三枝康介の正義感
三枝、一人
篠田勇二の葬儀から、三ヶ月が経っていた。
三枝康介は愛知県警本部の自分のデスクで、資料を見ていた。
夜の十時だった。
周りに人はいなかった。
みんな帰っていた。
三枝だけが残っていた。
これが最近の習慣だった。
昼間は普通に仕事をする。
夜、一人になってから、本当の仕事をする。
資料は三冊あった。
一冊目は篠田の遺したメモのコピー。
二冊目は小牧署長代理、堂島哲雄の供述調書。
三冊目は自分で集めた情報だった。
三枝はコーヒーを飲んだ。
冷めていた。
構わなかった。
資料を見ながら、線を引いた。
点と点を繋いだ。
篠田が追っていたSAのルート。
可児の倉庫の利権。
桑山の古物商ネットワーク。
警察学校の不正。
全部が、一つの図の上に乗っていた。
しかしその図の中心に、まだ名前のない点があった。
全部を繋いでいる、見えない点。
三枝はその点を見つめた。
篠田、お前はここまで見えていたか。
答えは返ってこなかった。
デスクの電話が鳴った。
「三枝や」
「俺や」
声を聞いた瞬間、三枝は背筋が伸びた。
和田浩二だった。
春日井署の、同期だった。
「こんな時間に」三枝は言った。
「お前も残っとるやろと思って」和田は続けた。「三枝、春日井で面白いもんが出てきた」
「面白いもんとは」
「堂島の上におった人間の話や」和田は静かに言った。「お前が探しとるやつや」
三枝は資料の、名前のない点を見た。
「詳しく話せ」
「電話やない」和田は続けた。「会おう。近藤も呼ぶ」
「三人でか」
「三人でや」和田は言った。「明日の朝、犬山で」
電話を切った。
三枝は資料を閉じた。
コーヒーを飲み干した。
やはり冷めていた。
犬山
翌朝、三枝は犬山市内にいた。
近藤真一が指定した喫茶店だった。
犬山城の近く、古い町並みの中にある店だった。
三枝が入ると、和田と近藤がすでにいた。
和田浩二、三十八歳。春日井署の刑事。
がっしりした体格。口数が少ない。しかし動くときは速い。
近藤真一、三十八歳。犬山署の刑事。
細身で眼鏡をかけている。頭が切れる。データを読む目がある。
三枝、和田、近藤。
警察学校で同期だった三人だった。
篠田も同期だった。
しかし篠田はもういない。
三人は顔を見合わせた。
何も言わなかった。
それだけで、わかり合えた。
コーヒーが来た。
近藤が口を開いた。
「整理する」近藤は静かに言った。「堂島の件が片付いた後、俺は犬山側の動きを追っていた。犬山は愛知と岐阜の境界に近い。いろんなものが通る」
「岐阜ルートか」三枝が言った。
「そうや」近藤は続けた。「可児の倉庫、百廻のSA、桑山の古物商。全部が一つのルートで繋がっとる。しかしそのルートを仕切っていたのは、堂島ひとりやない」
「上がおる」和田が言った。
「おる」近藤は資料をテーブルに広げた。「愛知県警の幹部や。名前は黒川正義、五十八歳。現在は県警の総務部長をやっとる」
三枝は黒川の名前を聞いた。
一秒。
「黒川か」三枝は静かに言った。
「知っとるか」和田が言った。
「知っとる」三枝は続けた。「ワシの昇進を、二度妨害した人間や」
和田と近藤が三枝を見た。
「そういうことか」近藤は静かに言った。
「三枝が昇進すると、都合が悪かったんや」和田は続けた。「お前は篠田と仲が良かった。篠田が追っていたルートに、お前が絡んでくると困る人間がおった」
「黒川がそれを知っていた」三枝は言った。
「おそらく」近藤は資料をめくった。「黒川は長年、岐阜側の利権構造と繋がっていた。可児の倉庫の件も、SAのルートも、全部黒川が愛知側の窓口になっていた」
三枝は資料を見た。
名前のない点に、黒川正義という名前が入った。
「証拠は」三枝は聞いた。
「集めとる」近藤は続けた。「でもまだ足りん。黒川は用心深い人間や。表に出てくる証拠が少ない」
「どこが足りない」
「現場や」和田が言った。「黒川が直接関わっていた現場の証拠が必要や。書類だけでは動けん」
三枝は窓の外を見た。
犬山城が見えた。
古い城だった。
長年、この土地を見てきた城だった。
「根古さんに頼むか」三枝は静かに言った。
和田と近藤が三枝を見た。
「根古親司か」近藤は言った。「篠田の件で動いた人間やな」
「そうや」三枝は続けた。「あの人はサイコメトリーができる。物に残った記憶を読む。現場の証拠が足りないなら、あの人が補えるかもしれん」
「霊能者やろ」和田は少し間を置いた。「信用できるんか」
「できる」三枝は即答した。「篠田が信用していた。それで十分や」
和田は黙った。
近藤は三枝を見た。
「連絡してくれるか」近藤は言った。
「する」三枝は言った。
