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可児奇譚  作者: 賀茂丈晴
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7/44

山本彩織の休日 五条川の記憶

ドローン

休日の山本彩織は、制服を着ない。

ジーンズ、白いシャツ、スニーカー。

髪を下ろすと、二十八歳の普通の女に見える。

しかし目だけは、いつも通りだった。

きりっとした、よく見る目。


観察する目。


北小木エリアに来たのは、朝の七時だった。

五条川沿いの山道に車を止めた。

トランクからドローンのケースを取り出した。

三ヶ月前に自費で買った。

給料の三分の一が飛んだ。

しかし買った理由は明確だった。

捜索に使える。


山間部の捜索は、人間の足では限界がある。ドローンがあれば、人が入れない場所まで目が届く。

上司に提案したが、却下された。


「個人的な訓練は勝手にしろ」と言われた。

だから勝手にしていた。


ドローンを起動した。

プロペラが回り始めた。

モニターを確認した。

カメラの映像が映った。

ゆっくりと上昇させた。

木々の上に出た。


五条川沿いの山間部が広がった。

緑の深い、静かな場所だった。

人の気配がない。


山本は操作しながら、モニターを見ていた。

川沿いに北上させた。

木々の間を縫うように飛ばした。

練習の目的は、障害物の多い場所での精密操作だった。

三十分ほど飛ばした。


感覚が掴めてきた。

何気なく、川から離れて山の斜面に向けた。

木々が密生している。


日の当たらない場所だった。

モニターの映像が暗くなった。

山本はカメラのライトをつけた。

木々の間を飛ばした。

そのときだった。


モニターに、何かが映った。

一瞬だった。

山本は操作を止めた。


ドローンをホバリングさせた。

モニターをじっと見た。


木の根元に、何かが倒れていた。

山本は細かく操作して、近づけた。

映像が鮮明になった。

人間だった。

動いていなかった。


山本は息を止めた。

ドローンを手元に戻した。

ケースに収めた。


スマートフォンで座標を確認した。

山道を歩き始めた。

斜面を登った。


木々をかき分けた。

五分ほど歩いた。

あった。


男だった。

五十代前後に見えた。

うつ伏せで倒れていた。

動いていなかった。

山本はしゃがんだ。


脈を確認した。

なかった。


冷たかった。

死後、時間が経っていた。


山本は立ち上がった。

スマートフォンを取り出した。

110番を押した。


「山本彩織です。可児署の巡査長です。北小木エリアの五条川沿い山間部で、遺体を発見しました」

冷静な声だった。


しかし手が、わずかに震えていた。

それは恐怖ではなかった。


別の何かだった。

山本はそれが何かを、まだわからなかった。


管轄

最初に来たのは可児署のパトカーだった。

次に多治見署が来た。

そして犬山署も来た。

三つの署が、山間部の細い道に車を止めた。


山本は発見者として、その場で待機していた。

私服のまま。


ドローンのケースを足元に置いて。

可児署の先輩刑事が山本を見た。

「山本、なんでここにおるんや」

「ドローンの練習です」山本は言った。


「休日に」

「はい」


刑事は呆れた顔をした。

しかしすぐに顔を引き締めた。


多治見署の刑事が来た。


「発見場所はどこや」

可児署の刑事が言った。


「うちの管轄やと思うが」


「いや、この場所は多治見やないか」


「地図を見てみい」

「見とる。犬山や」


「可児や」

山本は二人のやり取りを聞いていた。


犬山署の刑事も加わった。


「この辺は犬山も絡む」

三者が地図を広げた。


山間部の複雑な管轄ラインが走っていた。

遺体の場所は、三つの管轄が入り組んだ境界線の、ほぼ中心だった。

山本は遺体の方を見た。

男がそこに倒れていた。

誰かの父親かもしれない。

誰かの息子かもしれない。


しかし今、三つの署が自分たちの管轄ではないと言い合っていた。

山本は静かに思った。


またか。


揉めている間、山本は遺体の近くに座った。

礼儀として、離れたくなかった。

