平圭の事件簿 下呂への依頼
一
七月の下呂は、観光客で賑わっていた。
温泉街のメインストリートを浴衣姿のカップルが歩き、土産物屋の軒先に風鈴が鳴っている。
飛騨川の川面が夏の光を弾いて、どこを見ても絵葉書みたいな景色だった。
平圭がここに来たのは、完全に私的な理由だった。
有給休暇。一泊二日。温泉目当て。
??のはずだった。
旅館にチェックインして、浴衣に着替えて、温泉街をぶらぶら歩いていたら、スマホが鳴った。
知らない番号だった。
「あの、垂井と申します。垂井美智子。弁護士の」
平は足を止めた。
ミーコさん、とみんなが呼んでいる人だ。
根古おじさんの近所に住む、四十四歳の弁護士。
一度だけ、前の事件で顔を見たことがある。
「どうして私の番号を」
「根古さんから聞きました。ちょっと困ったことがあって、根古さんに連絡したら、今日は下呂に行っとるから平巡査に頼め、と」
平は空を仰いだ。
「根古さんも下呂にいるんですか」
「はい。いつもの宿に」
「……わかりました。どこですか」
二
待ち合わせは、川沿いの喫茶店だった。
垂井美智子は、思っていたより小柄な人だった。
きりっとした目と、きびきびした話し方。弁護士、という肩書きが似合っていた。
「急にすみません。実は依頼人から連絡が来て」
テーブルに書類を広げながら、ミーコさんは話し始めた。
依頼人は、下呂市内に住む六十代の女性。名前は岩瀬節子。
三ヶ月前から、自宅で「声が聞こえる」という。
男の声で、自分の名前を呼ぶ。最初は気のせいだと思っていたが、だんだん頻度が増してきた。
「霊能者に相談したら、『強い念がある、自分では手に負えない』と言われて、逃げられたそうで」
「逃げられた」
「プロが逃げるレベル、ということです」ミーコさんはさらりと言った。
「それで根古さんに相談したんですが、ちょうど今日、根古さんも下呂に来ていると聞いて」
「なんで私に」
「根古さんが『平に先に話を聞かせろ』と言ったんです」ミーコさんは少し苦笑いをした。
「あの人、正面から頼まれると断るので。まず平さんから話を聞いて、根古さんに繋いでほしいと」
平は紅茶を一口飲んだ。
「おじさん、今どこにいるんですか」
「温泉です」
三
岩瀬節子の家は、温泉街から少し外れた住宅地にあった。
こぢんまりした一軒家。庭に紫陽花が咲いている。
玄関を開けた岩瀬節子は、七十に近い年齢に見えたが、目がしっかりしていた。
「わざわざすみません。でも、もう限界で」
お茶を出してもらいながら、話を聞いた。
声が聞こえ始めたのは、三ヶ月前。夫が亡くなって半年後のことだった。
「最初は夫かと思ったんです。名前を呼ぶ声が、主人に似ていて」
「でも違った」
「はい」岩瀬節子は両手を膝の上で握り合わせた。
「主人の声じゃない。もっと、冷たい声で。名前を呼びながら、何かをずっと言っているんです。
聞き取れないんですが、怒っているような」
「ご主人が亡くなってから始まったんですね」
「そうです。主人が使っていた部屋から、聞こえる気がして」
平はメモを取りながら、部屋を見回した。
普通の居間だった。
仏壇があって、遺影が飾ってある。穏やかな顔の老人の写真。
「ご主人のお名前は」
「岩瀬 正雄。七十一歳でした」
「お仕事は」
「定年まで市役所に勤めていました。真面目な人で??」岩瀬節子は少し言いよどんだ。「真面目、でしたが、その」
平は顔を上げた。
「何か、気になることがありますか」
岩瀬節子は長い間、黙っていた。
「主人が亡くなった後、知らない人から手紙が来たんです」
四
手紙は、一通だった。
差出人の名前はなかった。消印は下呂市内。
便箋に、こう書いてあった。
「岩瀬正雄さんのことで、話したいことがあります。奥様にとって辛い内容かもしれませんが、真実を知っておくべきだと思います」
以下に、電話番号が書いてあった。
「電話しましたか」
「……しました」岩瀬節子は目を伏せた。「繋がらなかったんです。何度かけても。それからしばらくして、番号が使われていない、というアナウンスになって」
平は手紙を見た。丁寧な字だった。女性の筆跡のような気がした。
「この手紙が来たのは、いつですか」
「声が聞こえ始めた頃と、ほぼ同じ時期です」
平はメモを置いた。
霊的な現象と、現実の手紙が、同じタイミングで起きている。
これは??おじさんだけの案件じゃない。
五
喫茶店に戻って、ミーコさんに報告した。
ミーコさんは手紙のコピーを見ながら、目を細めた。
「差出人不明、電話番号が使われていない。意図的に身元を隠している」
「何か法的に調べられますか」
「消印の郵便局の範囲を絞ることはできますが、それだけでは」ミーコさんは腕を組んだ。
