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可児奇譚  作者: 賀茂丈晴
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榊原友蔵事件簿 二十年前の約束


十一月の県警本部は、夜になっても明かりが消えない。


榊原友蔵は自分のデスクで、冷めたコーヒーを飲んでいた。

五十五歳。県警捜査一課の警部。

勤続三十二年。


デスクの上に、一枚の書類がある。


行方不明者の捜索打ち切りに関する稟議書だった。


失踪から三ヶ月。

証拠なし。手がかりなし。

上層部の判断は「捜索継続の実益なし」。


榊原はペンを持ったまま、動けなかった。


署名すれば終わる。


しない理由も、論理的にはなかった。


それでも??手が動かなかった。


窓の外に、夜の街が広がっていた。榊原はしばらく窓を見ていた。それから引き出しを開けて、古い手帳を取り出した。


色の褪せた、黒い手帳だった。


二十年以上前から持ち歩いている。一度も捨てられなかった。


ページをめくると、一枚の紙が挟まっていた。


走り書きの電話番号。


名前はない。ただ番号だけ。


榊原はその番号を、長い間見つめた。


---



二十二年前。


榊原俊蔵が三十三歳の時だった。

まだ巡査部長で、所轄の刑事課にいた。


事件は単純に見えた。失踪した中学生の女の子。家出の可能性が高いと上司は言った。捜索に人員を割く必要はない、とも。


でも榊原には、引っかかるものがあった。


女の子の母親の顔が、頭から離れなかった。署の面談室で、両手を膝の上で握りしめていた。泣いてもいなかった。泣き尽くした後の顔をしていた。


「娘は帰ってきますか」


その問いに、榊原は何も言えなかった。


単独で動いた。非公式に。上司には内緒で。


手がかりを追って、旧市街の古い商店街まで来た夜のことだった。


暗い路地の奥で、男が立っていた。


冴えない男だった。三十そこそこに見えた。薄汚れたジャンパーを着て、コンビニ袋を提げていた。どこにでもいる、目立たない男だった。


「刑事さんですか」


男が先に声をかけてきた。


榊原は警戒した。「何者ですか」


「通りすがりです」男はそう言って、路地の奥を顎で示した。「あの廃ビルの地下に、女の子がいます」


---



最初は信じなかった。


怪しい情報提供者など、この仕事をしていれば何人も会う。たいていは外れか、悪意のある罠だった。


でも男の目が、妙に静かだった。


嘘をついている目ではなかった。かといって、確信を持っている目でもなかった。ただ??知っている目だった。


見てきた目だった。


「なぜあなたが知っているんですか」


「ちょっと、わかってしまうんです」男は困ったように言った。「説明が難しいんですが」


榊原は男を見た。男は視線を逸らさなかった。


「……名前は」


「根古です」


「根古」


「はい」


榊原はしばらく男を見てから、廃ビルの方に向かった。


地下に降りる階段を見つけた。降りた先の、鉄の扉の向こうから、かすかな気配がした。


扉を開けた。


暗闇の中に、少女が蹲っていた。


生きていた。


---



少女を保護して、救急車と応援を呼んだ。


路地に戻ると、男はいなかった。


コンビニ袋だけが、地面に置いてあった。中に、おにぎりと温かい缶コーヒーが入っていた。


榊原は缶コーヒーを手に持ったまま、しばらく路地に立っていた。


報告書には書けなかった。


「通りすがりの男に教えてもらった」では通らない。榊原は「独自の聞き込みで場所を特定した」と書いた。


嘘の報告書だった。


キャリアで初めて書いた、嘘の報告書だった。


少女は無事に家族のもとに戻った。


男のことを調べた。根古、という苗字だけで探した。一人だけ見つかった。根古親司。当時三十一歳。住所は可児市。職業欄は空白だった。


電話番号だけ、手帳に書き留めた。


かけなかった。


かける理由がなかった。ただ??捨てられなかった。


---



現在。


榊原は手帳を閉じた。


コーヒーを飲み干して、稟議書を見た。


行方不明者の名前は、西田美佐子。四十二歳。主婦。


失踪から三ヶ月。夫は「家出だと思う」と言っている。でも榊原には、引っかかるものがあった。


夫の目だった。


悲しんでいない目だった。


榊原はスマホを取り出した。手帳の番号を、慎重に打ち込んだ。


二十二年間、一度もかけたことのない番号だった。


呼び出し音が鳴った。


三回。四回。


出ないかもしれない、と思い始めた頃??繋がった。


「……はい」


眠そうな、低い声だった。


「根古さんですか」


「そうですが」


「榊原といいます。県警の」


間があった。


「……二十年ぶりくらいですか」


「二十二年です」


また間があった。


「何かあったんですか」


榊原は窓の外の夜を見た。


「折り入って、相談があります」


「今、何時だと思っとるんですか」


榊原は時計を見た。夜の十一時を過ぎていた。


「……失礼しました。明日、改めて」


「いや」おじさんは少し間を置いた。「話してください」


---



電話で三十分、話した。


西田美佐子の失踪の経緯。

夫の不自然な態度。捜索打ち切りの稟議書。


おじさんは黙って聞いていた。


「夫の名前は」


