表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
可児奇譚  作者: 賀茂丈晴
PR
4/44

平圭の事件簿 鬼岩の怨念

六月の鬼岩温泉は、雨が似合う。

岩肌を流れる水の音と、硫黄のにおいと、山の奥から来る湿った風。

観光客の姿はまばらで、旅館の軒先に下がった提灯だけが、ぼんやりと橙色に光っている。

平圭がここに来たのは、仕事だった。

鬼岩温泉の旅館「岩清水」の女将から、所轄署に変な相談が入ったのだ。

「お客さんが、夜中に廊下で人影を見た、と。もう三件目なんです」

所轄としては対応義務はない。

でも安藤警部補が「近くに行く用事があるから、平が聞いてこい」と言った

??つまり、押しつけられた。

平は旅館の玄関をくぐりながら、ため息をついた。



女将の話は、こうだった。

最初の目撃は二週間前。宿泊客の中年女性が、夜中の二時ごろ廊下で「白い着物の女」を見た。

驚いて声を上げたら消えた、と。

二件目は一週間前。やはり別の宿泊客が、温泉に向かう廊下で「後ろから誰かがついてくる気配がした」と。

振り返ったら誰もいなかった。

三件目が昨夜。旅館のスタッフが、帳場の近くで「子供の笑い声」を聞いた。

「古い旅館ですし、何かいるのかと……怖くて」と女将は言った。

平はメモを取りながら、なるべく普通の顔を作っていた。

白い着物の女。後ろからついてくる気配。子供の笑い声。

??これは、警察の案件ではない。

スマホを取り出した。



「鬼岩温泉の旅館で怪現象が続いています」


「白い着物の女と、子供の笑い声だそうです」

「仕事で来てるんですが、警察では対応できなくて」


送信して、女将にお茶をすすめられながら待った。

既読がついたのは二十分後。


「鬼岩か」

「はい」

「……あそこは古いからな」


「何かご存じですか」

しばらく間があった。


「岩清水、やろ」


平は画面を見つめた。旅館の名前を言っていないのに。


「なんで知ってるんですか」


「前に一回行ったことある。温泉がええんや」

「それだけですか」


「……あそこの裏山に、古い祠がある」



女将に確認すると、確かにあった。

旅館の裏手、山に入ってすぐのところに、小さな石の祠。

いつからあるかわからない、と女将は言った。先代の女将から「触るな、近づくな」と言われていたという。

「最近、何か変わったことはありましたか。その祠の近くで」

女将は少し考えてから、言った。

「……裏山の整備を、先月やったんです。旅館の増築を考えていて、業者さんに下見に来てもらって」

「祠の近くも?」

「通ったと思います。業者さんは何も知らなかったので」

平はメモに書き込んだ。

祠。先月の山の整備。怪現象の始まりは二週間前。

時系列が、一致していた。



夕方、おじさんが来た。

軽自動車が旅館の駐車場に滑り込んで、おじさんが降りてきた。

「たまたま近くを??」

「鬼岩温泉まで『たまたま』は無理がありますよ」

おじさんは黙った。

「まあええ」と言って、旅館の建物を眺めた。

「温泉、入ってええか」

「仕事ですよ」

「わかっとる。でも温泉入らんと調子出んのや」

結局、おじさんは一時間ほど温泉に浸かった。

平は旅館のロビーで待ちながら、女将から旅館の歴史を聞いた。

岩清水は百二十年の歴史がある。

何代にもわたって、この土地で続いてきた。

「昔、この辺りで何かありましたか。あの祠に関係するような」

女将は少し沈黙した。

「……曾祖母から聞いた話ですが」

旅館が建つ前、この土地には小さな集落があったという。

明治の頃、山崩れがあって、集落のほとんどが飲み込まれた。生き残ったのは数人だけ。

祠は、その慰霊のために建てられたものらしい。

「白い着物の女と、子供の笑い声」と平は繰り返した。

女将は静かにうなずいた。



温泉から上がったおじさんは、心なしか顔色が良くなっていた。