コーヒーを飲んだ。
今度は温かかった。
根古、呼ばれる
三枝から連絡が来たのは、昼前だった。
根古はラクカで缶コーヒーを飲んでいた。
フェルナンドが隣にいた。
ヤマトが膝にいた。
根古は電話に出た。
「三枝か」
『根古さん、頼みたいことがあります』
「ワシに頼るな」
『わかっています』三枝は続けた。『でも今回だけは』
根古はしばらく黙っていた。
ヤマトが耳をぴくりと動かした。
「話せ」根古は言った。
三枝は話した。
黒川正義のこと。
愛知と岐阜をまたぐ利権構造のこと。
現場の証拠が足りないこと。
根古は黙って聞いた。
フェルナンドはノートを開いた。
「場所はどこや」根古は言った。
『春日井と犬山の間に、古い倉庫があります』三枝は続けた。『黒川が長年使っていた場所やと思われます。でも今は人が来ていない。証拠が残っているかどうか』
「行く」根古は言った。
『ありがとうございます』
「たまたまや」根古は電話を切った。
フェルナンドは根古を見た。
「行くんですか」
「行く」
「第一話から続いてきたものが、全部繋がってくる感じがしますね」フェルナンドは言った。
根古は缶コーヒーを飲み干した。
「そうやな」根古は静かに言った。
太田マスターが新しい缶コーヒーを差し出した。
「根古さん」太田マスターは言った。
「なんや」
「気をつけて」
根古は缶コーヒーを受け取った。
ヤマトが膝から降りた。
入口のドアの前に座った。
いつも通りだった。
春日井と犬山の間
軽自動車は愛知県に入った。
カーラジオからJAZZが流れていた。
マイルス・デイヴィスのトランペットだった。
静かな、確信のある音だった。
助手席にフェルナンド。
後部座席に三枝。
和田と近藤は別の車で続いていた。
「根古さん」三枝は後部座席から言った。
「なんや」
「黒川という人間は」三枝は続けた。「長年、組織の中で生き残ってきた人間です。表の顔は完璧です。誰も疑わなかった」
「疑わんかった人間ばかりではないやろ」根古は静かに言った。
「篠田は疑っていたかもしれません」三枝は続けた。「でもSAのルートを追ううちに、黒川まで辿り着く前に消された」
根古はハンドルを握ったまま前を向いていた。
「三枝」根古は言った。
「はい」
「篠田さんはな」根古は続けた。「あの夜、百廻で言っとった。もう少しやったと」
三枝は黙っていた。
「もう少し、というのは」根古は静かに言った。「黒川まで辿り着きかけとったということやないかと、今は思う」
三枝は窓の外を見た。
愛知の景色が流れていた。
「篠田の分まで」三枝は静かに言った。
「そうや」根古は言った。「お前がやれ」
三枝は頷いた。
深く、確信のある頷きだった。
春日井と犬山の間の、古い工業地帯だった。
廃業した工場が並んでいた。
人気のない場所だった。
その一角に、古い倉庫があった。
表向きは資材置き場として登記されていた。
しかし資材は何もなかった。
三枝が鍵を開けた。
事前に令状を取っていた。
正式な捜査ではなかったが、近藤が手を回していた。
全員が中に入った。
暗かった。
埃っぽかった。
しかし確かに、人が使っていた形跡があった。
床に何かを置いた跡。
壁に何かを立てかけた跡。
隅に、古い木箱が積まれていた。
根古は倉庫の中央に立った。
目を閉じた。
右手を、ゆっくりと前に伸ばした。
三枝と和田と近藤は静かに待った。
フェルナンドはカメラを構えた。
しかし撮らなかった。
ここでは撮らないと判断した。
一分。
二分。
三分。
根古の右手が、わずかに動いた。
何かを受け取るように。
五分が過ぎた。
根古は目を開けた。
右手を下ろした。
三枝が前に出た。
「何が見えましたか」
根古はしばらく倉庫を見渡した。
「ここは長年、中継点として使われとった」根古は静かに言った。「物だけやない。金も通った。書類も通った」
「書類というのは」近藤が聞いた。
「取引の記録や」根古は続けた。「誰が何を受け取ったか。誰が何を渡したか。全部記録されとった」
「その記録は今もここに」和田が聞いた。
「ない」根古は言った。「持ち出された。しかし」
根古は隅の木箱に向かった。
一番下の箱に右手を触れた。
一分ほど触れていた。
「この箱の底に」根古は続けた。「何かが挟まっとる」
三枝が近づいた。
木箱を動かした。
重かった。
和田が手伝った。
箱をどけた。
床に、薄い紙が一枚落ちていた。
三枝はそれを拾った。
近藤が懐中電灯で照らした。
手書きの数字と名前が並んでいた。
取引の記録だった。
日付、金額、名前。
一番上に書いてある名前を、三枝は見た。
黒川正義。