「西田 剛。四十五歳。自動車部品の会社に勤めています」


「写真はありますか」


「送れますか」


「LINEで」


榊原は少し戸惑った。五十五歳の県警警部がおじさんとLINEをする、という状況が、まだ頭の中で整理できていなかった。


「……IDを教えてください」


おじさんのLINEのIDは「yamato0828」だった。


猫の名前だろうか、と榊原は思いながら、友達申請を送った。


すぐに承認された。


写真を送った。


しばらく間があった。


> 「この男、何か隠しとります」


榊原は画面を見つめた。


> 「根拠は」


> 「見ればわかります」


> 「それは証拠になりません」


> 「知っとります」


榊原はため息をついた。


二十二年前と、何も変わっていなかった。


---



翌日の昼。


榊原は一人で可児市に向かった。


公用車ではなく、私用車だった。上司には「個人的な用事」と言った。


指定された場所は、飯屋だった。


小さな定食屋で、カウンターに五席だけある。昼時を少し過ぎていて、客は誰もいなかった。


おじさんは奥の席に座って、定食を食べていた。


榊原が向かいに座った。


二十二年ぶりに見る顔だった。


老けた。当たり前だが、老けた。髪に白いものが混じって、顔に皺が増えた。左足を引きずっていることに、初めて気づいた。昔からだったのか、それとも最近のことなのか。


「久しぶりです」と榊原は言った。


「そうですね」とおじさんは言って、味噌汁を飲んだ。


「お変わりなく」


「変わりしかないですよ、二十二年あったら」


榊原は少し笑いそうになった。こらえた。


「今日は来てくれてありがとうございます」


「定食が旨い店なんで」


それだけ言って、おじさんは焼き魚をほぐした。


---



食事が終わってから、本題に入った。


おじさんは湯飲みを両手で持って、テーブルの向こうで榊原を見た。


「西田美佐子さんの件ですが」


「はい」


「生きています」


榊原は息を止めた。「今も」


「今も。ただ??遠くはない」


「どういう意味ですか」


「時間がないということです」おじさんは湯飲みを置いた。

「夫が何か知っています。

それは間違いない。ただ、どこにいるかまではまだわからない。もう少し時間をください」


「どれくらい」


「二日。それ以上は待てないと思います」


榊原は黙った。


二日。捜索打ち切りの稟議書に、まだ署名していない。


「わかりました」


「ただ」おじさんは真っ直ぐに榊原を見た。「二十二年前と同じように、報告書には書けませんよね」


榊原は答えなかった。


答えが、答えだった。


おじさんは小さくため息をついた。


「わかっとります。それでも来たんでしょう」


「……はい」


「なら、やりましょう」


---


## 九


二日後の夜明け前。


おじさんから短いLINEが来た。


> 「木曽川沿いの倉庫。北から三番目」


榊原は即座に返信した。


> 「確かですか」


> 「確かです」


榊原は三十秒考えた。


これを上司に報告すれば、「情報源は」と聞かれる。答えられない。独断で動けば、また嘘の報告書を書くことになる。


三十一秒後、榊原は車のキーを取った。


単独で動いた。


倉庫の前に着いたのは、夜明けの少し前だった。


扉の隙間から、かすかな呼吸音が聞こえた。


榊原は扉をこじ開けた。


暗闇の中に、西田美佐子が倒れていた。


衰弱していたが、生きていた。


榊原はその場に膝をついた。


「西田さん。警察です。もう大丈夫です」


女性がかすかに目を開けた。


焦点が合うまで、少し時間がかかった。


それから??泣いた。


声を上げて泣いた。


榊原は救急車を呼びながら、二十二年前の路地を思い出していた。


あの時も、こうだった。


---


十 エピローグ


西田剛は同日午前、傷害および監禁の容疑で逮捕された。


報告書には「独自の情報収集により場所を特定」と書いた。


二十二年ぶりに書く、二枚目の嘘の報告書だった。


その夜、おじさんにLINEを送った。


> 「無事保護できました」


既読がついた。


返信はなかった。


榊原はしばらく画面を見てから、スマホを閉じた。


「根古さん」と、声に出して言った。


誰もいない車の中だった。


「また、世話になりました」


窓の外に、夜明けの光が滲み始めていた。


街が、ゆっくりと目を覚ましていた。


榊原は車を出した。


県警本部に戻らなければならなかった。


デスクには、まだ署名していない稟議書がある。


今日は、別の案件の稟議書を書く番だった。


                  ??了


---


*次回 榊原友蔵の事件簿 第二話「証拠にならない真実」*



十二月の県警本部は、年末の空気が漂っていた。

忘年会の案内が回覧板で回ってきた。

今年も幹事を押しつけられそうになったのを、榊原は書類仕事を理由にかわした。

三十二年、同じことをやっている。

デスクに積み上げられた書類の中に、一件だけ、どうしても頭から離れない案件があった。

被害者:中村 誠。四十八歳。会社経営者。

死因:転落死。自宅マンションの十二階から。

所見:自殺の可能性が高い。遺書なし。

榊原はその書類を、もう何度読んだかわからなかった。

自殺。

そう書いてあった。上司もそう言った。

捜査を続ける理由はない、とも。

でも??