しゃがんで、男の顔を見た。


知らない顔だった。

しかし。


山本は不思議な感覚に気づいた。


男の顔を見ていると、何かが伝わってくる気がした。

感情のようなもの。

悲しみとも、怒りとも違う。

疲れた感情だった。


長い間、疲れていた人間の感情だった。


山本は首を振った。

気のせいだと思った。


立ち上がった。

管轄の言い合いはまだ続いていた。

山本はスマートフォンを取り出した。

雨月に電話した。


「雨月さん、山本です。北小木で遺体を発見しました。管轄が揉めています」

雨月はすぐに言った。

「榊原さんに繋ぐ」


三十分後、榊原が来た。

三つの署の刑事を集めた。


静かに、しかしはっきりと言った。


「共同で動け。遺体を前にして恥ずかしくないのか」

誰も反論しなかった。

山本はそれを見ていた。


榊原という人間を、山本は尊敬していた。

権力で黙らせるのではなく、言葉で動かす人間だった。


榊原が山本に近づいた。

「山本、ドローンで見つけたんか」

「はい」

「よくやった」榊原は続けた。「しかし」


「わかっています」山本は言った。「個人的な訓練です。公務ではありません」

「そうや」榊原は続けた。「でも今日は、それでよかった」


山本は頷いた。

榊原は低い声で言った。


「根古さんに連絡するか」

山本は少し驚いた。

「根古さんに、ですか」


「身元不明や。状況もわからん」榊原は続けた。「お前はどう思う」

山本はしばらく考えた。

遺体の男の顔を思い出した。

疲れた感情を思い出した。


「お願いします」山本は言った。

榊原は頷いた。

携帯電話を取り出した。


根古、来る

根古が来たのは昼前だった。


軽自動車で来た。


フェルナンドが助手席にいた。

ヤマトは後部座席にいた。

山本は駐車スペースで待っていた。

根古が車を降りた。


ヨレたTシャツ。ジャージ。缶コーヒー。

山本は根古を見た。

根古と関わるようになって、半年以上が経っていた。


最初は信じられなかった。

霊能者など、胡散臭いと思っていた。


しかし現場で何度も見てきた。

根古が触れると、わかることがある。

根古が言うと、当たることがある。

今では信じていた。


理屈ではなく、実績として。

「山本か」根古は言った。

「はい。お休みのところ申し訳ありません」


「ええ」根古は缶コーヒーを飲んだ。「案内してくれ」

山本は歩き始めた。

斜面を登りながら、フェルナンドが山本に話しかけた。


「ドローンで見つけたんですか」

「はい」

「すごいですね。どのくらい飛ばせるんですか」


「まだ三ヶ月です」山本は続けた。「でも山間部の捜索には使えると思って」

「上司には」

「却下されました」山本は言った。「個人的な訓練です」


フェルナンドは山本を見た。

「山本さんはなぜ警察官に」

山本は少し間を置いた。


「聞いてどうするんですか」

「小説を書いているわけじゃないですが」フェルナンドは続けた。

「あなたのことを知りたくて」


山本はフェルナンドを見た。


嘘のない目だった。

「弟が、行方不明になったことがあります」山本は静かに言った。

フェルナンドは黙って聞いた。


「十年前です。弟が十五歳のとき、山で遭難しかけた」山本は続けた。「二日間、見つからなかった。警察が捜索して、やっと見つかった」


「それで警察官に」


「見つけてくれた警察官が、女性でした」山本は続けた。

「山の捜索が得意な人で。その人に憧れました」


フェルナンドは頷いた。

根古は黙って歩いていた。


しかし聞いていた。

山本はわかっていた。


この男はいつも、黙って聞いている。

遺体の前に来た。


鑑識がまだ作業中だった。


根古は鑑識に目礼した。


遺体の前にしゃがんだ。


右手を、男の肩にそっと触れた。


山本は少し離れて見ていた。


フェルナンドはカメラを出さなかった。


この場では出さない判断だった。


根古は目を閉じた。


一分。


二分。


山本は根古を見ていた。


そのとき、また感じた。

さっきと同じ感覚だった。

疲れた感情。

長い間、疲れていた人間の感情。


しかし今度は、もう少し細かかった。

孤独だった。

長い間、一人だった人間の孤独だった。


山本は自分の手を見た。