三枝は息を止めた。
「あった」三枝は静かに言った。
近藤が三枝の隣に来た。
「これで動ける」近藤は言った。
和田が無言で頷いた。
根古は倉庫の出口に向かっていた。
三枝は根古を呼び止めた。
「根古さん」
根古が振り返った。
「ありがとうございます」三枝は言った。
根古は答えなかった。
缶コーヒーを取り出した。
ジャージのポケットから出てきた缶コーヒーだった。
一口飲んだ。
「たまたまや」根古は言った。
三枝は笑った。
疲れた笑いだったが、温かかった。
黒川、落ちる
動いたのは翌日だった。
三枝、和田、近藤の三人が主導した。
愛知県警本部の信用できる上司に、全ての証拠を持ち込んだ。
近藤が用意した資料。
和田が集めた証言。
そして倉庫で見つかった一枚の紙。
黒川正義の名前が書かれた、取引の記録。
上司は資料を見た。
しばらく黙っていた。
やがて言った。
「動く」
それだけだった。
黒川正義が任意同行を求められたのは、午後二時だった。
総務部長室から出てきた黒川は、最初は余裕の顔をしていた。
しかし三枝の顔を見た瞬間、その余裕が消えた。
「三枝」黒川は言った。
「黒川部長」三枝は静かに言った。「お願いがあります」
「なんや」
「篠田の遺族に、謝罪してください」三枝は続けた。「それだけでいいです」
黒川は三枝を見た。
長い沈黙があった。
やがて黒川は目を伏せた。
それが答えだった。
三枝は黒川から目を離さなかった。
篠田の顔が浮かんだ。
百廻の夜が浮かんだ。
根古の顔が浮かんだ。
終わったぞ、篠田。
本当に、終わったぞ。
ラクカにて
その夜、三枝は可児市にいた。
ラクカに来ていた。
根古、フェルナンド、太田マスター。
そして今日は、榊原もいた。
雨月もいた。
山本もいた。
和田と近藤も来ていた。
初めてラクカに来た二人だった。
和田は店内を見回した。
「こういう場所なんやな」和田は言った。
「そうや」三枝は言った。
「ええ場所やな」和田は続けた。
近藤はカウンターに座った。
コーヒーを一口飲んだ。
「美味い」近藤は言った。
太田マスターが微笑んだ。
根古はいつものカウンターにいた。
缶コーヒーを飲んでいた。
ヤマトが膝にいた。
何事もなかったような顔をしていた。
三枝は根古の隣に座った。
しばらく黙っていた。
JAZZが流れていた。
ビル・エヴァンスのピアノだった。
静かな、深い音だった。
「根古さん」三枝は言った。
「なんや」
「第一話からずっと続いてきたものが」三枝は続けた。「今日で終わった気がします」
根古は缶コーヒーを飲んだ。
「そうやな」根古は静かに言った。
「根こそぎ、とはいかんかもしれんが」三枝は続けた。「少なくとも、この地域を覆っていたものは終わった」
「終わったな」根古は言った。
「篠田も」三枝は言いかけた。
「喜んどるやろ」根古は静かに言った。
三枝は目を細めた。
「そうやといいですが」
「そうや」根古は言った。「ワシが保証する」
三枝は笑った。
根古が保証する。
それ以上の言葉はなかった。
フェルナンドはカウンターの端で、全員を見ていた。
根古、太田マスター、榊原、雨月、山本、三枝、和田、近藤。
それぞれが違う場所から来た人間たちだった。
違う立場で、違う動機で動いてきた。
しかし今夜、同じ場所にいた。
ラクカという、可児市の外れの古い喫茶店に。
フェルナンドはノートを開いた。
最後のページに、書いた。
葦の中の声は、聞こえなくなった。
しかし根古親司はまだ、ここにいる。
缶コーヒーを飲みながら。
ヤマトを膝に乗せながら。
たまたまや、と言いながら。
ノートを閉じた。
窓の外を見た。
夜の木曽川が、遠くに見えた。
葦が、風に揺れていた。
声はしなかった。
ただの葦が、ただ揺れていた。
しかしフェルナンドには、その揺れ方が何かを言っているように見えた。
ありがとう、と。
あるいは。
まだ終わっていない、と。
どちらかはわからなかった。
しかしどちらでも、いいと思った。
根古がいる限り、どちらでも。
ヤマトが根古の膝から降りた。
カウンターを歩いた。
フェルナンドの隣に来た。
座った。
緑色の目で、フェルナンドを見た。
フェルナンドはヤマトを見た。
「お前はわかっとるんか」フェルナンドは小声で言った。「全部」
ヤマトは目を細めた。
答えなかった。
しかしその目が、何かを言っていた。
フェルナンドは笑った。
ビル・エヴァンスのピアノが続いていた。
静かな夜のラクカに、音が満ちていた。
根古は窓の外を見ていた。
木曽川の方向を。
葦の方向を。
缶コーヒーを一口飲んだ。
それだけだった。
それで十分だった。




