夕暮れの悪夢と、捨てられた魔導石
下町の路地裏にある小さな工房は、鉄錆と機械油、そして乾いた木の削りかすの匂いが満ちていた。
ヴァルモン侯爵家から戻ったルークは、作業机の上の魔導ランプに小さな火を灯し、麻袋から黒ずんだ魔導石を転がり出させた。貴族たちが「薄汚れたゴミ」と呼んで捨てた石だ。
ルークは万力で石を固定すると、目の粗い鋼のヤスリを手に取り、シャリ、シャリ、と一定の調子で表面の黒い煤を削り落とし始めた。
削り落とされた黒い粉が机の上に舞い落ちる。数分ほど根気よく表面の酸化した層を削り取ると、やがて黒い殻の下から、ハチミツを固めたような透き通った琥珀色の結晶が顔を覗かせた。ランプの光を浴びて、内部に秘められた豊かな魔力がキラキラと温かく脈動している。
「……ほらな。外側が黒く汚れてたって、中身はこんなにも綺麗じゃないか」
誰に聞かせるでもなく呟き、ルークは親指の腹でその滑らかな断面を撫でた。
少し手間をかけて外側の汚れを削り落としてやれば、まだ何十時間も誰かを温めることができる。それなのに、この街の貴族たちは表面が少し黒ずんだだけで見栄えが悪いと眉をひそめ、中身の価値を確かめようともせずにゴミ箱へ放り投げるのだ。
ヤスリを握るルークの指先に、不意にぎゅっと力がこもった。
シャリ、とヤスリが滑って金属の万力を引っ掻き、嫌な音を立てる。
その鋭い摩擦音が引き金となったように、ルークの脳裏に、封じ込めていたはずの前世の記憶が濁流となって押し寄せてきた。
『――やめて! この人に触らないで!』
耳の奥で蘇ったのは、夕暮れの公園に響いた少女の悲鳴だった。
前世の彼――蒼太は、ただ泣いている小さな女の子を助けようとしただけだった。雨上がりの夕暮れ、通学路脇の公園で、泥だらけになって膝から血を流し、パニックになって泣き叫んでいた幼い少女。将来は保育士か教師になって子どもたちを守りたいと願っていた蒼太は、迷わず駆け寄り、自分のハンカチでその子の涙と泥を拭って抱き起こした。
だが、すべては最初から仕組まれた悪意の罠だったのだ。
茂みの陰から現れた同じ高校の不良グループ――沙耶たちが、蒼太が少女を抱きかかえた瞬間だけをスマートフォンで切り取り、撮影していた。直後に駆けつけた少女の姉であり、クラスの中心にいた美少女・玲奈は、血の気の引いた顔で蒼太から妹の結愛を引き剥がし、『不審者!』と叫んだ。
翌朝には、学校中の生徒の端末に、悪意ある編集が加えられた画像と動画が拡散されていた。
『キモい顔したブサイクが、夕方の公園で幼女を襲ってた』『あんな犯罪者みたいなツラで子供好きとか、マジで吐き気がする』
誰も、蒼太の言葉に耳を貸そうとはしなかった。教師でさえも、彼の不細工で暗い顔立ちを見るなり疑いの目を向け、教育実習の推薦枠は白紙に戻された。どれほど誠実に生きてきても、ただ「見た目が醜い」というだけで、世間は彼を悪人だと決めつけて石を投げたのだ。
そして、あの運命の放課後。
使われなくなった旧校舎の物置から、幼い結愛の泣き声が聞こえた気がして、蒼太は自分の危険も顧みずに人気のない階段を駆け上がった。そこで待っていたのは、沙耶たち不良グループと、唇を噛み締めて俯く玲奈だった。
『本当に来やがった、このお人好しのブサイク! 玲奈の妹をもう一度さらうぞって脅したら、面白いようにあんたを釣れたわ!』
笑い転げる沙耶たちの言葉で、蒼太はようやく真実を知った。玲奈は彼を陥れた張本人ではなく、愛する妹を人質に取られ、脅迫されて駒として使われていた被害者だったのだ。