何も触れていなかった。

しかし感じていた。

どういうことか、わからなかった。


根古が目を開けた。

立ち上がった。

山本を見た。


一秒。


根古の目が、わずかに細くなった。


「山本」根古は静かに言った。

「はい」

「お前、何か感じたか。さっきから」


山本は根古を見た。

正直に言うべきか、迷った。

しかし根古の目を見た。

深い川の底のような目。


「感じました」山本は静かに言った。「この男の、疲れた感情と、孤独を」

根古は山本を見た。

しばらく黙っていた。

やがて静かに言った。


「そうか」

それだけだった。


しかしフェルナンドは根古の横顔を見た。

根古が何かを理解した顔をしていた。


山本について、何かを。

根古は遺体の周囲を歩いた。

地面に触れた。

木の幹に触れた。


最後に、男が倒れていた場所の土に、右手を押し当てた。

長かった。

五分近く、動かなかった。


山本は待った。

フェルナンドも待った。


鑑識が作業を続けていた。

やがて根古は立ち上がった。

「わかったことを言う」根古は山本とフェルナンドに向かって静かに言った。

二人が根古を見た。


「この男は、ここで死んだんやない」根古は続けた。

「運ばれてきた。別の場所で死んで、ここに置かれた」

「また運搬ですか」フェルナンドは言った。


「そうや」根古は続けた。「しかし今回は少し違う」


「何が違うんですか」山本が聞いた。


「隠したんやない」根古は静かに言った。「置いたんや」


「どういう意味ですか」


根古は山間部を見回した。

五条川の音が遠くから聞こえた。


「この男を、ここに連れてきた人間がいる」根古は続けた。「その人間は、隠すためやなく、見つけてもらうために置いた」


山本は息を呑んだ。

「見つけてもらうために」

「そうや」根古は続けた。「この場所を選んだのも、理由がある」

「どんな理由ですか」


根古はしばらく黙っていた。

五条川の音を聞いていた。


「この場所に、この男と縁のある何かがある」根古は静かに言った。

「連れてきた人間は、そこに戻したかったんやろ」


「縁のある何か、というのは」フェルナンドが聞いた。


根古は答えなかった。

代わりに山本を見た。

「山本」根古は言った。

「はい」


「ドローン、もう一度飛ばせるか」


山本は根古を見た。

「飛ばせます」山本は言った。「何を探しますか」


根古は五条川の方向を見た。

「水の近くや」根古は続けた。「川沿いに、古い何かがある。建物か、構造物か」


「探します」山本は言った。

ケースを開けた。

ドローンを起動した。

プロペラが回り始めた。


根古はそれを見ていた。


缶コーヒーを一口飲んだ。

フェルナンドが根古に小声で言った。

「山本さん、何か能力がありますか」

根古はしばらく黙っていた。


「まだわからん」根古は静かに言った。「でも」

「でも?」

「あの子は、ずっと感じとったんやろ」根古は続けた。

「ただ気づいとらんかっただけや」


フェルナンドは山本を見た。

山本はモニターを見ながら、集中していた。

ドローンが五条川沿いを飛んでいた。

静かな、しかし真剣な目だった。


その目が、根古の目に少し似ていた。

深い川の底のような目に。



ドローンの目

山本はモニターを見ながら、ドローンを五条川沿いに南下させた。

木々の上を飛ばした。

川面が映った。


六月の五条川は水量が多かった。

緑の中を、静かに流れていた。

根古は山本の後ろに立って、モニターを見ていた。

フェルナンドも見ていた。


山本は操作しながら言った。

「根古さん、どのあたりですか」

「もう少し西や」根古は言った。「川が曲がっとるところの先」

山本はドローンを進めた。


川が緩やかに曲がった。

その先に進んだ。

木々が深くなった。

日が届かない場所だった。


「もう少し下げてみい」根古が言った。

山本は高度を下げた。

木々の間に入り込んだ。

モニターが暗くなった。

ライトをつけた。


進んだ。

そのとき。

モニターに映った。


石造りの構造物だった。

苔むしていた。


木々に埋もれるように建っていた。

しかし形は残っていた。


小さな祠だった。

古い、非常に古い祠だった。

傍らに、石が並んでいた。

