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可児奇譚  作者: 賀茂丈晴
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平圭の事件簿 川沿いの声


五月の夕方は、妙に長い。

空がオレンジからグレーに変わるまでの時間が、どこかもったいなくて、平圭はいつもこの時間帯のパトロールが嫌いではなかった。

木曽川の堤防沿いを自転車で流す。

風が川面を撫でて、葦の葉がさらさらと鳴った。

対岸の山の稜線がくっきりと見えている。今日は空気が澄んでいた。

べつに何もない、いつもの夕方だった。

ねえ。

平は、ペダルを止めた。

振り返る。誰もいない。

土手の斜面に雑草が揺れているだけだ。

聞こえた気がしただけだ。

そう思ってまたペダルを踏む。

ここにいるよ。

今度は、はっきりと聞こえた。

子供の声だ。いや、子供というより??少女だ。

平は自転車を降り、川のほうを見た。

水面は静かで、夕日を反射してきらきらと光っている。

誰かが溺れているとか、流されているとか、そういう気配はない。

でも声は確かに聞こえた。

川の、どこか遠いところから。



「熱中症の初期症状やな」

翌朝、安藤警部補は書類から目を上げもしなかった。

「水分ちゃんと摂れよ。あとパトロール中に幻聴が出るようなら、産業医に??」

「幻聴じゃないです」

「わかったわかった」

わかってない、と平は思った。

でも言っても無駄だということも、もうわかっていた。

安藤警部補は悪い人ではない。

ただ、見えないものを信じる回路が、最初から搭載されていない人だった。

平は自分のデスクに戻り、コーヒーを一口飲んだ。

そのとき、隣の係の会話が耳に入った。

「??桐島花音、まだ見つかってないんか」

「届出から三日やろ。家出やと思うけどな、捜索願出てるし一応な」

桐島花音。十六歳。高校一年生。

平は、手の中のコーヒーカップを見つめた。



休憩時間に、こっそり調べた。

桐島花音のSNSアカウントは、すぐに見つかった。

最後の投稿は失踪する三日前。

写真は少なく、フォロワーも多くない。

どこにでもいる、普通の女の子のアカウントだった。

ただ一点を除いて。

失踪の一週間前から、投稿のトーンが変わっていた。

それまでの「今日のごはん」とか「猫かわいい」みたいな他愛ない内容から、急に??

「信じてくれる人がいる。ほんとうの自分をわかってくれる人が」

「会いに行く。こわいけど、でも行く」

平は画面を見つめたまま、コーヒーが冷めるのも忘れた。

誰だ。誰が「信じてくれる人」だったんだ。



夜、堤防に戻った。

非番だった。制服じゃなくて、ジーンズにパーカーだ。

懐中電灯だけ持って、昨日声が聞こえた場所に立つ。

川は暗く、水音だけが聞こえた。

「……いるの?」

自分でも馬鹿みたいだと思いながら、平は川に向かって言った。

しばらく、何もなかった。

それから??

こわい。

声は、上流のほうから来た気がした。

たすけて。

平は上流を見た。

闇の中に、工場の灯りが遠く見えた。

あのあたりは確か、新興の工業団地だったはずだ。

いくつか空き倉庫があると聞いたことがある。

スマホを取り出した。

連絡先を開く。「根古さん」。

一度登録したきり、使ったことのない番号だ。

平は少し迷ってから、LINEを打った。


「夜分すみません。あの、ちょっと相談があって」

「木曽川沿いで女の子の声が聞こえるんです。

川の上流の方角から」

「変なこと言ってるのはわかってます。でも本物だと思うんです」


送信して、画面を見つめる。

既読がついたのは、二時間後だった。


「どの辺や」

平の胸が、跳ね上がった。



翌朝、七時。

堤防の駐車スペースに、見覚えのある軽自動車が止まっていた。

窓を開けて、冴えない顔の中年男性がこちらを見ている。

根古親司、通称おじさん。


五十八歳。左足が悪くて、いつも少し引きずるように歩く。

風采は上がらない。どこにでもいる、ただの中年男性に見える。

「たまたま近くにおっただけや」

開口一番それを言った。

「そうですか」と平は答えた。


嘘だとわかっていたけれど、あえて突っ込まないのが、この人との正しい距離感だということも、なんとなくわかっていた。

おじさんは助手席の窓から川を眺めた。しばらく、黙っていた。

「上流やな」

「はい」

「工業団地の方向」

「そう思います」

おじさんはため息をついた。

缶コーヒーを一口飲んで、それからもう一度川を見た。

「倉庫が三棟ある。そのうちの一番北」

平は息を呑んだ。「見えるんですか」

「見えるとか見えんとか、そういうもんやない」おじさんは面倒くさそうに言った。

「ただ、そっちが重たい」

「重たい」

「早よ行け。まだ生きとる」

平は走り出した。

おじさんは缶コーヒーの残りを飲み干して、また川のほうを見た。

助手席で丸まっていた黒猫のヤマトが、一度だけ小さく鳴いた。



倉庫の北棟。錆びたシャッターの隙間から、かすかな呼吸音が聞こえた。

平は躊躇わずシャッターをこじ開けた。

薄暗い内部。段ボールが積み上げられた奥に、少女が倒れていた。

手首を縛られ、スマホを取り上げられ、それでもまだ、かすかに息をしていた。

「桐島さん!」

駆け寄りながらスマホで一一〇番を押す。

少女が薄く目を開けた。焦点が合うまで、少し時間がかかった。

「……助けに、来てくれた」

「来ました」と平は言った。「もう大丈夫です」

少女の目から、涙がこぼれた。


エピローグ


保護から二時間後。

宮瀬朱里は、学校の近くのカフェで普通にスマホをいじっていたところを、安藤警部補に連行された。

鍵垢のアカウントには、四十七人のフォロワーがいた。

平は署に戻る前に、一度堤防に寄った。

川は昼の顔をしていた。穏やかで、何事もなかったように光っている。

声は、もう聞こえなかった。

駐車スペースに軽自動車はもういなかった。

スマホにLINEが来ていた。


「解決したか」


「はい。ありがとうございました」


しばらくして、既読がついた。

返信はなかった。

でも平は、なんとなく笑ってしまった。

                




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