書かない、という選択
雨が上がった翌日、石室の周囲は簡易のテントで覆われ、坂東直樹と土志田沙彩、そして急遽呼ばれた別の考古学者たちによる、慎重な発掘作業が始まった。
「石板の文字、まだ完全には読めませんが……シリア文字の系統に近い気がします」
土志田が拡大写真を見せながら言った。坂東がそれに頷く。
「景教の宣教師たちが使っていた文字だ。秦氏の渡来伝承と、この地の“三柱鳥居”が、ただの言い伝えじゃなかったということになる」
小此木永周は、崩落した地層の写真を見ながら唸っていた。
「面白いのは、上の層に“命のビザ”の名簿、下の層に千数百年前の遺物という、時代の違うものが同じ場所に集まっていることです。まるで、この土地自体が“逃れてきた者を受け入れる場所”だったみたいに」
その話を聞いていた木下千恵が、静かに口を開いた。
「私の祖母が、昔よく言っていたんです。“この山は、誰でも拒まない山だ”って。意味が分からなかったけど……今なら少し分かる気がします」
一方、山田貴明は、東京の編集部から矢のような催促の電話を受けていた。
「山田、可児で何かあったんだろう。イスラエル大使館だのCIAだの、匂いがしすぎる。書けるところまで書いてくれ」
山田はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「デスク、すみません。この件は、記事にしません」
「は? お前、何を言ってるんだ。特ダネだぞ」
「特ダネかもしれません。でも、これは……誰かの帰る場所の話なんです。杉原さんのビザで助かった人たちの子孫が、今もこの土地で暮らしている。それを、面白がって書くようなことは、俺にはできません」
「感情論を言うな。ジャーナリストの仕事は――」
「デスク」山田は電話を遮った。「ジャーナリストの仕事は、真実を伝えることだと思っていました。でも、伝えることが誰かを傷つけるだけなら、伝えないという判断も、仕事の一つだと、今は思います」
電話の向こうで、デスクは長い沈黙の後、ため息だけを返した。
根古親司は、その話を後で江戸川から聞いた。
「山田さんは、書かないと決めたそうです」
「そうか」根古は少し驚いたように、それから納得したように頷いた。「あの人、思ったより肝が据わってたんだな」
一石誠二からも、後日、根古の元に短い連絡が届いた。
「山田氏の判断、こちらでも把握しています。感謝申し上げます、とだけお伝えください」
石室の発掘作業は、その後も静かに続けられた。公にはならない歴史。誰かが記事にしなかったからこそ、そっと守られる記憶。可児の山は、今日もまた、誰も拒まないまま、静かに雨上がりの光を浴びていた。
(第五章・完)