墓標のような石が、几帳面に並んでいた。


山本は操作を止めた。


ドローンをホバリングさせた。


モニターをじっと見た。

「根古さん」山本は言った。

「見える」根古は静かに言った。

「あの祠は」

「古い」根古は続けた。「相当古い」


フェルナンドがメモを取り始めた。


「行きましょうか」山本は言った。


「行く」根古は言った。

ドローンを手元に戻した。


三人は五条川沿いを歩き始めた。

草を踏みながら、木々をかき分けながら。

根古は先頭を歩いた。

迷わなかった。


ドローンで確認した場所を、正確に辿っていった。

山本は根古の後をついていきながら、感覚が戻ってきているのを感じた。

さっきの感覚だった。

疲れた感情。

孤独。


しかし今度は、場所から来ていた。

土から。

木々から。

この山間部全体から、何かが伝わってきていた。


山本は足元を見た。

苔むした地面だった。

しかし。


踏むたびに、何かが伝わってくる気がした。


古い記憶のようなもの。

悲しみのようなもの。

山本は立ち止まった。

根古が振り返った。


「どうした」

「少し」山本は言った。

「この場所から、何かが伝わってくる気がして」


根古は山本を見た。


一秒。


「しゃがんでみい」根古は静かに言った。

「え」

「地面に手を触れてみい」


山本はしゃがんだ。

右手を、地面に触れた。

その瞬間だった。


映像のようなものが来た。

一瞬だった。

しかし鮮明だった。

人が歩いていた。


この山道を、人が歩いていた。


昔の人間だった。

着物を着ていた。

何人もいた。

疲れた顔をしていた。

重たいものを背負っていた。

そして悲しんでいた。


深い悲しみだった。

誰かを失った悲しみだった。

山本は手を離した。

立ち上がった。


息が上がっていた。

フェルナンドが山本を見た。


「大丈夫ですか」

「大丈夫です」山本は言った。

根古を見た。


「今、人が歩いているのが見えました」山本は続けた。

「昔の人間が、この道を歩いていた。悲しんでいた」


根古は山本を見た。

静かな目だった。


「何人おったか」根古が聞いた。

「何人も。列になって歩いていた」

「何を背負っとった」

山本は少し考えた。


「棺のようなものを」山本は静かに言った。「誰かを、運んでいた」

根古は頷いた。

「葬列や」根古は静かに言った。「昔、この道は弔いの道やった」


フェルナンドはノートに書いた。

「弔いの道」フェルナンドは繰り返した。


「この山間部に、古い埋葬地があったんやろ」根古は続けた。

「その祠が、その場所や」

山本は地面を見た。


右手を見た。

「根古さん」山本は言った。「私が今感じたのは」

「サイコメトリーや」根古は静かに言った。

「でも私は何も特別な訓練を」


「関係ない」根古は続けた。

「生まれ持ったもんや。ただ今まで、気づかんかっただけや」


山本はしばらく手を見ていた。


「弟を捜してもらったとき」山本は静かに言った。

「私も山に入った。警察より先に山に入った。なぜかわかった気がして」


「わかったんか」


「方向が、なんとなく」山本は続けた。

「北じゃないと思った。西の斜面やと思った。実際に弟は西の沢で見つかった」


「その頃から、あったんやろ」根古は静かに言った。


山本は根古を見た。

「こわくないですか」山本は聞いた。


根古は少し間を置いた。

「怖い、か」根古は続けた。

「最初はそうやったかもしれん。でも」


「でも?」

「見えるもんは、見える」根古は静かに言った。「感じるもんは、感じる。それだけや」

山本は根古を見た。


この男が二十年以上、それと向き合ってきた。

ヨレたTシャツで。缶コーヒーを飲みながら。たまたまや、と言いながら。

山本は少し、笑いそうになった。

こらえた。


「行くか」根古は言った。

山本は頷いた。

三人は歩き続けた。


祠に着いた。

予想より小さかった。

しかし存在感があった。

苔むした石の祠。


その前に、石が並んでいた。

十数個の石が、整然と並んでいた。

名前は刻まれていなかった。

しかし墓標だった。


根古は祠の前に立った。

手を合わせた。


フェルナンドも手を合わせた。

山本も手を合わせた。