床に蹴り倒され、泥靴で踏みつけられ、スマートフォンを向けられながら浴びせられた数々の罵倒。身体の痛みよりも、教育者になるという夢も、人間としての尊厳も、すべてを笑いものにされた絶望で心が壊れそうになった、その時だった。
『――約束が違うじゃない! この人を呼び出せば、結愛にはもう手を出さないって言ったでしょ!』
『あ? うるせえな、お前の妹も後で同じ目に遭わせてやるよ』
沙耶がそう嘲笑った瞬間、玲奈の何かが弾けた。
彼女は部屋の隅に転がっていた掃除用のモップを拾い上げると、柄の半分を踏み折って逆手に構え、狂ったように沙耶たちへと飛びかかったのだ。
『逃げて……! あんたは悪くない、全部私のせいなの! だから早く逃げてぇっ!』
美しい黒髪を振り乱し、制服を破られ、顔を腫らしながらも、玲奈は折れたモップを振り回して蒼太の前に立ち塞がった。
だが、逆上した不良の一人が、錆びた鉄パイプを玲奈の頭上へと振り上げた。
『危ないっ!』
蒼太の身体は、考えるよりも先に動いていた。玲奈と、物置の奥で震えていた結愛の二人を背後へ突き飛ばし、無防備な背中で鉄パイプの一撃を受け止め、そのまま古い階段から転げ落ちたのだ。
ドサリ、と鈍い音が響き、視界が真っ赤に染まっていく。
急速に冷たくなっていく意識の底で、蒼太が最後に見たのは、階段を駆け下りてきて自分の手を必死に握りしめる玲奈の姿だった。
『うそ……やだ、死なないで……! ごめんなさい、私のせいで……!』
ボロボロになった彼女の手は、震えるほど温かかった。そして、大粒の涙をこぼす彼女の漆黒の瞳には、蒼太の醜い顔を蔑む色など微塵もなく、ただ一人の人間を失うことへの深い悲しみと悔恨だけが映っていた――。
「……っ、はあ……!」
ルークは弾かれたように顔を上げ、荒い息を吐いた。
額にはびっしょりと冷たい汗が浮かんでいた。工房の窓の外を見れば、いつの間にか夜は明け、冬の冷たく蒼い朝の光が路地裏に差し込んでいる。
いつの間にか作業机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
ルークは震える右手で自分の胸元を押さえた。階段から落ちた時の鈍い痛みと、最期に握られた玲奈の手の温もりが、十数年経った今でも生々しく魂に焼き付いて離れない。
「……玲奈。あいつらは、あのあと無事だったんだろうか」
答えのない問いが、白い息となって冷えた工房に溶けていく。
前世の自分は、力もなにもなく、ただ身を挺して死ぬことしかできなかった。けれど、この世界での自分は違う。神が与えた皮肉な美貌は好きになれなくても、この手には、人を温め、守るための確かな「魔道具の技術」がある。
ルークは立ち上がり、冷たい水で顔を洗うと、机の上に並んだ十数個の「黒い殻のついた魔導石」を新しい麻袋へと詰め込んだ。自分がすべて削ってしまうのではなく、あえて黒い部分を残したままの石だ。
これを削り出し、美しい琥珀色の結晶を取り出す仕事は、今日、街はずれで彼の訪れを待っている「小さな助手たち」に任せることになっている。前世では叶わなかった、子どもたちに技術と誇りを教えるという大切な仕事だ。
そして何より、その場所には――あの日の玲奈と同じ、吸い込まれそうなほど美しい「漆黒の瞳」を持つ少女がいる。
ルークは厚手の外套を羽織り、ずっしりと重い麻袋と工具箱を肩に担ぐと、冷たい北風が吹き抜ける朝の街へと一歩を踏み出した。
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