平圭の事件簿 鬼岩の怨念
一
六月の鬼岩温泉は、雨が似合う。
岩肌を流れる水の音と、硫黄のにおいと、山の奥から来る湿った風。
観光客の姿はまばらで、旅館の軒先に下がった提灯だけが、ぼんやりと橙色に光っている。
平圭がここに来たのは、仕事だった。
鬼岩温泉の旅館「岩清水」の女将から、所轄署に変な相談が入ったのだ。
「お客さんが、夜中に廊下で人影を見た、と。もう三件目なんです」
所轄としては対応義務はない。
でも安藤警部補が「近くに行く用事があるから、平が聞いてこい」と言った
??つまり、押しつけられた。
平は旅館の玄関をくぐりながら、ため息をついた。
二
女将の話は、こうだった。
最初の目撃は二週間前。宿泊客の中年女性が、夜中の二時ごろ廊下で「白い着物の女」を見た。
驚いて声を上げたら消えた、と。
二件目は一週間前。やはり別の宿泊客が、温泉に向かう廊下で「後ろから誰かがついてくる気配がした」と。
振り返ったら誰もいなかった。
三件目が昨夜。旅館のスタッフが、帳場の近くで「子供の笑い声」を聞いた。
「古い旅館ですし、何かいるのかと……怖くて」と女将は言った。
平はメモを取りながら、なるべく普通の顔を作っていた。
白い着物の女。後ろからついてくる気配。子供の笑い声。
??これは、警察の案件ではない。
スマホを取り出した。
三
「鬼岩温泉の旅館で怪現象が続いています」
「白い着物の女と、子供の笑い声だそうです」
「仕事で来てるんですが、警察では対応できなくて」
送信して、女将にお茶をすすめられながら待った。
既読がついたのは二十分後。
「鬼岩か」
「はい」
「……あそこは古いからな」
「何かご存じですか」
しばらく間があった。
「岩清水、やろ」
平は画面を見つめた。旅館の名前を言っていないのに。
「なんで知ってるんですか」
「前に一回行ったことある。温泉がええんや」
「それだけですか」
「……あそこの裏山に、古い祠がある」
四
女将に確認すると、確かにあった。
旅館の裏手、山に入ってすぐのところに、小さな石の祠。
いつからあるかわからない、と女将は言った。先代の女将から「触るな、近づくな」と言われていたという。
「最近、何か変わったことはありましたか。その祠の近くで」
女将は少し考えてから、言った。
「……裏山の整備を、先月やったんです。旅館の増築を考えていて、業者さんに下見に来てもらって」
「祠の近くも?」
「通ったと思います。業者さんは何も知らなかったので」
平はメモに書き込んだ。
祠。先月の山の整備。怪現象の始まりは二週間前。
時系列が、一致していた。
五
夕方、おじさんが来た。
軽自動車が旅館の駐車場に滑り込んで、おじさんが降りてきた。
「たまたま近くを??」
「鬼岩温泉まで『たまたま』は無理がありますよ」
おじさんは黙った。
「まあええ」と言って、旅館の建物を眺めた。
「温泉、入ってええか」
「仕事ですよ」
「わかっとる。でも温泉入らんと調子出んのや」
結局、おじさんは一時間ほど温泉に浸かった。
平は旅館のロビーで待ちながら、女将から旅館の歴史を聞いた。
岩清水は百二十年の歴史がある。
何代にもわたって、この土地で続いてきた。
「昔、この辺りで何かありましたか。あの祠に関係するような」
女将は少し沈黙した。
「……曾祖母から聞いた話ですが」
旅館が建つ前、この土地には小さな集落があったという。
明治の頃、山崩れがあって、集落のほとんどが飲み込まれた。生き残ったのは数人だけ。
祠は、その慰霊のために建てられたものらしい。
「白い着物の女と、子供の笑い声」と平は繰り返した。
女将は静かにうなずいた。
六
温泉から上がったおじさんは、心なしか顔色が良くなっていた。
旅館の裏手に回って、山の入口に立つ。
夜の山は暗く、木々の間から虫の声が聞こえた。
「行きますか」と平は言った。
「お前は来るな」
「え」
「山の中や。足場が悪い」おじさんは懐中電灯を持って、一人で歩き出した。
「ここで待っとれ」
「でも??」
「左足の心配するより、ワシの邪魔をするな」
平は旅館の裏口で立ち止まった。
おじさんの背中が、木々の間に消えていく。
懐中電灯の光が、揺れながら遠ざかる。
平は待った。
十分。二十分。三十分。
山の中は静かだった。
虫の声だけが続いていた。
それから??
