東京から来た女達 可児という街
視点 : 西野 千紗都
【 可児到着 初日 鬼が島付近 】
可児という街は、千紗都が想像していたより静かだった。
東京から新幹線と在来線を乗り継いで、三時間弱。降りた駅は小さかった。改札を出ると、空が広かった。東京では空を見上げても建物しかない。ここは山が見えた。
??こういう街があるんだ。
鬼が島へ向かう道すがら、千紗都は周りを見ていた。コンビニが一軒、酒屋が一軒、古い商店街。人が少ない。車が多い。
星野が前を歩いていた。麻尋が後ろを歩いていた。三人の並びは変わらない。
川が見えてきた。可児川だ。朝霧が残っていた。水面が光っていた。
「きれいですね」と千紗都は言った。
星野は止まらなかった。
「仕事が終わったら、ゆっくり見ればいい」
「仕事中でも見ていいと思いますよ」と千紗都は言った。
麻尋が後ろから言った。
「私も、きれいだと思います」
星野は少し歩調を緩めた。三人で、川を一瞬だけ見た。
??ここに朱音さんはいた。あるいは、今もいる。
千紗都はカメラを構えた。川の写真を一枚撮った。仕事のためではなく、自分のために。
視点 : 古田 麻尋
【 同日 鬼が島 現場付近 】
現場を遠目に見ながら、麻尋は考えていた。
遺体が「ていねいに置かれていた」という情報は、すでに入っていた。それが何を意味するか。
??始末する気があれば、川に流す。発見されにくい場所に埋める。それをしなかった。置いた。ていねいに。
麻尋はこういう考え方が得意だった。感情を抜いて、事実だけを並べる。それが、この仕事で生き延びてきた方法だった。
感情を抜くと、見えてくるものがある。
??置いた人間は、対象を憎んでいなかった。あるいは、誰かに見つけてほしかった。
千紗都が麻尋の隣に来た。
「何考えてる?」
「遺体の置き方について」
「……麻尋って、本当にいつもそういうことを考えてるんだね」
「他に考えることが、あまりないので」
千紗都は少し笑ってから、真剣な顔になった。
「朱音さんじゃないかもしれない、って本気で思ってる?」
「思っています。七割くらいの確信で」
「由紀子さんには言わないの?」
「由紀子さんは、私より強く確信していると思います。言う必要がない」
千紗都はしばらく麻尋を見ていた。
「麻尋って、由紀子さんのことよく見てるよね」
「……見ていなかったら、ついていけません。あの人は、感情を見せない分、目で読まないといけない」
千紗都は頷いた。
「私は逆に、由紀子さんが怖い顔をしたとき、わかるようになってきた」
「どんなときですか」
「誰かを心配しているとき。それを悟られたくないときに、少し眉が下がる」
麻尋は少し考えてから言った。
「……今朝、ずっとそういう顔をしていました」
「うん」と千紗都は言った。「だから私たちが元気でいないといけないんだよ」
麻尋はそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
視点 : 星野 由紀子
【 同日 夜 可児市内 宿 】
三人が宿に入ったのは夜だった。
千紗都は風呂に入ってすぐ眠った。麻尋は地図を確認してから眠った。星野だけが眠れなかった。
窓を少し開けた。十月の夜気が入ってきた。東京より冷たかった。
??朱音。
一年前の春の夜を思い出した。「辞めます」と言った朱音の顔。あのとき、もっと聞くべきだったかもしれない。理由を。何があったかを。
だが朱音は話さなかった。星野も押さなかった。
??それが正しかったのか、間違いだったのか。
廊下で音がした。ドアが少し開いた。
千紗都だった。眠れていないのか、それとも星野の気配を感じたのか。
起きてたんですか」と千紗都が言った。
「眠れない」
「隣、いいですか」
星野は答えなかった。千紗都は構わず入ってきて、窓の反対側の壁に寄りかかった。
しばらく、ふたりで暗い天井を見ていた。
「由紀子さん」と千紗都が言った。「明日、根古さんに会ったとして??正直に全部話しますか」
「話します」
「怖くないですか。私たちのことを知られるのが」
星野は少し考えた。
怖いです。でも??隠しても意味がない人だと思います、根古さんは。隠したところで、すでに見えているかもしれない」
「霊感があるんでしたっけ」
「霊感というより??人が見える人だと思います。中身が」
千紗都はそれを聞いて、少し黙った。
「……私の中身、見られたくないな」
「どうしてですか」
「ぐちゃぐちゃだから」
星野は千紗都を見た。
「ぐちゃぐちゃでも、あなたはちゃんとしています」
「そうですか」
「そうです」
千紗都はしばらく黙ってから、あくびをした。
「眠くなってきました。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
千紗都が出て行った。ドアが静かに閉まった。
星野はまた窓の外を見た。可児の夜空に、星が見えた。
