、色男!」
用心棒が怒鳴り声を上げるが、ルークは眉一つ動かさなかった。ただ、絶対零度の冷気を湛えた黄金の瞳で、奥にいるボルグを真っ直ぐに見据える。
「……そちらの借用書、商業ギルドの公印があるとおっしゃいましたね。ボルグ商会の会頭殿」
静かだが、広間の隅々まで凛と響き渡る声だった。
ボルグはルークの人間離れした白銀の美貌に一瞬だけ気圧されたように目を瞬かせたが、彼の着ている作業用の革エプロンを見るなり、すぐに傲慢な鼻息を荒くした。
「ただの魔道具職人か。引っ込んでろ、これは俺とこの忌み子どもの正当な取引だ!」
「いいえ、無関係ではありません。私はこの先のヴァルモン侯爵家で、お屋敷の魔導ストーブと燃料の管理を一任されているルークと申します」
ルークがあえて「貴族が最も好む優雅な微笑み」を唇に浮かべて名乗った瞬間、ボルグの肩がピクリと跳ねた。
「なっ……ヴァ、ヴァルモン侯爵家だと……!? お前があの、奥様方がこぞって噂している白銀の職人か……!」
「ええ。ボルグ商会といえば、確かヴァルモン侯爵家にも『最高級の魔導石』を納めておられましたね。……この土地を更地にして、侯爵夫人たちが集うサロン通りとして高く売り捌くおつもりなのでしょう?」
図星を突かれたボルグが、気まずそうに頬の脂汗を拭った。彼にとってヴァルモン侯爵夫人は最大の太客であり、今後の再開発ビジネスでも絶対に機嫌を損ねてはならない相手だった。
ルークは一歩踏み込み、ボルグの手にある借用書を冷ややかな指先で示した。
「その契約書には『一括返済を要求できる』とありますが、商業ギルド法の第十二条はご存知のはずです。建物の強制取り壊しおよび立ち退きには、債務者への最終通告から『翌朝のギルド開門時の鐘が鳴るまで』の猶予期間を設け、執行官を立ち会わせる義務がある」
「ぐっ……!」
「今この場で棍棒を振るえば、それは正当な取り立てではなく、ただの『強盗傷害』です。侯爵夫人のお茶会で、お屋敷の出入り商人が無法な暴力で孤児院を襲ったとお耳に入れたら、奥様はどのようなお顔をなさるでしょうか?」
黄金の瞳が、獲物を追い詰める猛禽のように細められる。
暴力を振るえば侯爵家との取引が吹き飛ぶ。だが、どうせ貧乏職人と孤児院に、明日の朝までに金貨三十枚という大金など用意できるはずがない。頭の中で素早くそろばんを弾いたボルグは、忌々しげに舌打ちをして用心棒たちの肩を叩いた。
「……チッ、口先だけは達者な野郎だ。いいだろう、侯爵夫人に免じて、ギルド法通り『明日の朝の鐘が鳴るまで』待ってやるよ!」
ボルグは借用書を懐にしまい込むと、外套を被ったままのヒルデガルドを見下ろして下卑た笑みを張り付けた。
「だがな、明日の朝一番にはギルドの執行官を連れて、合法的にここを更地にしてやる! 金貨三十枚が払えなきゃ、その黒髪の小娘を鉱山の労働奴隷として売り飛ばしてやるからな、せいぜい最後の夜を震えて過ごしやがれ!」
吐き捨てるような高笑いを残し、ボルグたちは荒々しく足音を鳴らして孤児院から去っていった。
冷たい風が吹き込む玄関をルークが閉めると、緊張の糸が切れたように、ヒルデガルドが床へと崩れ落ちた。
「……私の、せいです……」
ルークの外套を握りしめたまま、ヒルデガルドの肩が激しく震え始める。
「去年の大寒波の夜……リリィが高熱を出して、他の子たちも唇を紫にして震えていたから……。ボルグ様から買った魔導石をストーブに入れたのに、なぜか一晩で真っ黒になって熱が出なくなってしまって……。子どもたちを凍死させないためには、ボルグ様から次々と新しい石をツケで買うしかなくて……っ」
ぽろぽろと床にこぼれ落ちる涙。
「私が無知で、愚かだったから……みんなの家まで奪われてしまう。全部、私のせいなの……っ!」
その悲痛な泣き声が、ルークの胸の奥にある古傷を激しく抉った。
『あんたは悪くない、全部私のせいなの!』
前世の旧校舎で、自分を責めながらモップを握りしめていた玲奈の横顔が、目の前で泣き崩れるヒルデガルドと完全に重なり合う。あの日も、今も、この少女はいつだって誰かを守るために自分の身を削り、すべての罪を一人で背負い込もうとするのだ。
(……違う。君は何一つ間違っていない)
ルークの胸の奥で、冷たい怒りが青い炎となって燃え上がった。
『なぜか一晩で真っ黒になって熱が出なくなった』――ヒルデガルドのその言葉に、魔道具職人としてのルークの直感が鋭く警鐘を鳴らしていた。
カチン、と静かな広間に小さな金属音が響いた。
火を落としてから三十分が経過し、冷え切った魔導ストーブの「熱ロック」が解除された音だった。
「……待っていろ、ヒルダさん」
ルークは険しい表情でストーブの前に膝をつくと、外装の格子カバーを開け放った。
焼き切れた魔力回路の中心に、先ほどまで燃えていた魔導石が鎮座している。まだ買ってから三日しか経っていないというのに、その石は表面が黒ずんでいるどころか、コールタールのようなドロドロとした黒い脂を噴き出して不気味に固まっていた。
ルークは鉄のトングでその黒い魔導石を掴み出し、石畳の床の上に置いた。
そして、工具箱から鋼のタガネと重いハンマーを取り出すと、石の中心にタガネの刃を当て、渾身の力で振り下ろした。
ガツンッ!!
硬質な音とともに、魔導石が真っ二つに割れて転がった。
その断面を見た瞬間、ルークの黄金の瞳が刃物のように鋭く細められた。
「……やっぱり、そういうことか」
本来なら均一な琥珀色をしているはずの魔導石の内部には、底の方から細いドリルで人工的な穴がいくつも穿たれていた。そしてその穴の中には、魔力の燃焼を異常に早めて黒煙とタールを発生させる「劣化した獣脂と黒炭の粉末」が、ぎっしりと詰め込まれていたのだ。
「ルーク、様……? それは、いったい……」
涙で濡れた漆黒の瞳で見上げてくるヒルデガルドに、ルークは割れた魔導石の断面を見せ、低く力強い声で言い切った。
「自分を責めるな、ヒルダさん。君は騙されていたんだ。……この石は、通常の三倍の速さで燃え尽きてストーブを壊すように細工された『違法な偽造品』だ。ボルグの奴は最初からこの土地を奪うために、大寒波の夜を狙って君に毒入りの石を売りつけたんだよ!」
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