平圭の事件簿 名鉄のホーム
一
名鉄広見線の新可児駅は、朝のラッシュが終わるとひどく静かになる。
平圭は改札の外でぼんやりと立っていた。
非番だった。名古屋に出る用事があって、ただそれだけのために駅に来たはずだった。
ホームに降りると、上り電車まであと十二分あった。
ベンチに座って、スマホを見る。特に何もない。LINEの通知も、メールも。
ふと、顔を上げた。
ホームの端、階段の近く。
男が立っていた。
五十がらみ。スーツ姿。鞄を持っている。
どこにでもいるサラリーマンの格好だ。
でも??何かが、おかしかった。
うまく言葉にできない。
ただ、男の輪郭が、周囲の風景から少しだけ、浮いているような気がした。朝の光の当たり方が、ほかの乗客と違うような。
平は目を細めた。
男と目が合った。
男は、笑った。
それから、すっと??消えた。
二
電車に乗り損ねた。
次の電車まで三十分。
平はホームのベンチに座ったまま、さっき男が立っていた場所を見ていた。
何もない。コンクリートの床と、錆びかけた手すりと、色の褪せた案内板があるだけだ。
スマホを取り出す。
「根古さん」の連絡先を開く。
前回の件からまだ二週間も経っていない。
またかと思われるだろうか。でも??
「駅のホームで人が消えました」
「スーツの男性。五十代くらい。笑って消えました」
「これって何ですか」
送信してから、自分の文章を読み返した。
我ながら、ひどい文面だと思った。
既読がついたのは四十分後だった。
「何駅や」
「新可児です」
「……お前、引き寄せ体質やな」
「え」
「ほっとけ。関わるな」
平は画面を見つめた。
ほっとけ、と言われても。
もう見てしまったのだ。
三
名古屋への用事を済ませて戻ってきたのは昼過ぎだった。
新可児駅の改札を出たところで、平は足を止めた。
駅前のベンチに、冴えない中年男性が座っていた。
缶コーヒーを持って、駅舎をぼんやり眺めている。
「たまたまこのへんに用事があっただけや」
平が近づく前に、おじさんは言った。
「そうですか」
「そうや」
平は隣に座った。おじさんはしばらく黙って缶コーヒーを飲んでいた。
「あの男、誰なんですか」
「さあな」
「さあなって」
「ワシが知るか」おじさんは面倒くさそうに言った。
「ただ、あの駅に長いこと居る。それだけや」
「長いこと、って」
「何年か。もっとかもしれん」
平は駅舎を見上げた。普通の地方の小さな駅だ。観光客も少ない。
「何かあったんですか、この駅で」
おじさんは答えなかった。
缶コーヒーを飲み干して、ゴミ箱に捨てた。
「調べるな」
「え」
「お前が調べたら、向こうも気づく。気づいたら面倒になる」おじさんは立ち上がり、左足を引きずりながら駐車場の方へ歩き出した。
「関係ない事件に首突っ込むな。お前はまだ、見えすぎる」
「見えすぎる、って??」
「慣れてないやつが霊に気づくと、向こうも寄ってくる」
おじさんは振り返らずに言った。
「今日はまっすぐ帰れ。風呂入って寝ろ」
四
もちろん、調べた。
署に戻ってから、こっそりデータベースを検索した。
新可児駅。過去の事故、事件。
一件だけ、引っかかった。
七年前。ホームからの転落死。五十二歳の男性。
所持品から身元は判明していた。氏名:村瀬 徹。職業:会社員。
死因は転落による頭部打撲。事故か自殺か、結論は「不明」のまま処理されていた。
鞄を持っていたと、報告書にあった。
スーツ姿だったと。
平はモニターを見つめたまま、しばらく動けなかった。
七年間、あの駅のホームに立ち続けている。
笑っていた。
怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなく??ただ、笑っていた。
なぜ。
五
その夜、LINEを打った。
「村瀬徹さん、という人を知っていますか」
「七年前に新可児駅で亡くなった方です」
既読がついた。返信はない。
十分後。
「なんで調べた」
「気になったので」
「ワシが調べるなって言うたやろ」
「すみません」
しばらく間があった。
「……村瀬のことは知っとる」
平は画面を見つめた。
「知ってるんですか」
「前に一度、頼まれたことがある」
「誰にですか」
また間があった。今度は長かった。
「村瀬の娘や」
六
翌日の昼休み、平は駅前のベンチで待った。
おじさんは約束の時間より十五分遅れてやってきた。
軽自動車から降りて、また缶コーヒーを買って、隣に座った。
「村瀬の娘が、ワシのところに来たのは五年前や」
おじさんは駅舎を見ながら言った。
「父親の死に納得できんと。事故か自殺かわからんままやと。それで??」
「それで、おじさんが調べたんですか」
「調べた、というか」おじさんは少し間を置いた。
「村瀬本人に、聞いた」
平は息を呑んだ。「聞けるんですか」
「調子の良い時はな」
「なんて言ってたんですか」
おじさんは缶コーヒーを一口飲んだ。
「事故や、と」
「事故」
「足を滑らせた。それだけや。
特に恨みもない、後悔もない、ただ??帰れんくなった、と」
平は駅のホームの方を見た。
「帰れない、って」
「娘に、ちゃんと言えんかったことがあったらしい。
それが気になって、ずっとあそこにおる」
「言えなかったこと」
「娘が結婚するって話、喜んでええのかどうかわからんかったと。
不器用な父親やったんやろな」おじさんは小さくため息をついた。
「娘には伝えた。村瀬はちゃんと喜んどったて。それで一回、薄くなったんやけど??」
「薄くなった?」
「気配がな。でもまだおる」
平はしばらく黙っていた。
「娘さんは、今」
「結婚して、名古屋におる。子供も生まれたと聞いた」
「村瀬さんは、知ってますか。孫が生まれたこと」
おじさんは黙った。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「知らんやろな」
おじさんは駅舎を一度だけ見た。何かを確かめるように。
「……ちょっと待っとれ」
七
おじさんはホームに入っていった。
平は改札の外で待った。五分、十分。
十五分後、おじさんが戻ってきた。
いつもと変わらない、冴えない顔をしていた。
「帰った」
「え」
「村瀬が。帰った」おじさんは駐車場の方へ歩き出した。
「孫の顔、見たかったらしい。名前も聞いといた。娘に連絡しとけ。
何かの夢に出るかもしれんから、驚くなって」
平は呆然と立っていた。
「おじさん」
「なんや」
「……すごいですね」
おじさんは振り返らなかった。
「腹減った。帰る」
軽自動車が走り去っていった。
平はホームの方を見た。
午後の光の中で、ホームはただ静かだった。
もう、誰も立っていなかった。
エピローグ
その夜、平は村瀬の娘??現在の姓で、田中由香里という女性のSNSアカウントを見つけた。
フォローはしなかった。
ただ、最新の投稿を見た。
赤ちゃんの写真だった。
キャプションに「蓮、生後三ヶ月」とあった。
平はそっとスマホを閉じた。
「村瀬さん、ちゃんと帰れましたか」
おじさんへのLINEを打って、それから消した。
聞かなくていいことは、聞かない。
それも、この人との正しい距離感だと、なんとなく思った。




