東京から来た女達 三つの始まり
視点 : 星野 由紀子
【 七年前 東京 某所 】
星野由紀子が初めて人を傷つけたのは、三十三歳の秋だった。
傷つけた、という表現は正確ではないかもしれない。依頼があり、対象がいた。対象は生きていた。ただ、二度と同じことができない体になった。それだけだ。
星野はその夜、タクシーの中で窓の外を見ていた。東京の夜は明るすぎて、星が見えない。
??後悔しているか。
自分に問いかけた。答えは出なかった。
対象は、十四歳の少女を売った男だった。それだけ知っていた。依頼人が誰かは知らない。知る必要がない、と教えられていた。
星野がこの仕事に入ったのは、三十一歳のときだった。元々は民間の調査会社にいた。調査から、いつの間にか一歩踏み込んだ仕事を引き受けるようになり、気づいたときには戻れないところにいた。
仕事を紹介したのは、今は亡き上司だった。「お前には向いている」と言った。理由は聞かなかった。
??向いているとは、どういう意味だったのか。
七年経った今も、星野にはわからなかった。
視点 : 西野 千紗都
【 五年前 東京 下北沢 某アパート 】
西野千紗都は十八歳のとき、家を出た。
理由は単純だった。いられなくなったからだ。父親がいなくなり、母親が別の男を連れてきた。その男が千紗都を見る目が、最初から気に入らなかった。千紗都は荷物を一つにまとめて、夜中に出た。振り返らなかった。
下北沢に部屋を借りた。家賃が払えなくなったら、払えるようになる仕事をした。詳細は言わない。生きていた。それだけだ。
十九歳のとき、星野由紀子に会った。
場所は、下北沢の小さなバーだった。千紗都がバイトをしていた店だ。星野は一人で来て、一人でウイスキーを飲んで、一人で帰ろうとした。
帰り際に千紗都を見た。ただ、見た。それだけだったが??千紗都はその目に、怯まなかった。
星野が立ち止まった。
「名前は」
「千紗都です」
「仕事、変えませんか」
「どんな仕事ですか」
「危ない仕事です」
千紗都は少し考えた。三秒だった。
「今の仕事より危ないですか」
星野は千紗都を見た。それから、初めて笑った。
「同じくらいかもしれない」
千紗都はエプロンを外した。
視点 : 古田 麻尋
【 四年前 東京 新宿 某ビル屋上 】
古田麻尋が星野に会ったのは、屋上だった。
麻尋は仕事の途中だった。依頼主に雇われた別の人間が、麻尋の対象に先に接触しようとしていた。それを阻止するために屋上に来た。
その「別の人間」が、星野由紀子だった。
屋上で向き合った。夜だった。風が強かった。
星野は麻尋を見た。麻尋は星野を見た。
どちらも動かなかった。三十秒ほど。
それから星野が言った。
「あなた、依頼主は誰ですか」
「言えません」
「私と同じ依頼主です」
麻尋は少し考えた。
「……証拠は」
「依頼書の最後の番号、0714ですか」
麻尋は答えなかった。それが答えだった。
星野は手を下ろした。麻尋も下ろした。
「同じ依頼を、二人に出した。テストでしょう」と星野は言った。「どちらが先に動くか見ていた」
「……腹が立ちます」と麻尋は言った。初めて感情を出した。
「私も」と星野は言った。「一緒に怒りに行きますか、依頼主のところへ」
麻尋は星野を見た。
??この人は、怒るとき笑わない。それが信用できる気がした。
「行きます」
それが、麻尋と星野の始まりだった。
視点 : 星野 由紀子
【 四年前 東京 三人になった夜 】
千紗都と麻尋が初めて会ったのは、その依頼主への「抗議」の翌日だった。
星野が引き合わせた。カフェで、三人が向き合った。
千紗都が麻尋を見た。麻尋が千紗都を見た。
しばらく、ふたりとも何も言わなかった。
「同い年ですか」と千紗都が最初に言った。
「十九です」と麻尋が答えた。
「同じです」
また沈黙。
「誕生日は」と千紗都が聞いた。
「三月」と麻尋が答えた。
「私は十一月。私の方が先輩ですね」
「……何の先輩ですか」
「この仕事の」
麻尋はそれを聞いて、無表情のまま少しだけ目が丸くなった。千紗都はそれを見て、笑った。
星野はコーヒーを飲みながら、ふたりを見ていた。
??これで、三人になった。
それが正しいかどうかは、わからなかった。ただ、ふたりの十九歳を一人にしておくよりは、自分の目の届くところにいる方がいいと思った。
??それが、母性というものなのかもしれない。
星野は自分でその言葉を思い浮かべて、少し戸惑った。自分にそういう感情があるとは、思っていなかった。
視点 : 西野 千紗都
【 三年前 東京 共同生活 始まり 】
三人で住み始めたのは、千紗都が二十歳になった頃だった。
東京の西側、古いマンションの一室。三LDKで、星野が一部屋、千紗都と麻尋がそれぞれ一部屋を使った。
最初の一ヶ月は、奇妙な静けさがあった。
