平圭の事件簿 産廃の声
一
八月の工業団地は、昼間でも人気がない。
広い道路に、倉庫と工場が並んでいる。
トラックが時々通り過ぎるだけで、人の姿はほとんど見えない。
夜になればもっと静かになる。街灯の数も少ない。
平圭がここに来たのは、通報がきっかけだった。
「夜中に倉庫の裏で、声が聞こえる」
匿名の通報だった。悲鳴ではない。ただ、声が聞こえる、と。
安藤警部補が「一応確認しとけ」と言って、また押しつけてきた。
平は昼間のうちに、現場の下見に来た。
問題の倉庫は、団地の北端にあった。
シャッターに錆が浮いて、雑草が壁際に伸びている。
もう何年も使われていない様子だった。
倉庫の裏手に回った。
雑草が膝の高さまで伸びていた。コンクリートの壁が灰色に汚れていた。
何もない。
でも??
平は立ち止まった。
空気が、重かった。
二
署に戻って、この倉庫の登記を調べた。
所有者は、すでに解散した建設会社だった。十二年前に倒産している。
倒産の二年前、この会社が産業廃棄物の不法投棄で行政指導を受けた記録があった。
投棄場所は、複数箇所。
その中に??この工業団地周辺の地名があった。
平はモニターを見つめた。
十二年前。不法投棄。解散した会社。
何かが、引っかかった。
記録をさらに遡った。
この会社の元請けだった大手建設会社の名前が出てきた。
当時、県内でいくつかの公共工事を請け負っていた会社だった。
そして??岩瀬正雄が市役所で担当していた土地開発案件に、この会社の名前があった。
平は息を止めた。
先月の下呂の件と、繋がっている。
三
ミーコさんに電話した。
「岩瀬さんの件で調べていた建設会社、覚えていますか」
「もちろん」
「可児の工業団地の倉庫に、その会社が絡んでいます」
電話の向こうで、ミーコさんが黙った。
「どういうこと」
「不法投棄の記録があります。十二年前。
でも元請けの会社は今も存続しています」
「……繋がってるの」
「わかりません。でも気になっています」
「わかった」ミーコさんの声が、仕事モードに切り替わった。
「私も調べる。でも平さん、一人で動かないで」
「はい」
電話を切って、スマホを見た。
おじさんへのLINEを開く。
「産廃の倉庫で、声が聞こえるという通報がありました」
「下呂の件と繋がっているかもしれません」
「夜、一緒に来てもらえますか」
既読がついた。
長い間があった。
「……わかった」
珍しく、すぐに返信が来た。
四
夜の十時。
工業団地の入口に、軽自動車が止まった。
おじさんが降りてきた。今夜は缶コーヒーを持っていなかった。
それだけで、平は少し緊張した。
「場所は」
「北端の倉庫です」
二人で歩いた。街灯の間隔が広くて、足元が暗かった。
おじさんの左足が、砂利の上でゆっくりと動く。
倉庫が見えてきた。
おじさんが立ち止まった。
まだ三十メートルは距離がある。
「重たい」
低い声で言った。
「鬼岩の時より?」と平は聞いた。
「比べものにならん」
平は倉庫を見た。暗闇の中で、シャッターが鈍く光っている。
「複数、いますか」
「ああ」おじさんは前を向いたまま言った。
「怒っとる。長い間、ここに閉じ込められとった連中や」
「閉じ込められた」
「不法投棄の話、お前が言っとったやろ」おじさんは歩き出した。
「産廃の中に、混じっとったんやろな」
平は足が止まりかけた。
「人が、いたということですか」
おじさんは答えなかった。
答えが、答えだった。
五
倉庫の裏手に回った。
昼間来た時と同じ場所なのに、空気がまるで違った。
重く、冷たく、何かが圧しかかってくるような感覚があった。
平にも、感じ取れた。
おじさんが言っていた。見える人間は、向こうからも見える。
だんだん見えるようになってきている、と。
今夜は、見えるというより??感じた。
壁の向こうに、何かがいる。
複数の、何かが。
「おじさん」
「黙っとれ」
おじさんは壁の前に立った。
右手を、ゆっくりと上げた。
平は三歩下がって、待った。
おじさんが何かを言った。声が低すぎて聞き取れなかった。
それから??