静かだった。

五条川の水音だけが聞こえた。

根古は祠に右手を触れた。

目を閉じた。

長かった。


十分近く、動かなかった。


山本は待ちながら、また感じ始めた。

この場所の感情が、じわじわと伝わってきた。

悲しみ。


しかし今度は温かかった。

大切にされてきた場所の温かさだった。


誰かがずっと、ここを守ってきた温かさだった。


根古が目を開けた。

振り返った。


「この祠はな」根古は静かに言った。

「この山間部で生きて死んだ、無縁の人間たちを祀っとる」


「無縁の人間たち」フェルナンドが言った。


「家族もなく、名前も残らんかった人間たちや」根古は続けた。

「江戸の頃から、ここに祀られてきた」


「誰が祀っていたんですか」山本が聞いた。


「この土地に代々生きてきた人間たちや」根古は続けた。

「名前は残っとらんが、ずっと手入れしてきた人間がおった」


「最近まで」フェルナンドが聞いた。

「最近まで」根古は頷いた。「しかし今は誰もおらん。手入れが途絶えとる」


山本は石の墓標を見た。

名前のない石。


しかし丁寧に並べられた石。

「遺体の男は」山本は静かに言った。

「この場所と、縁があるんですね」


根古は山本を見た。

「そうや」根古は言った。「お前、わかったんか」

「感じました」山本は続けた。「この場所に来たとき、あの男と同じ感情がした。疲れた感情と、孤独と。でも今は」


「今は」


「この場所の温かさと、混じっています」山本は静かに言った。

「あの男は、ここに戻りたかったんやないかと思って」


根古は山本を見た。

しばらく黙っていた。

やがて静かに言った。

「ええ感覚しとる」

それだけだった。


しかし山本には、それで十分だった。

フェルナンドはノートを閉じた。

書けなかった。


この場所の空気を、言葉にできなかった。

五条川の水音が続いていた。

静かな、深い音だった。

三人は祠の前に座った。


しばらく黙っていた。

根古が口を開いた。


「遺体の男はな」根古は続けた。「この土地の出や」

「身元不明でしたが」フェルナンドが言った。

「戸籍上は不明やろ」根古は続けた。「でもこの土地で生まれた人間や。この祠を知っていた。この場所に戻りたかった」


「連れてきた人間は」山本が言った。

「知っとる人間や」根古は続けた。

「男の最後の望みを、叶えてやった人間や」

「殺したわけではない」山本は言った。


「違う」根古は静かに言った。

「男は自然に死んだ。老いて、疲れて、一人で死んだ。連れてきた人間は、その後にここへ運んできた」


山本は祠を見た。

「その人間を、捜さなければいけませんか」山本は言った。


根古は少し間を置いた。

「法的にはな」根古は静かに言った。「遺体の移動は犯罪やから」

「でも根古さんは」

「ワシは何も言わん」根古は缶コーヒーを飲んだ。

「たまたまここに来ただけや」


山本は根古を見た。

根古は祠を見ていた。

静かな目だった。

山本はわかった。


この男はいつも、法と情の間を歩いている。

どちらにも属さず、しかし両方を理解して。

山本はスマートフォンを取り出した。

榊原に電話した。


「山本です。身元不明の男について、少し話したいことがあります」

榊原は静かに言った。


「わかった。ラクカで話そう」

電話を切った。


山本は祠に向かって、もう一度手を合わせた。


根古も合わせた。

フェルナンドも合わせた。

五条川の水音が続いていた。

木々が風に揺れた。


その揺れ方が、どこか頷くようだった。


ラクカにて

ラクカに戻ると、太田マスターがコーヒーを出した。


山本は初めて、ラクカのカウンターに根古の隣に座った。


いつもは少し離れた場所に座っていた。


今日は隣だった。


根古は何も言わなかった。

それでいいということだった。


榊原が来た。

山本は話した。

全部話した。

祠のこと。

感じたこと。


連れてきた人間が悪意ではなかったこと。

榊原はコーヒーを飲みながら聞いた。

話し終えると、しばらく黙っていた。


「身元の特定を急ぐ」榊原は静かに言った。

「連れてきた人間については」榊原は続けた。「状況を見て判断する」

それだけだった。


山本は頷いた。

太田マスターがコーヒーを淹れ直した。

