世界で一番美しい「黒」
窓から差し込む冬の朝日が、床に舞い落ちた灰色のヴェールと、少女の素顔を白く照らし出していた。
肩口まで流れ落ちた、カラスの濡れ羽色のように艶やかな黒髪。
そして、光を吸い込むように深く、それでいてガラス玉のように澄み切った漆黒の瞳。
(……玲奈……?)
ルークの喉の奥から、かすれた吐息が漏れた。
前世のあの日、夕暮れの旧校舎で自分の手を握りしめ、ボロボロになりながら泣き叫んでいた少女の面影が、目の前の修道女と寸分の狂いもなく重なり合う。
「あ……っ、あ……」
ルークの黄金の瞳に自分の顔が映っていることに気づいた瞬間、ヒルデガルドの顔からサッと血の気が引いた。
彼女はまるで太陽に灼かれた夜の生き物のように激しく身をすくめ、ルークの腕を振り払うようにして冷たい床へとへたり込んだ。
「み、見ないでください……っ! どうか、目を背けてくださいませ、ルーク様!」
ヒルデガルドは両手で自分の顔と黒髪を必死に覆い隠し、小刻みに肩を震わせた。
「申し訳ございません、お怪我をさせてはいけないと、つい見境もなくお傍に……。こんな気味の悪い闇の髪と瞳を、ルーク様のような神に愛されたお方の目に入れてしまうなんて……っ。お目が穢れてしまいます……!」
床に落ちたヴェールを拾い上げようとする彼女の指先は、恐怖と羞恥でうまく動かず、空を掻いていた。
外で石を投げられた時でさえ毅然と子どもを庇っていた少女が、自分の素顔を見られた途端、まるで大罪を犯したかのように身を縮めて泣きそうに震えている。この世界の「黒」に対する迫害が、どれほど深く彼女の心を傷つけ、歪ませてきたのかが痛いほど伝わってきた。
「ヒルダ姉ちゃん……」
「ルーク兄ちゃん、姉ちゃんを嫌いにならないで……!」
パンを抱えたリリィや子どもたちが、不安そうに二人の周りへと駆け寄ってくる。
火を落としたばかりの魔導ストーブからは、冷却中の「カチ、カチ」という金属の収縮音だけが響き、熱ロックが解けるまでの間、隙間風の吹き込む広間の温度は早くも下がり始めていた。
ルークは何も言わず、床に落ちていた灰色のヴェールを拾い上げた。
そして、震えるヒルデガルドの目の前に、静かに片膝をついて視線の高さを合わせた。
「……ルーク、様?」
「顔を上げて、ヒルダさん。俺の目は穢れたりしない」
ルークはヴェールを彼女の頭にかけるのではなく、彼女の顔を覆っている両手へと、自分の素手をそっと重ねた。
ビクリ、とヒルデガルドの華奢な肩が跳ねる。
ルークの掌に伝わってきたのは、冷たい冬の朝に雪かきをし、子どもたちのために働き続けてきた、あかぎれと古傷だらけの硬い感触だった。そして同時に、火傷しそうになったルークを咄嗟に引き剥がしてくれた、じんわりと汗ばむほどの優しい温もりだった。
ルークは力任せにではなく、まるで壊れやすい硝子細工を扱うかのように優しく、彼女の両手を顔から引き離した。
「いやです、見ないで……私、こんな不吉な色をしていて……」
固く目を閉じ、長い睫毛を震わせるヒルデガルド。
ルークは片方の手で彼女の傷だらけの手を包み込んだまま、もう片方の指先で、彼女の頬に張り付いていた一房の黒髪をそっと掬い上げた。
「不吉なんかじゃない。……よく聞いて、ヒルダさん」
ルークの唇からこぼれたのは、貴族のサロンで貼り付けていた営業用の微笑みではなく、魂の底から滲み出た、ひどく不器用で真っ直ぐな声だった。
「俺が遠い昔にいた故郷ではね、誰の髪も、誰の瞳も、君と同じこの黒色だったんだ。……夜の帳のように静かで、どんな強い光も優しく受け止めてくれるその『黒髪と黒い瞳』こそが、世界で一番美しく、気高い色だと讃えられていたんだよ」
「え……?」
