「交渉」
三光地所開発の事務所は、岐阜市内の雑居ビルの三階にあった。
根古は、由紀子、そして念のため一石にも同行を頼み、事務所を訪れた。
浩一は、狭いオフィスの奥で、根古たちを迎えた。
「わざわざ来るとは、思っていませんでした」浩一は言った。
「話をつけに来た」根古は言った。「これを見てもらいたい」
根古は、木下家当主のノートの写しをテーブルに置いた。 浩一は、しばらく黙って読み進めた。
読み終えると、浩一の表情が、わずかに強張った。
「これが本物だという証拠は」浩一は言った。 「筆跡鑑定は、これから正式に行う」根古は言った。
「だが、内容の一貫性は、木下家、そして清一さんの証言とも一致している」 「清一……」浩一は呟いた。
「生きているという、あの噂は、本当だったのか」 「本当だ」根古は言った。
「そして、清一さんも、この記録の内容を、裏付けている」
浩一は、しばらく黙っていた。
「儂の祖父から、この話は聞かされていた」浩一は、やがて口を開いた。
「安藤家は、木下家との取り決めによって、正当な財産を受け取る権利がある、と」 「祖父は、安藤家がその後、機密文書をソ連に売ったことについては、話さなかったのか」根古は聞いた。
浩一の表情が、初めて揺らいだ。
「……そこまでは、聞いていない」浩一は言った。「祖父は、都合の悪いことは、話さない人間だった」
「安藤家の裏切りによって、取り決めそのものが無効になった」根古は言った。
「木下家当主自身が、そう記している。これ以上、財産を主張する法的な根拠は、あんたにはない」
浩一は、テーブルの上のノートを、じっと見つめていた。
「儂は……」浩一は、静かに言った。
「儂は、ただ、家の誇りを、取り戻したかっただけだ」 「誇り?」 「安藤家は、義雄の代の裏切りが表沙汰になって以来、地元では、恥ずべき家系として扱われてきた」浩一は言った。
「儂の父も、儂自身も、その重荷を背負って生きてきた。この財産は、その汚名を返上する、最後のチャンスだと思っていた」
根古は、浩一の言葉に、しばらく黙っていた。
「その気持ちは、分からなくもない」根古は言った。
「だが、汚名を返上するために、また不正な手段を使うのは、本末転倒だ」
浩一は、うつむいた。
「一つ、提案がある」根古は言った。
「財産は、正式な手続きを経て、文化財として国か自治体に届け出る。金銭的な価値のある部分については、木下家、安藤家、そして今回の調査に関わった関係者??文吉さんの遺族なども含めて、話し合いの場を設けて、公正に分配することを検討する」 「なぜ、安藤家にも分配するんだ」浩一は、驚いた様子で聞いた。 「あんたの祖父の代の裏切りは、事実だ」根古は言った。
「だが、それは、あんた自身の罪じゃない。過去の因縁を、あんたの代まで引きずらせる必要はない」
浩一は、根古を見つめた。 「なぜ、そこまでする」浩一は聞いた。
「儂は、あんたを脅そうとした人間だぞ」 「脅されて、引き下がるつもりはない」根古は言った。
「だが、憎しみの連鎖を、これ以上続ける意味もないと思っている。
義雄も、清一さんも、節子さんも、そして俺の親父も??全員、この七十年の因縁の中で、何かを失ってきた。あんたの代で、少しでも、その連鎖を断ち切りたい」
浩一は、長い間、黙っていた。
やがて、静かに頭を下げた。 「……分かった」浩一は言った。
「ドローンでの調査は、今日で終わりにする。そちらの提案を、受け入れよう」
「賢明な判断だ」一石が、初めて口を開いた。
「今後、無許可の調査や、力による解決を試みれば、こちらも法的な対応を取る」 「分かっている」浩一は言った。
根古は、立ち上がった。 「話し合いの場は、改めて設ける」根古は言った。
「文吉さんの遺族、片桐さん、モーシェさんと節子さん、清一さん、義雄さん、そして美也子さんと康介さんも??関係者全員で、この件の落とし所を決めよう」
浩一は、小さく頷いた。 「儂も、出席させてもらう」浩一は言った。「今度こそ、正しい形で」
*
事務所を出ると、由紀子が根古に言った。
「意外でした」由紀子は言った。
「もっと厳しい態度で臨むかと思っていました」 「厳しくして、何が変わる」根古は言った。
「浩一が言った通り、彼も、過去の因縁に振り回された一人だ。義雄や、義一や、清一さんと、根っこは同じだ」
一石が、根古の肩を叩いた。
「甘い男だな、あんたは」一石は、少し笑った。 「そうかもしれない」根古は言った。
「だが、この町の因縁を、これ以上増やしたくない」
冬の空は、澄み渡っていた。 木曽川の水面が、午後の光を受けて、静かに輝いていた。