中村誠の妻が、面談室で言った言葉が耳から離れなかった。

「主人は、死ぬような人間じゃなかった」

それだけだった。証拠でも何でもない。

妻の言葉だけが、榊原の中に刺さっていた。



昼休みに、駐車場で電話した。

「中村誠、という人物をご存じですか」

「知りません」とおじさんは言った。

「会社経営者です。先月、転落死しました。自殺と処理されています」

「それで?」

「気になっています」

電話の向こうで、おじさんが黙った。

何かを食べている音がした。昼食の時間だったらしい。

「写真と、亡くなった場所の住所を送ってください」

「それだけでわかりますか」

「わかるかどうかわかりません」おじさんは淡々と言った。「ただ、見てみます」

榊原はLINEで情報を送った。

返信が来たのは、二時間後だった。


「自殺じゃないですね」


榊原はデスクで画面を見つめた。


「根拠を聞かせてもらえますか」


「根拠はないです」


「それでは??」


「根拠はないけど、そうです」


榊原はため息をついた。

これが、この男との仕事だった。


問題は、ここからだった。

「根拠はないけど、そうです」

この一言を、どうやって捜査に繋げるか。

報告書に「霊能者が自殺ではないと言った」とは書けない。上司に「信頼できる情報源から」と言えば、情報源を問われる。

二十二年間、榊原はその壁に何度もぶつかってきた。

そのたびに、自分で証拠を探した。

おじさんが示した方向に、自分の足で歩いていった。

今回も、同じだった。


中村誠の経営する会社の取引先を、独自に洗い始めた。

表向きは「自殺案件の補足調査」という名目だった。上司は興味を示さなかった。それでいい。

三日後、一つの名前が浮かんだ。

藤堂 建設。

中村誠の会社の、最大の取引先だった。


藤堂建設の名前を、おじさんに送った。


「この会社に心当たりはありますか」


しばらく間があった。


「……知ってます」


「どういう意味ですか」


「以前、この会社に関わる案件がありました」


榊原は画面を見つめた。


「いつの話ですか」


「少し前です。産廃絡みで」


榊原の頭の中で、何かが繋がりかけた。

産廃。藤堂建設。中村誠の転落死。


「中村誠は、その案件を知っていたと思いますか」


長い間があった。


「知っていたから、死んだんじゃないですか」


榊原はデスクから立ち上がった。

窓の外に、冬の空が広がっていた。


藤堂建設の内部資料を手に入れるには、令状が必要だった。

令状を取るには、裁判所を説得できる証拠が必要だった。

証拠を集めるには、捜査が必要だった。

捜査をするには、上司の許可が必要だった。

上司を説得するには、証拠が必要だった。

??堂々巡りだった。

榊原は自席で腕を組んだ。

三十二年、この堂々巡りと戦ってきた。

正面からでは動けない。では裏から動く。

おじさんに電話した。

「藤堂建設の件で、もう少し詳しく聞かせてもらえますか。直接会えますか」

「いつですか」

「今夜、可能ですか」

「夕飯は食べましたか」

榊原は時計を見た。夜の七時を過ぎていた。