旅館の裏手に回って、山の入口に立つ。

夜の山は暗く、木々の間から虫の声が聞こえた。

「行きますか」と平は言った。

「お前は来るな」

「え」

「山の中や。足場が悪い」おじさんは懐中電灯を持って、一人で歩き出した。

「ここで待っとれ」

「でも??」

「左足の心配するより、ワシの邪魔をするな」

平は旅館の裏口で立ち止まった。

おじさんの背中が、木々の間に消えていく。

懐中電灯の光が、揺れながら遠ざかる。

平は待った。

十分。二十分。三十分。

山の中は静かだった。

虫の声だけが続いていた。

それから??

山の奥で、何かが、光った。

青白い光が、一瞬だけ木々の間に見えた。

平は思わず一歩踏み出した。でも、そこで止まった。

おじさんが「来るな」と言った。

??信じる、と決めていた。



四十分後、おじさんが戻ってきた。

顔色が、来たときより悪かった。

額に汗が滲んでいる。左足を、いつもより強く引きずっていた。

「おじさん、大丈夫ですか」

「疲れた」

それだけ言って、旅館の縁側に腰を下ろした。

平は隣に座った。しばらく、二人とも黙っていた。

「祠、どうでしたか」

「荒れとった」おじさんは言った。

「業者が近くで作業したときに、結界が乱れたんやろな。

中にいた連中が出てきとった」

「連中、って」

「山崩れで亡くなった人たちや」おじさんは目を閉じた。「恨んでるわけやない。ただ、びっくりして出てきた感じやな。急に静かやったところをドカドカ踏み荒らされたら、そうなる」

「それで、白い着物の女と??」

「子供も混じっとった。明治の山崩れやから、子供も大人も一緒に逝っとる」おじさんはゆっくりと息を吐いた。

「落ち着かせた。祠も少し整えてきた」

「一人でやったんですか」

「ワシ一人やない」おじさんは苦笑いをした。

「守護霊が何体かついとるんや。そいつらが手伝う」

平はおじさんの横顔を見た。疲れ果てた、普通の中年男性の顔だった。

「ありがとうございます」

「女将に、増築の話は一度止めるように言え。祠の周りは絶対に触るな、と」おじさんは立ち上がった。

「それだけ伝えたら、もう出てこん」

「わかりました」

「あと」おじさんは少し間を置いた。「この旅館の温泉、ええな。また来る」

平は笑いそうになるのを、どうにかこらえた。



翌朝、帰り際に女将に伝えた。

増築の話は保留にすること。裏山の祠には近づかないこと。

年に一度、手を合わせること。

女将は深くお辞儀をした。

「昨夜は、静かでした」と女将は言った。「久しぶりに、旅館全体が落ち着いていた気がして」

平は駐車場でおじさんの軽自動車を見送った。

窓が少し開いて、おじさんが言った。

「お前、だんだん見えるようになってきとるな」

「え」

「山に入ろうとしたやろ。あの光、見えとったやろ」

平は答えられなかった。

「……自覚しとけ」おじさんは前を向いた。「見える人間は、向こうからも見える。気をつけんと面倒なことになる」

「面倒なこと、って」

「ワシみたいになる」

窓が閉まった。

軽自動車が走り去っていく。

平は駐車場に一人残って、その背中を見送った。

ワシみたいになる。

それは警告なのか、それとも??

スマホが鳴った。安藤警部補からだった。

「平、そっちどうや。もう終わったか」

「終わりました」

「そか。帰ってこい、新しい案件入ったから」

「はい」

平は電話を切って、もう一度山の方を見た。

朝の光の中で、山は緑に濡れていた。静かで、穏やかで、何もなかったように見えた。

でも平にはわかった。

あの山の奥に、祠がある。そこに、百年以上前に逝った人たちが眠っている。

それを知っている人間が、この世にいる。

軽自動車で温泉を巡りながら、誰にも言わず、ひとりで。                  



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