??東京では見えなかったものが、ここでは見える。
それがどういう意味を持つのか、今夜はまだわからなかった。
視点 : 古田 麻尋
【 翌日 茶店ラクカ 初めての訪問 】
ラクカに入ったとき、麻尋は最初に太田豊を見た。
カウンターの中の男。五十八歳。静かな顔でコーヒーを淹れている。
??この人は、何も聞かない人だ。
麻尋にはそれがわかった。人を見る仕事を三年やっていると、「聞かない人」と「聞く人」の区別がすぐつくようになる。太田は前者だった。それが、麻尋には安心だった。
根古親司はテーブルの端にいた。
麻尋は根古を見た。根古は麻尋を見た。
??この人は、すでに何かを見ている。私たちのことを、もう知っている。
それが怖いかと言えば??怖くなかった。不思議だったが、怖くなかった。
星野が根古に話した。すべてを。
根古は一度も手帳を取り出さなかった。質問もほとんどしなかった。ただ聞いていた。
話が終わったとき、根古が言った。
「あなたたちが今、正しい方向を向いているかどうかの方が大事です」
麻尋はその言葉を、後でずっと考えた。
??正しい方向。私はそれを、考えたことがあっただろうか。
仕事をした。生き延びた。千紗都と深夜にラーメンを食べた。泣いた夜があった。星野の隣にいた。
??それが正しい方向だったかどうかは、わからない。ただ、今この場所にいることは??間違っていない気がする。
太田がコーヒーを三人の前に置いた。
麻尋は一口飲んだ。
??旨い。
それだけで、少し、落ち着いた。
視点 : 西野 千紗都
【 可児滞在 数日後 可児川沿い 】
朱音が生きていると確認されてから、千紗都はしばらく動けなかった。
動けない、というのは体の話ではなく、気持ちの話だ。
ラクカで星野が朱音を抱きしめた。千紗都はそれを見て、口を手で押さえた。泣かないようにしていたが、たぶん泣いていた。
麻尋が天井を見ていた。同じだと思った。
夕方、一人で川沿いを歩いた。
朱音が隠れていた東屋の前まで来た。もう誰もいなかった。枯れ草が揺れていた。
??朱音さんは、ここで根古さんを待っていた。一人で、怪我をして、ここにいた。
千紗都は東屋の中に入って、朱音が座っていた場所に腰を下ろした。
冷たかった。
??寒かっただろうな。怖かっただろうな。それでもここにいたのは、根古さんが来ると信じていたから。
千紗都は空を見た。十一月の夕空が、橙色だった。
??私は、誰かをそんなふうに信じたことがあっただろうか。
家を出た十八歳のとき、誰も信じていなかった。星野に会って、少し変わった。麻尋と深夜にラーメンを食べて、もう少し変わった。
??今は、信じている。由紀子さんを。麻尋を。
それが怖いかと言えば??少し怖い。信じると、失うのが怖くなる。
でも。
??失うのが怖くても、信じる方が、ましだ。
足音がした。振り返ると、麻尋が来ていた。
「ここにいると思いました」と麻尋は言った。
「よくわかったね」
「千紗都さんは、考えたいときに川の近くへ行くので」
千紗都は少し笑った。
「麻尋こそ、なんで来たの」
「……一人にしておきたくなかったので」
千紗都はそれを聞いて、また少し泣きそうになった。こらえた。
「ありがとう」
麻尋は千紗都の隣に座った。
ふたりで、夕陽が沈むのを見た。
可児川が静かに流れていた。
視点 : 星野 由紀子
【 同日 夜 三人の部屋 】
千紗都と麻尋が戻ってきたのは、夜になってからだった。
ふたりとも、少し顔が軽くなっていた。星野にはわかった。
夕飯を三人で食べた。可児市内の定食屋で、みそカツ定食だった。
「名古屋文化ですね」と千紗都が言った。
「岐阜ですが」と麻尋が言った。
「でも名古屋に近いから」
「……それはそうかもしれません」
星野はみそカツを食べながら、ふたりを見ていた。
??東京を出て何日も経っていないのに、ここが少しずつ「いる場所」になっている気がする。
不思議だった。
東京では、街が「いる場所」だと思ったことがなかった。仕事をする場所、生き延びる場所だった。
??可児は、違う。
理由はわからなかった。ラクカのコーヒーのせいかもしれない。太田の静かな顔のせいかもしれない。根古の「今は正しい方向を向いている」という言葉のせいかもしれない。
あるいは??川が見えるからかもしれない。
「由紀子さん」と千紗都が言った。「この件が終わっても、しばらくここにいていいですか」
星野は少し驚いた。千紗都がそういうことを言うのは珍しかった。
「理由は」
「住みやすそうだから」
麻尋が静かに言った。
「私も、同じです」
星野はみそカツを一口食べた。
窓の外に、可児の夜が広がっていた。
「……考えておきます」と星野は言った。
「それ、いるってことですよね」と千紗都が笑った。
「どうしてそうなりますか」
「勘です」
麻尋が珍しく、声に出して笑った。
星野は答えなかった。
でも、みそカツの残りを、丁寧に食べた。