「まだです」

「じゃあ来てください。飯屋知ってます」


可児市の小さな居酒屋だった。

カウンター席に、おじさんが既に座っていた。ビールを飲んでいた。

榊原が隣に座った。

「飲みますか」とおじさんが言った。

「車です」

「そうですか」おじさんは店主に声をかけた。「お茶ください」

二人分のお茶が来た。

しばらく、互いに黙っていた。

「産廃の件、話してもらえますか」

「公式の話ではないですよ」おじさんはビールを一口飲んだ。「証拠にもなりません」

「わかっています」

「それでも聞きますか」

「聞きます」

おじさんは少し考えてから、話し始めた。

工業団地の倉庫。十二年前の不法投棄。

外国人労働者の遺体。

藤堂建設の元請けとしての関与。

榊原は黙って聞いた。

「その件は、今どうなっていますか」

「弁護士が動いています。ミーコさんという人が」

垂井美智子。榊原も名前は知っていた。

地元では有名な弁護士だった。

「公式に告発できそうですか」

「時間がかかると思います」おじさんは言った。「証拠を固めるのに」

「中村誠が知っていたとすれば??藤堂建設にとって都合が悪かった」

「そう思います」

榊原はお茶を飲んだ。

証拠にならない真実が、また一つ積み重なった。




問題は、動き方だった。

藤堂建設を捜査するには、中村誠の死を「自殺」から「他殺の疑い」に変えなければならない。

そのためには??

「中村誠のマンションに、もう一度行ってもらえますか」

榊原はおじさんに言った。

「現場に、ですか」

「はい。何か感じ取れますか」

おじさんは少し沈黙した。

「現場は保全されていますか」

「まだ封鎖中です」

「……わかりました」

「一つだけ条件があります」

おじさんは初めて条件を言った。榊原は少し驚いた。

「何ですか」

「結果を、どう使うかは榊原さんが決めてください」おじさんはまっすぐに榊原を見た。「ワシが何を言っても、証拠にはならない。でも榊原さんが動く理由にはなる。

その使い方は、榊原さんの責任です」

榊原は黙った。

「……わかりました」

「それと」おじさんはビールの残りを飲み干した。「もう一杯頼んでいいですか」

「どうぞ」

榊原は思わず、少し笑った。


翌日の夜。

中村誠のマンションの前に、二人で立った。

エントランスに規制線が張られていた。

榊原が警察手帳を使って中に入った。

おじさんは黙ってついてきた。

エレベーターで十二階に上がった。

廊下を歩いた。

問題の部屋の前に立った。

おじさんが目を閉じた。

榊原は黙って待った。

一分。二分。三分。

おじさんが目を開けた。

「部屋の中ではなかった」

「どういう意味ですか」

「中村さんが、ここに来たのは一人じゃなかった」おじさんは廊下を見た。

「一緒に来た人間がいます。でも中村さんは??その人に背中を押された」

「他殺ですか」

「そう思います。中村さんも、そう思っています」

「中村さんが」

「まだ、ここにいます」おじさんは静かに言った。

「怒っています。家族に会いたがっています」

榊原は廊下を見た。何も見えなかった。でも??