「ただ、岩瀬正雄さんの市役所での仕事内容によっては、いろいろ出てくるかもしれない」
「調べてもらえますか」
「もちろん。それが私の仕事です」
平はスマホを取り出した。
「おじさん、岩瀬節子さんの話を聞きました」
「霊的な案件だけじゃなくて、現実の問題も絡んでいそうです」
「今夜、一緒に岩瀬さんの家に行ってもらえますか」
既読がついた。
「温泉、もう一回入ってからな」
六
夜の九時。
おじさんの軽自動車が岩瀬節子の家の前に止まった。
おじさんは浴衣の上に薄手のジャンパーを羽織っていた。完全に温泉帰りの格好だった。
「温泉の感想は後で聞きます」と平は言った。
「ここの湯は柔らかくてええな」とおじさんは言った。
岩瀬節子は、おじさんを見て少し驚いた顔をした。
あまりにも普通の中年男性に見えるせいだろう。でも何も言わなかった。
おじさんは家に入って、居間をぐるりと見回した。
仏壇の遺影を、じっと見た。
それから、廊下の奥??夫が使っていたという部屋の方向を見た。
しばらく、黙っていた。
「声が聞こえる部屋、見せてもらえますか」
七
六畳の和室だった。
本棚と、机と、もう使われていない布団が畳まれている。
生前のままにしてある、と岩瀬節子は言った。
おじさんは部屋の中央に立った。
平は廊下から見ていた。
おじさんは目を閉じた。
何もない時間が続いた。一分。二分。
それから、おじさんの表情が変わった。
眉間に皺が寄って、少し険しくなった。
「……出てこい」
低い声で言った。
部屋の空気が、変わった気がした。
平には見えなかったが、感じた。何かが、部屋の隅から出てきたような。
おじさんは右手を上げた。
平は息を呑んだ。あの右手から何かが出る、と前に聞いたことがある。魂を剥離させる力、と。
でも??
「お前は岩瀬正雄やない」
おじさんは静かに言った。
「正雄さんの名前を借りて、ここにおったんやな」
八
平が岩瀬節子に廊下で待つよう促している間、おじさんは部屋の中で何かをしていた。
声は聞こえなかった。
ただ、右手の動きが、窓から見えた。
二十分後、おじさんが部屋から出てきた。
顔色が、また悪くなっていた。
「終わった」と言って、居間に戻った。
岩瀬節子が「どうでしたか」と聞いた。
「ご主人やなかった」おじさんは座りながら言った。「別の、もっと古い念や。この土地に昔からいたもんが、ご主人が亡くなった隙に入り込んだ」
「主人とは関係ない、と」
「正雄さんは、ちゃんとおられます。
心配いらん」おじさんはお茶を一口飲んだ。「ただ」
「ただ?」
「手紙の件は別や」おじさんは平を見た。「そっちは現実の問題や。
ワシには関係ない」
平はうなずいた。「ミーコさんが調べています」
「そうか」おじさんは立ち上がった。「あとはそっちに任せる」
九
一週間後、ミーコさんから連絡が来た。
岩瀬正雄の市役所時代の記録を調べたところ、土地開発に関わる部署に長くいたことがわかった。
二十年前、地元の土地整理で不正があった疑いが浮上していた。
当時もみ消されたとみられる案件で、関係者の一人がつい最近亡くなっていた。
手紙の差出人の候補は、その関係者の遺族だった。
「真実を伝えようとしたが、怖くなって連絡を断った、ということですか」と平は言った。
「おそらく」ミーコさんは言った。「岩瀬節子さんには、正式に話を聞く機会を作ります。
辛い内容になるかもしれないけれど、知らないよりはいい」
「岩瀬さんはどう言っていますか」
「『知りたい』と言っています」ミーコさんは少し間を置いた。
「真面目な人だったって言っていたでしょう。でもそれだけじゃなかったかもしれない。それでも??知りたい、と」
平は窓の外を見た。
夏の空が高かった。
エピローグ
下呂から帰る日の朝、平はもう一度飛騨川沿いを歩いた。
川は穏やかに流れていた。
スマホにLINEが来た。おじさんからだった。
「岩瀬さんの件、あとはよろしく」
「はい。温泉、どうでしたか」
しばらく既読がつかなかった。
バスの時間が来て、乗り込んで、座席に落ち着いたところで通知が来た。
「最高やった」
「また来る」
平は思わず笑った。
バスが走り出す。窓の外に、温泉街の景色が流れていく。
浴衣の人たち。川の光。土産物屋の風鈴。
この町のどこかに、百年前から続く土地の記憶がある。
二十年前に埋められた真実がある。そして昨夜まで、誰かの名前を借りた古い念が、一軒の家の中にいた。
全部、普通の景色の中に混じっている。
??見える人間には、見える。
平は窓に額を当てた。
ワシみたいになる、とおじさんは言った。
なってもいいかもしれない、と平は思い始めていた。