JAZZが流れていた。


チェット・ベイカーのトランペットだった。

哀愁のある、静かな音だった。

根古は缶コーヒーを飲んでいた。


山本は自分の手を見た。

右手。

さっき地面に触れた手。


祠に触れた手ではない。

しかし感じた手。

「根古さん」山本は言った。

「なんや」

「これから、どうすればいいですか」


根古は少し間を置いた。

「どうとは」

「感じるものが、増えてきたら」山本は続けた。

「仕事に支障が出ますか」


根古はしばらく考えた。

「出るかもしれん」根古は静かに言った。「でも」


「でも?」


「感じるから、わかることがある」根古は続けた。

「お前は今日、ドローンで遺体を見つけた。そして祠を見つけた。そして男の感情を感じた。全部、繋がっとるやろ」


山本は根古を見た。

「繋がっています」

「感じる力があるから、繋げられた」根古は缶コーヒーを置いた。「それはお前の仕事の邪魔やない。助けや」


山本はしばらく根古を見ていた。

この男は。

いつも必要なことだけを言う。


余計なことを言わない。

励ましでもなく、慰めでもなく。

ただ、事実を言う。


「ありがとうございます」山本は言った。

根古は答えなかった。


缶コーヒーを一口飲んだ。

ヤマトが木下千恵の動物病院から戻っていた。

カウンターの端にいた。


山本を見た。

緑色の目で、じっと見た。

山本はヤマトを見た。


ヤマトはゆっくりと山本に近づいた。

山本の隣に座った。

根古と山本の間に、黒猫が座った。


根古は何も言わなかった。

太田マスターが微笑んだ。

「ヤマトに認められましたね」太田マスターは静かに言った。


山本はヤマトを見た。

ヤマトは目を細めた。


山本は右手を、そっとヤマトに触れた。

何かが伝わってきた。

温かいものだった。

悲しみでも孤独でもなかった。

ただ、温かかった。


山本は少し、笑った。

小さな笑いだった。


しかし今日初めての、本当の笑いだった。

JAZZが続いていた。


チェット・ベイカーのトランペットが、静かにラクカに満ちていた。


窓の外に、夕方の光が差し込んでいた。

五条川の水音は、もう聞こえなかった。

しかし山本の中に、まだ残っていた。


深い川の底のような、静かな音が。


エピローグ

身元不明の男の身元が判明したのは、一週間後だった。


岩田清二。七十四歳。


かつて北小木エリアに生まれ、若い頃に都会に出た。

家族もなく、友人もなく、最後は一人で小さなアパートで死んでいた。

連れてきた人間は、同じアパートの住人だった。

八十二歳の老人だった。


岩田が死ぬ前に言っていたらしかった。

生まれた山に、戻りたいと。


老人は岩田を軽自動車に乗せて、北小木まで連れてきた。

祠の前に置いた。

そして帰った。


榊原は老人と話した。


話し終えた後、榊原は根古に電話した。

「どうするか、お前の意見を聞かせてくれ」


根古はしばらく黙っていた。

「たまたまやな」根古は静かに言った。

榊原は苦笑いした。


「そうやな」榊原は言った。

「たまたま、か」


山本彩織は翌週から、ドローンの訓練を続けた。

場所は同じ、北小木エリアだった。

飛ばしながら、五条川を見た。


木々を見た。

祠の方角を見た。


何も感じなかった日もあった。

何かを感じる日もあった。

どちらでも、山本は訓練を続けた。


ある日、上司に呼ばれた。


「山本、ドローンの訓練、署として認める」上司は言った。

「捜索業務に使え」


山本は頷いた。


「ありがとうございます」

「礼はいらん」上司は言った。「榊原さんから話があった」


山本は榊原の顔を思い浮かべた。

根古の顔も浮かんだ。

ヤマトの緑色の目も浮かんだ。


山本は窓の外を見た。

梅雨が明けていた。

青い空が広がっていた。


五条川の水が、光を受けて輝いているだろうと思った。

山本は右手を見た。

何も触れていない手。

しかし確かに、感じる手。


これからどうなるか、まだわからなかった。

しかし。

山本は思った。


感じるから、わかることがある。

根古の言葉だった。

それで十分だった。

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