冷たい空気が、廊下の一角に溜まっている気がした。

「中村さん」と榊原は言った。

声に出して言うのは、少し恥ずかしかった。でも言った。

「必ず、真実を明らかにします」

廊下は静かだった。

おじさんが小さく言った。

「喜んでいます」


マンションを出て、駐車場で別れた。

「ありがとうございました」と榊原は言った。

「証拠にはなりませんよ」おじさんは繰り返した。

「わかっています」

「でも榊原さんは動く」

「動きます」

おじさんは少し間を置いた。

「中村さんのこと、頼みます」

「任せてください」

おじさんは軽自動車に乗り込んだ。後部座席から、黒猫が榊原を見た。

「猫がいたんですか」

「ヤマトです。いつも乗ってます」

「……そうですか」

軽自動車が走り去った。

榊原は一人、駐車場に残った。

冬の夜風が、コートの襟を揺らした。

証拠にならない真実を、また一つ受け取った。

これをどう使うか。どう証拠に変えるか。

それが、自分の仕事だった。

三十二年間、ずっとそうだった。


エピローグ

三週間後。

榊原は独自の聞き込みで、中村誠と藤堂建設の経営者が事件当日に会っていたことを突き止めた。

防犯カメラの映像。通話記録。マンション住民の証言。

一つ一つは小さな欠片だった。でも積み重なると、形になった。

捜査本部の設置を上司に申請した。

「自殺じゃないのか」と上司は言った。

「他殺の疑いがあります」と榊原は答えた。

「根拠は」

「三十二年の勘です」

上司は榊原を見た。

「……お前の勘は、外れたことがないな」

捜査本部が設置された。

その夜、おじさんにLINEを送った。


「動き始めました」


既読がついた。


「そうですか」


「中村さんに、伝えてもらえますか」


しばらく間があった。


「もういないです」



「もう行きましたか」



「捜査本部が立った夜に」


榊原は画面を見つめた。


「そうですか」


それだけ返信した。

スマホを閉じて、窓の外を見た。

冬の夜空に、星が出ていた。

中村誠。四十八歳。

やっと、動ける。

                 



榊原友蔵の事件簿 第三話「内部の腐敗」


一月の県警本部は、新年の空気が漂っていた。

年頭訓示。表彰式。新年会の案内。

榊原友蔵はそのどれにも上の空で、自席でコーヒーを飲んでいた。

中村誠の件で設置された捜査本部は、順調に動いていた。

順調すぎた。

藤堂建設の経営者、藤堂 隆一の身辺調査が進んでいた。

通話記録、口座の動き、関係者の証言。

少しずつ、形になっていた。

でも榊原には、引っかかるものがあった。

捜査が、妙に滑らかだった。

三十二年の経験で、榊原は知っていた。

本当に危険な案件は、どこかで必ず抵抗がある。

情報が漏れる。証人が口を閉ざす。書類が消える。

それが、今回は何もなかった。

まるで??誰かが、捜査を特定の方向に誘導しているような。

榊原はコーヒーカップを置いた。

藤堂隆一は、捕まってもいい駒なのかもしれない。

その上に、誰かがいる。


おじさんにLINEを送った。


「捜査が順調すぎて、気になっています」


返信は夕方に来た。


「どういうことですか」


「抵抗がない。誰かが藤堂を切り捨てようとしている気がします」


長い間があった。


「榊原さんの上に、誰かいますか」


榊原は画面を見つめた。


「どういう意味ですか」


「捜査本部の上位の人間で、藤堂建設と繋がりがある人がいますか」


榊原は立ち上がって、窓の外を見た。

県警本部の建物が、冬の光の中に立っている。

三十二年、この組織にいた。

信頼できる人間と、そうでない人間の区別は、ある程度ついていた。

でも??