山の奥で、何かが、光った。
青白い光が、一瞬だけ木々の間に見えた。
平は思わず一歩踏み出した。でも、そこで止まった。
おじさんが「来るな」と言った。
??信じる、と決めていた。
七
四十分後、おじさんが戻ってきた。
顔色が、来たときより悪かった。
額に汗が滲んでいる。左足を、いつもより強く引きずっていた。
「おじさん、大丈夫ですか」
「疲れた」
それだけ言って、旅館の縁側に腰を下ろした。
平は隣に座った。しばらく、二人とも黙っていた。
「祠、どうでしたか」
「荒れとった」おじさんは言った。
「業者が近くで作業したときに、結界が乱れたんやろな。
中にいた連中が出てきとった」
「連中、って」
「山崩れで亡くなった人たちや」おじさんは目を閉じた。「恨んでるわけやない。ただ、びっくりして出てきた感じやな。急に静かやったところをドカドカ踏み荒らされたら、そうなる」
「それで、白い着物の女と??」
「子供も混じっとった。明治の山崩れやから、子供も大人も一緒に逝っとる」おじさんはゆっくりと息を吐いた。
「落ち着かせた。祠も少し整えてきた」
「一人でやったんですか」
「ワシ一人やない」おじさんは苦笑いをした。
「守護霊が何体かついとるんや。そいつらが手伝う」
平はおじさんの横顔を見た。疲れ果てた、普通の中年男性の顔だった。
「ありがとうございます」
「女将に、増築の話は一度止めるように言え。祠の周りは絶対に触るな、と」おじさんは立ち上がった。
「それだけ伝えたら、もう出てこん」
「わかりました」
「あと」おじさんは少し間を置いた。「この旅館の温泉、ええな。また来る」
平は笑いそうになるのを、どうにかこらえた。
八
翌朝、帰り際に女将に伝えた。
増築の話は保留にすること。裏山の祠には近づかないこと。
年に一度、手を合わせること。
女将は深くお辞儀をした。
「昨夜は、静かでした」と女将は言った。「久しぶりに、旅館全体が落ち着いていた気がして」
平は駐車場でおじさんの軽自動車を見送った。
窓が少し開いて、おじさんが言った。
「お前、だんだん見えるようになってきとるな」
「え」
「山に入ろうとしたやろ。あの光、見えとったやろ」
平は答えられなかった。
「……自覚しとけ」おじさんは前を向いた。「見える人間は、向こうからも見える。気をつけんと面倒なことになる」
「面倒なこと、って」
「ワシみたいになる」
窓が閉まった。
軽自動車が走り去っていく。
平は駐車場に一人残って、その背中を見送った。
ワシみたいになる。
それは警告なのか、それとも??
スマホが鳴った。安藤警部補からだった。
「平、そっちどうや。もう終わったか」
「終わりました」
「そか。帰ってこい、新しい案件入ったから」
「はい」
平は電話を切って、もう一度山の方を見た。
朝の光の中で、山は緑に濡れていた。静かで、穏やかで、何もなかったように見えた。
でも平にはわかった。
あの山の奥に、祠がある。そこに、百年以上前に逝った人たちが眠っている。
それを知っている人間が、この世にいる。
軽自動車で温泉を巡りながら、誰にも言わず、ひとりで。