ヒルデガルドの閉ざされていた瞼が、ゆっくりと開かれた。
潤んだ漆黒の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
「せ、世界で、一番……? そんな、嘘です。だって、ルーク様の白銀の髪や黄金のお目元こそが、太陽神様の光そのもので……」
「俺は、自分のこの色が好きじゃない」
ルークは静かに首を振った。
「みんな、俺のこの髪や顔の造形ばかりを見て、俺がどんな人間なのか、この手でどんな仕事をしてきたのか、誰も見ようとはしないから。……でも、君は違った」
ルークは、自分の掌の中にある彼女の小さな手を、ぎゅっと強く握りしめた。
「君は俺の顔に見惚れるんじゃなく、ストーブの熱から俺の手を守ろうとしてくれた。門の前で子どもを守るために泥を被った君の背中も、あかぎれだらけのこの温かい手も……そして、その吸い込まれそうなほど綺麗な黒い瞳も。俺にとっては、王都のどんな宝石より、俺自身の白銀の髪なんかより、ずっと美しくて価値があるものなんだ」
広間が、水を打ったように静まり返った。
ヒルデガルドは息をするのも忘れたようにルークを見つめ――やがて、その漆黒の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出して白い頬を伝い落ちた。
「っ……う、うそ……」
彼女の胸の奥底で、名前のない古い記憶の欠片が、ルークの不器用で優しい声と共鳴してじんわりと熱を帯びる。
誰かに、こうして自分の本質を見てほしかった。他の誰でもない、この温かい手を持つ人に、自分を肯定してほしかった――そんな魂の渇きが、彼の言葉によって一気に満たされていく感覚に、ヒルデガルドの頬が林檎のように赤く染まった。
「……私の色を、綺麗だと言ってくださったのは……生まれて、初めてです……」
しゃくり上げながら、それでも花が綻ぶように微笑んだヒルデガルドの顔は、前世で一度も見ることのできなかった、玲奈の心からの笑顔そのものだった。
――だが、その温かな余韻を無慈悲に引き裂く音が、広間に鳴り響いた。
バチィッ!!
冷却中だったはずの古い魔導ストーブの内部で、突如として青白い魔力の火花が爆ぜたのだ。
「きゃあっ!?」
子どもたちが悲鳴を上げて後ずさる。ストーブの排気弁から、先ほどまでとは比較にならないほど黒く粘り気のあるタール状の煙がボッと噴き出し、鉄の焦げる激しい異臭とともに、内部の魔力回路が焼き切れる音が響いた。
「くそっ、中身の不純物が冷却中に固まって、回路をショートさせたのか……!」
ルークが咄嗟にヒルデガルドと子どもたちを背後に庇い、工具箱へと手を伸ばした、まさにその瞬間だった。
ドォンッ!!
孤児院の玄関の重い木扉が、外から乱暴に蹴り開けられ、蝶番が悲鳴を上げて壁に激突した。
吹き込んできた氷のような北風とともに、毛皮の外套を着込んだ脂ぎった中年男と、棍棒を手にした二人の大男が土足のまま広間へと踏み込んでくる。
「おい、忌み子のシスター! ずいぶんと遅いお目覚めじゃねえか!」
下卑た笑い声を響かせたのは、この区画の燃料を一手に牛耳る商人、ボルグだった。
ボルグは壊れて黒煙を上げるストーブを一瞥してニヤリと口角を歪めると、懐から一枚の羊皮紙――孤児院の土地の権利書を担保にした借用書を取り出して突きつけた。
「ちょうどいい、今日が昨年の冬の『魔導石代』の返済期限だ! 利息と合わせて金貨三十枚、今この場で耳を揃えて払えねえなら、このボロ孤児院の土地は今日限りで俺様がいただいていくぜ!」
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