忌み子のシスターと、孤児院の冬
王都の東区画は今、急速な再開発の波に呑まれつつあった。
かつては貧しい職人や日雇い労働者が肩を寄せ合っていた下町だったが、数年前から貴族向けの高級サロンや劇場を誘致する計画が始まり、真新しい白亜の石畳が古い路地を次々と塗り潰している。
その華やかな舗装道路がぷつりと途切れる境界線に、まるで時代から取り残されたような、蔦の絡まる古い石造りの孤児院があった。
「おい見ろよ、またあの気味の悪いシスターが出てやがるぜ」
「せっかくこの通りも貴族様向けの綺麗な街並みになるってのに、あんなボロ屋敷が目障りったらありゃしない」
冷たい朝靄の向こうから、下品な嘲笑が聞こえてきた。
麻袋と工具箱を担いで境界線の角を曲がったルークは、門前の光景を目にして足を止めた。
仕立ての良い外套を着込んだ三人の男たち――おそらく再開発に群がる商家の放蕩息子たちが、孤児院の門前で雪かきをしていた小柄な修道女を取り囲んでいた。修道女は頭から灰色の深いヴェールを被り、顔を伏せて必死にやり過ごそうとしている。
だが、吹き抜けた北風がヴェールの裾を揺らし、その隙間から、夜を溶かしたような一房の「黒髪」がこぼれ落ちた。
「うわっ、出たぞ!『闇の魔女』の穢れた黒髪だ!」
男の一人が大袈裟に顔をしかめて後ずさり、足元の泥が混じった固い雪玉を拾い上げた。この聖教会圏において、光を吸い込む黒髪と黒目は、かつて世界を災厄に陥れた魔女の血を引く「忌み子」の証として蛇蝎のごとく嫌われている。
「朝から縁起でもないもん見せやがって! 街の景観が穢れるんだよ、引っ込んでろ化け物!」
男が振りかぶった泥雪の塊が、修道女めがけて投げつけられた。
修道女は逃げなかった。彼女の足元には、まだ五歳にも満たない幼い少女が、恐怖で声を失ってへたり込んでいたからだ。
修道女は即座に少女を自分の懐へと抱き込むと、手にしていた竹ボウキの柄を――まるで使い慣れた武器を扱うかのように「逆手」に強く握り直し、自らの無防備な背中で泥の礫を受け止めた。
ドサッ、と鈍い音がして、灰色の修道服の背中が黒く汚れる。
(……あの構え)
ルークの心臓が、ドクリと大きく跳ねた。
棒を逆手に握り、身を挺して小さな子どもを背後に隠すその不器用で献身的なシルエットが、前世の旧校舎でモップを握りしめていた少女の記憶と鮮烈に重なる。
「チッ、図太い奴め。もう一発――」
男が次の小石を拾い上げようとした瞬間、その手首を、ルークの革手袋を嵌めた手が背後から万力のように掴み上げた。
「なっ、なんだてめえ……っ!?」
振り向いた男たちの言葉が、喉の奥でひゅうと凍りついた。
朝の光を浴びてそこに立っていたのは、太陽神の最高の加護とされる「白銀の髪」と、燃えるような「黄金の瞳」を持つ、人間離れした美貌の青年だったからだ。しかし、その神々しい顔立ちには一切の笑みがなく、絶対零度の冷気を纏った黄金の瞳が、ゴミを見るような冷酷さで男たちを射抜いていた。
「……ずいぶんと高貴な遊びをなさいますね、旦那方。太陽神の御前である朝の街路で、無抵抗の女性と幼子に泥を投げるのが、あなた方の教養ですか」
静かで、よく通る低い声だった。
ルークが指先にわずかに力を込めると、男の手首の骨がミシリと軋み、男は顔面を蒼白にして悲鳴を上げた。
「ひっ、い、痛え! 離せ、俺たちを誰だと――」
「この先のヴァルモン侯爵家へ、魔道具の納品に行く途中なのですが。よろしければ、ここで見た『立派な紳士方』のお名前を、侯爵夫人にお伝えしておきましょうか?」
高位貴族の名が出た瞬間、男たちの顔から完全に血の気が引いた。神に愛された白銀の美貌を持ち、侯爵家に出入りする男など、下町の成金商人が逆らえる相手ではない。
「く、くそっ、覚えてろよ!」
手を振り払われた男たちは、逃げるように白い石畳の通りへと走り去っていった。
ルークは冷たい息を吐き、雪の上に膝をついている修道女へと向き直った。
「怪我はありませんか、シスター・ヒルデガルド」
「あ……ルーク、様……」
ヴェールの奥から、鈴を転がすような、それでいてどこか怯えた声が漏れた。
ヒルデガルドと呼ばれた修道女は、腕の中の幼い少女――リリィの無事を確かめると、慌てて立ち上がり、こぼれ出ていた黒髪をヴェールの奥へと必死に押し隠した。
「申し訳ございません、お礼を申し上げるべきなのに……。ですが、どうぞお近づきにならないでください。私のような穢れた黒を持つ者がお傍にいては、ルーク様の輝くような白銀の御身に障ります……」
彼女は深く頭を下げたまま、一歩、二歩と後ずさった。