平には見えなかった。でも感じた。
壁の向こうから、何かが、出てきた。
一つではなかった。
ゆっくりと、次々と。
六
どれくらいの時間が経ったか、わからなかった。
平はずっと壁に向かって立っていた。動けなかった。
怖いというより??その場を離れてはいけない、という感覚があった。
おじさんが倒れそうになったのは、たぶん三十分後だった。
右手を下ろして、膝に手をついた。
平が駆け寄った。
「おじさん」
「……大丈夫や」
大丈夫に見えなかった。顔色が土気色で、額から汗が流れていた。
左足が、いつも以上に力が入っていなかった。
「肩、貸します」
「ええ」おじさんは珍しく断らなかった。
平が肩を貸して、おじさんを支えた。
重かった。普通の中年男性の体重だった。
「全部、行きましたか」
「……まだ二人、残っとる」おじさんは息を整えながら言った。
「疲れた。今夜はここまでや」
「無理しないでください」
「無理してない」おじさんは低く笑った。
「これが限界や。無理と限界は違う」
七
軽自動車の助手席に、おじさんを乗せた。
ヤマトが後部座席から顔を出した。夜の外出に、連れてきていたらしい。
黒猫が平を見て、一度だけ鳴いた。
「ヤマト、来てたんですか」
「こいつがおると、少し楽になる」おじさんはヤマトの頭を撫でた。
「守護霊たちも、こいつのことを気に入っとる」
平は助手席の窓から、倉庫の方を見た。
「残った二人は、どうしますか」
「後日や」おじさんは目を閉じた。「体力戻ったら、また来る」
「一人で来ないでください」
「……うるさいな」
「一人で来ないでください」
おじさんは黙った。
しばらくして、小さく言った。
「わかった」
八
翌週、ミーコさんから報告が来た。
元請けの建設会社の内部告発者が見つかった。
十二年前、不法投棄の現場を知っていた元社員だった。
産廃の中には、工事中に事故死した外国人労働者二名が含まれていた、という証言が出た。
会社は労災を隠蔽するために、遺体を産廃と一緒に処理したとみられていた。
「証言だけでは立件が難しい」とミーコさんは言った。
「でも掘り起こすことはできる。岩瀬さんの件と合わせて、当時の公共工事全体の不正を告発する方向で動いている」
平は電話を持ったまま、窓の外を見た。
「倉庫の裏に、二人いるそうです」
ミーコさんが沈黙した。
「……根古さんが言ったの」
「はい」
「そう」ミーコさんの声が、少し低くなった。「わかった。ちゃんとやる」
九
三週間後の夜。
おじさんから短いLINEが来た。
「終わった」
平はすぐに返信した。
「全員、行きましたか」
「ああ」
「お疲れさまでした」
しばらく間があった。
「お前も来とったやろ」
平は手を止めた。
あの夜から三週間、平は毎晩、倉庫の前を通っていた。
パトロールのルートを少し変えて。何をするわけでもなく、ただ通るだけ。
おじさんには言っていなかった。
「わかってたんですか」
「ヤマトが言うとった」
平は笑ってしまった。
「ヤマトが」
「あいつはいろいろ知っとる」
十 エピローグ
九月になって、工業団地の倉庫は行政によって調査が入った。
産廃の処理が不適切だったとして、元請け会社への調査が始まった。
遺骨が発見されたのは、調査開始から二週間後だった。
二名分だった。
身元の特定には時間がかかったが、十二年前に行方不明になっていた外国人労働者と一致した。
ニュースは小さく報じられた。地方面の、短い記事だった。
平はその記事をスマホで読んでから、おじさんにLINEを送った。
「見つかりました。二人とも」
既読がついた。
返信はなかった。
でも平にはわかった。
おじさんはたぶん今頃、どこかの温泉に浸かっている。
ヤマトを助手席に乗せて、軽自動車でのんびり走って、誰も知らない湯に入って、缶コーヒーを飲んでいる。
それでいい、と思った。
それが、この人の在り方だから。
平圭は、翌年の春に巡査部長に昇進した。
辞令を受け取った日の夜、おじさんにLINEを送った。
「昇進しました」
「そか」
「これからもよろしくお願いします」
長い間があった。
既読がついたのは、翌朝だった。
「温泉旅行券、いらんか」
「いります」
「お前は欲張りやな」
平は署のロッカーの前で、一人で笑った。
外は春の光が溢れていた。
完




