平圭の事件簿 川沿いの声
一
五月の夕方は、妙に長い。
空がオレンジからグレーに変わるまでの時間が、どこかもったいなくて、平圭はいつもこの時間帯のパトロールが嫌いではなかった。
木曽川の堤防沿いを自転車で流す。
風が川面を撫でて、葦の葉がさらさらと鳴った。
対岸の山の稜線がくっきりと見えている。今日は空気が澄んでいた。
べつに何もない、いつもの夕方だった。
ねえ。
平は、ペダルを止めた。
振り返る。誰もいない。
土手の斜面に雑草が揺れているだけだ。
聞こえた気がしただけだ。
そう思ってまたペダルを踏む。
ここにいるよ。
今度は、はっきりと聞こえた。
子供の声だ。いや、子供というより??少女だ。
平は自転車を降り、川のほうを見た。
水面は静かで、夕日を反射してきらきらと光っている。
誰かが溺れているとか、流されているとか、そういう気配はない。
でも声は確かに聞こえた。
川の、どこか遠いところから。
二
「熱中症の初期症状やな」
翌朝、安藤警部補は書類から目を上げもしなかった。
「水分ちゃんと摂れよ。あとパトロール中に幻聴が出るようなら、産業医に??」
「幻聴じゃないです」
「わかったわかった」
わかってない、と平は思った。
でも言っても無駄だということも、もうわかっていた。
安藤警部補は悪い人ではない。
ただ、見えないものを信じる回路が、最初から搭載されていない人だった。
平は自分のデスクに戻り、コーヒーを一口飲んだ。
そのとき、隣の係の会話が耳に入った。
「??桐島花音、まだ見つかってないんか」
「届出から三日やろ。家出やと思うけどな、捜索願出てるし一応な」
桐島花音。十六歳。高校一年生。
平は、手の中のコーヒーカップを見つめた。
三
休憩時間に、こっそり調べた。
桐島花音のSNSアカウントは、すぐに見つかった。
最後の投稿は失踪する三日前。
写真は少なく、フォロワーも多くない。
どこにでもいる、普通の女の子のアカウントだった。
ただ一点を除いて。
失踪の一週間前から、投稿のトーンが変わっていた。
それまでの「今日のごはん」とか「猫かわいい」みたいな他愛ない内容から、急に??
「信じてくれる人がいる。ほんとうの自分をわかってくれる人が」
「会いに行く。こわいけど、でも行く」
平は画面を見つめたまま、コーヒーが冷めるのも忘れた。
誰だ。誰が「信じてくれる人」だったんだ。
四
夜、堤防に戻った。
非番だった。制服じゃなくて、ジーンズにパーカーだ。
懐中電灯だけ持って、昨日声が聞こえた場所に立つ。
川は暗く、水音だけが聞こえた。
「……いるの?」
自分でも馬鹿みたいだと思いながら、平は川に向かって言った。
しばらく、何もなかった。
それから??
こわい。
声は、上流のほうから来た気がした。
たすけて。
平は上流を見た。
闇の中に、工場の灯りが遠く見えた。
あのあたりは確か、新興の工業団地だったはずだ。
いくつか空き倉庫があると聞いたことがある。
スマホを取り出した。
連絡先を開く。「根古さん」。
一度登録したきり、使ったことのない番号だ。
平は少し迷ってから、LINEを打った。
「夜分すみません。あの、ちょっと相談があって」
「木曽川沿いで女の子の声が聞こえるんです。
川の上流の方角から」
「変なこと言ってるのはわかってます。でも本物だと思うんです」
送信して、画面を見つめる。
既読がついたのは、二時間後だった。
「どの辺や」
平の胸が、跳ね上がった。
五
翌朝、七時。
堤防の駐車スペースに、見覚えのある軽自動車が止まっていた。
窓を開けて、冴えない顔の中年男性がこちらを見ている。
根古親司、通称おじさん。
五十八歳。左足が悪くて、いつも少し引きずるように歩く。
風采は上がらない。どこにでもいる、ただの中年男性に見える。
「たまたま近くにおっただけや」
開口一番それを言った。
「そうですか」と平は答えた。
嘘だとわかっていたけれど、あえて突っ込まないのが、この人との正しい距離感だということも、なんとなくわかっていた。
おじさんは助手席の窓から川を眺めた。しばらく、黙っていた。
「上流やな」
「はい」
「工業団地の方向」
「そう思います」
おじさんはため息をついた。
缶コーヒーを一口飲んで、それからもう一度川を見た。
「倉庫が三棟ある。そのうちの一番北」
平は息を呑んだ。「見えるんですか」
「見えるとか見えんとか、そういうもんやない」おじさんは面倒くさそうに言った。
「ただ、そっちが重たい」
「重たい」
「早よ行け。まだ生きとる」
平は走り出した。
おじさんは缶コーヒーの残りを飲み干して、また川のほうを見た。
助手席で丸まっていた黒猫のヤマトが、一度だけ小さく鳴いた。
六
倉庫の北棟。錆びたシャッターの隙間から、かすかな呼吸音が聞こえた。
平は躊躇わずシャッターをこじ開けた。
薄暗い内部。段ボールが積み上げられた奥に、少女が倒れていた。
手首を縛られ、スマホを取り上げられ、それでもまだ、かすかに息をしていた。
「桐島さん!」
駆け寄りながらスマホで一一〇番を押す。
少女が薄く目を開けた。焦点が合うまで、少し時間がかかった。
「……助けに、来てくれた」
「来ました」と平は言った。「もう大丈夫です」
少女の目から、涙がこぼれた。
エピローグ
保護から二時間後。
宮瀬朱里は、学校の近くのカフェで普通にスマホをいじっていたところを、安藤警部補に連行された。
鍵垢のアカウントには、四十七人のフォロワーがいた。
平は署に戻る前に、一度堤防に寄った。
川は昼の顔をしていた。穏やかで、何事もなかったように光っている。
声は、もう聞こえなかった。
駐車スペースに軽自動車はもういなかった。
スマホにLINEが来ていた。
「解決したか」
「はい。ありがとうございました」
しばらくして、既読がついた。
返信はなかった。
でも平は、なんとなく笑ってしまった。