ルークがこの孤児院に魔導石の内職を届けるようになってから、これで四度目の訪問になる。だが、彼女はいつもこうして目深なヴェールで顔を覆い、ルークから逃げるように距離を取っていた。以前、ヴェールの隙間から一瞬だけ覗いた彼女の「漆黒の瞳」に強烈な懐かしさを覚え、ルークは今日まで足を運んできたのだが、彼女の素顔はまだ一度も見ることができていなかった。
「俺はそんな迷信、これっぽっちも気にしていませんよ。……ほら、立ち話もなんだし、中に入りましょう。子どもたちが待っています」
ルークが苦笑混じりに麻袋を持ち直すと、孤児院の重い木扉が内側から勢いよく押し開けられた。
「あーっ! ルーク兄ちゃんだ!」
「兄ちゃん、おはよー! 石、ぜんぶピカピカに削ったよ!」
七歳から十歳ほどの子どもたちが五人、白い息を弾ませながら駆け寄ってきた。ルークの顔を見るなり無邪気に外套の裾へとしがみつく子どもたちを前にして、ルークの口元に、貴族の前では決して見せない本物の柔らかな笑みが浮かぶ。
「おはよう、みんな。よく頑張ったな。……ほら、約束の工賃と、途中のパン屋で買ってきた焼きたての白パンだ」
食堂を兼ねた広間に入ると、ルークは子どもたちが綺麗に削り出した琥珀色の再生魔導石を受け取り、代わりに銀貨と、甘い匂いのする大きなパンの袋を手渡した。子どもたちが歓声を上げてパンに群がるのを、壁際に控えたヒルデガルドが「これ、ルーク様にちゃんとお礼を言いなさい」と窘めつつも、ヴェールの下で嬉しそうに目を細めている。
「さて、今日持ってきた石は、中心の魔力核を傷つけないよう俺の方で赤い印をつけておいた。その線の手前まで、ヤスリを寝かせて優しく削るんだぞ」
子どもたちの小さな手に自分の手を添え、ヤスリの角度を一つずつ教えていく。前世でずっと憧れながら、無実の罪によって奪われた「子どもたちに教え、導く」という夢が、異世界の小さな部屋で静かに形になっていく時間だった。
――だが、その温かい時間の最中、ルークの鼻腔をツンと刺す奇妙な匂いがかすめた。
(……なんだ、この匂いは?)
ルークは手を止め、広間の隅に置かれた古い鉄製の魔導ストーブへと視線を向けた。
ストーブの格子窓からは、通常の琥珀色ではなく、どす黒く濁った赤色の光が漏れており、内部から「ジジッ、ジジジッ」と不規則な振動音が響いている。そして何より、燃えた脂が焦げたような、胸の悪くなる異臭がわずかに漂っていた。
「ヒルダさん、このストーブ……いつからこんな匂いが?」
「え? あ、その……三日ほど前に、新しい魔導石を入れてからです。古い型ですので、調子が悪いのかと……」
「いや、これはストーブのせいじゃない。今すぐ火を落とさないと、内部の魔力回路が焼き切れる!」
ルークは立ち上がり、大股でストーブへと歩み寄った。
側面の起動レバーを押し下げ、強制的に魔力の供給を遮断する。不気味な赤い光が消え、ストーブが「プシューッ」と熱い蒸気を吐き出した。
旧式のストーブは、火を落としてからもしばらくは高熱の「熱ロック」がかかっており、三十分ほど冷まさなければ内部カバーを開けることはできない。しかし、排気弁の隙間から垂れ落ちている「黒いタール状の液体」を一刻も早く確かめようと、ルークが不用意に外装の留め金へと素手を伸ばした、その瞬間だった。
「――危ないです、ルーク様っ!」
背後から鋭い声が飛び、華奢な身体がルークとストーブの間に割り込んだ。
「その留め金は断熱材が剥がれていて、素手で触ると大火傷をします!」
ヒルデガルドは自分の危険も顧みず、ルークの右腕を両手で掴んで力いっぱい後ろへと引き剥がした。
「っ、ヒルダさん!?」
突然の力に引っ張られ、ルークは体勢を崩しながら彼女の細い肩を咄嗟に抱き留めた。
その激しい接触の拍子に、彼女の髪を留めていたピンが弾け飛び、灰色の深いヴェールがふわりと宙を舞って床へと滑り落ちた。
「あ……っ」
小さく息を呑む声が、静まり返った広間に響いた。
窓から差し込む冬の澄んだ朝日が、ヴェールの下から現れた少女の素顔を余すところなく照らし出す。
肩まで流れ落ちた、カラスの濡れ羽色のように艶やかな黒髪。雪のように白く透き通った肌に、どこまでも深く、吸い込まれそうなほど美しい漆黒の瞳。
ルークの呼吸が、完全に止まった。
そこにあったのは、十数年間、悪夢の中でさえ忘れることのなかった少女――あの夕暮れの旧校舎で、冷たくなっていく蒼太の手を握りしめて泣き叫んでいた「玲奈」と、寸分違わぬ顔立ちだった。
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