三人ともあまり喋らなかった。仕事の話は仕事のときだけ。食事は一緒にとることもあれば、一人で食べることもあった。
変わったのは、二ヶ月目だった。
深夜、台所で千紗都がラーメンを作っていると、麻尋が来た。
「一人分ですか」
「今から作るなら二人分にします」
麻尋は椅子に座った。
ラーメンを食べながら、麻尋が言った。
「千紗都さんは、なぜこの仕事をしているんですか」
「他に向いてる仕事がなかったから。麻尋さんは?」
「……気づいたら、ここにいました」
「それ、答えになってないですよ」
「答えが見つかっていないんです」
千紗都はラーメンを食べながら考えた。
「じゃあ一緒に探しましょう。答え」
麻尋は千紗都を見た。
「……どうやって」
「生きていれば、いつか出てくるんじゃないですか。たぶん」
麻尋はしばらく考えてから、ラーメンを一口食べた。
「……たぶん、ですか」
「私も確信はないです」
それから二人は、しばらく黙ってラーメンを食べた。
その日から、麻尋が深夜に台所に来ることが増えた。千紗都はいつも二人分作った。
星野はそれを知っていたが、何も言わなかった。
視点 : 古田 麻尋
【 二年前 東京 ある夜 】
麻尋が初めて泣いたのは、二十一歳の夜だった。
仕事の帰りだった。対象は生きていた。依頼は果たした。だが対象の部屋に、写真があった。家族の写真だった。子どもが二人、笑っていた。
??その子どもたちは、今夜から父親を失う。
部屋に帰って、シャワーを浴びた。それから、気づいたら泣いていた。
声は出なかった。ただ、涙が止まらなかった。
ドアがノックされた。
「麻尋」と千紗都の声がした。「ラーメン、作ったよ」
麻尋は答えなかった。
少し間があって、ドアが開いた。千紗都が入ってきた。麻尋の顔を見て、何も言わなかった。ただ隣に座った。
しばらくして、廊下から別の足音がした。
星野が入ってきた。千紗都の反対側に座った。
三人で、しばらく黙っていた。
星野が言った。
「泣いていい」
それだけだった。
麻尋はまた泣いた。今度は少し、声が出た。
千紗都が麻尋の背中に手を置いた。星野は動かなかった。ただ、そこにいた。
??この人たちがいる。
麻尋は初めて、そう思った。
それが何を意味するのか、言葉にはできなかった。ただ、確かなことだった。
ラーメンは、三人で食べた。伸びていたが、誰も気にしなかった。
視点 : 星野 由紀子
【 一年前 東京 朱音との別れ 】
藤原朱音が「足を洗う」と言ったのは、春の夜だった。
三人とラクカで、いつものように仕事の後始末を話していた。朱音は一年前から加わっていた。優秀だった。判断が速く、感情をコントロールできた。
だがその夜、朱音の顔が違った。
「由紀子さん。私、辞めます」
千紗都が手を止めた。麻尋が朱音を見た。
「理由を聞かせてください」と星野は言った。
「理由は言えません。でも、決めました」
星野はしばらく朱音を見ていた。
??引き止めるべきか。
引き止める理由は、仕事上にはあった。朱音は優秀だった。代わりは簡単には見つからない。
だが??朱音の目が、決まっていた。
「わかりました」と星野は言った。「止めません」
千紗都が星野を見た。麻尋も見た。
「由紀子さん」と千紗都が言いかけた。
「彼女が決めたことです」と星野は言った。「私たちが決めることじゃない」
朱音は頭を下げた。
「ありがとうございました」
その夜、朱音は帰った。
部屋に三人が残った。
千紗都が言った。
「本当に良かったんですか」
「良かった、とは言えません」と星野は答えた。「でも止めるのは間違いだった」
「……由紀子さんは、朱音さんのことが心配なんですね」と麻尋が言った。
星野は答えなかった。
それが答えだった。
視点 : 西野 千紗都 / 古田 麻尋
【 可児行きの前夜 東京 三人の部屋 】
可児行きを決めた夜、三人は早めに荷物をまとめた。
千紗都はリュックにカメラを入れながら、麻尋に言った。
「麻尋。朱音さん、生きてると思う?」
麻尋は少し考えてから言った。
「生きていると思います。根拠はないですが」
「私もそう思う。なんでかな」
「……由紀子さんが、生きていると思っているから、かもしれません」
千紗都は麻尋を見た。
「麻尋って、時々すごくいいこと言うね」
「そうですか」
「そうだよ」
星野がリビングから声をかけた。
「五分後に出ます」
「はい」とふたりは同時に答えた。
千紗都はリュックを背負った。麻尋も荷物を持った。
リビングに出ると、星野が立っていた。コートを着て、小さなバッグだけ持っていた。
三人で玄関に立った。
「行きましょう」と星野は言った。
ドアを開けた。
東京の夜が、外にあった。
??可児へ。朱音のところへ。
三人は、同じ方向を向いて歩き始めた。