「調べてみます」


三日かけて、静かに調べた。

表向きは通常業務をこなしながら、空き時間に過去の記録を遡った。

藤堂建設の公共工事の受注記録。県警幹部の経歴。接点を探した。

一つの名前が浮かんだ。

桐生 正則。県警本部長。六十一歳。

十五年前、桐生は岐阜県の行政機関に出向していた時期があった。

その時期に、藤堂建設が複数の公共工事を受注していた。

証拠ではなかった。

ただの、時期の一致だった。

でも榊原の中で、何かが固まった。

桐生本部長は、捜査本部の設置を最初に承認した人物だった。

藤堂隆一を切り捨てることで、自分への捜査が及ぶ前に幕を引こうとしている。

そういうことか。

榊原はしばらく、自席で動かなかった。

三十二年間仕えてきた組織の中に、腐敗があった。

知りたくなかった。でも知ってしまった。


おじさんに電話した。

「一つ、確認したいことがあります」

「なんですか」

「桐生正則という人物を知っていますか」

沈黙があった。

長い沈黙だった。

「……名前は知っています」

「どういう経緯ですか」

「産廃の件を調べていた時に、その名前が出てきました」おじさんは静かに言った。

「ミーコさんが見つけました。ただ、証拠を固めるのに時間がかかっていて」

「藤堂建設の背後にいると」

「そう思っています」

榊原はため息をついた。

「なぜ早く言わなかったんですか」

「榊原さんの組織の話だから」おじさんは言った。

「ワシが口を出すことじゃないと思って」

「……そうですか」

「榊原さんは、どうするつもりですか」

榊原は窓の外を見た。

「まだ、わかりません」


その夜、榊原は一人で居酒屋に入った。

カウンターに座って、熱燗を一本頼んだ。

三十二年間、この組織で生きてきた。

正しいことをしてきたつもりだった。

少なくとも、できる範囲で。嘘の報告書を二枚書いた。

でもそれは、人を救うためだった。

組織の論理に従いながら、個人の良心を守ってきた。

その二つが、今夜、真正面からぶつかっていた。

桐生本部長を告発すれば??組織が揺れる。

自分のキャリアも終わるかもしれない。

証拠が不十分なまま動けば、逆に潰される。

黙っていれば??藤堂隆一だけが捕まり、本当の腐敗は残る。

中村誠は死んだ。

外国人労働者が二人、産廃の中に捨てられた。

それを知っていて、黙れるか。

熱燗を一口飲んだ。

答えは、最初からわかっていた。

黙れない。

三十二年間、黙れない性格だから、ここまで来た。


翌日、ミーコさんに連絡を取った。

垂井美智子は、電話口で少し驚いた様子だった。

「榊原警部から直接連絡をいただくとは」

「根古さんから聞きました。桐生本部長の件」

短い沈黙があった。

「……どこまで知っていますか」

「藤堂建設との接点、時期の一致、産廃への関与の可能性。それだけです。証拠はありません」

「こちらも証拠を集めている最中です」ミーコさんは言った。「時間がかかります」

「わかっています。ただ??捜査本部が藤堂隆一の逮捕に向けて動いています。

このままでは、桐生は逃げ切ります」

「それを阻止したい、ということですか」

「藤堂の逮捕を遅らせることはできない。でも、捜査の範囲を広げることはできるかもしれない」

「どうやって」

「捜査本部の中に、信頼できる人間が一人います」榊原は言った。

「その人間を通じて、桐生本部長と藤堂建設の接点を捜査項目に加える」

「リスクがあります」

「あります」

「榊原警部自身が、標的になる可能性も」

「あります」

ミーコさんは黙った。

「……わかりました。こちらも急ぎます。一週間、待てますか」

「待ちます」


その夜、おじさんにLINEを送った。


「動くことにしました」


返信は早かった。


「そうですか」


「リスクは承知しています」


「わかっています」


「ただ、一つ聞かせてください」


「なんですか」


「桐生本部長は??まだ止められますか。逃げ切らせない方法が、あなたには見えますか」


長い間があった。

榊原はスマホを持ったまま、待った。

十分後、返信が来た。


「見えます」


「どういう意味ですか」


「桐生さんには、昔からついているものがあります」おじさんは言った。

「良いものではない。そういう人間は、最後には自分で躓く」


「霊的な意味ですか」


「そういう意味です。ただ??人間の側でも、ちゃんと動かないといけない」


「それはわかっています」


「榊原さんが動けば、向こうも動く。ワシにできることはします」


榊原はスマホを閉じた。

根拠にならない言葉だった。

でも、なぜか、少し楽になった。


一週間後。

ミーコさんから連絡が来た。

「証拠が一つ、出ました」

十五年前、桐生が行政機関に出向していた時期に、藤堂建設から桐生個人の口座に送金があった記録が見つかった。

「使える証拠ですか」と榊原は聞いた。

「弱いです。でも、ないよりはいい」

「わかりました」

榊原は捜査本部の中で信頼している人間??三十年来の同期、倉田警部補に連絡を取った。

居酒屋で会って、話した。

すべてを話した。桐生本部長との接点。産廃の件。中村誠の死の背景。

倉田は黙って聞いていた。

話し終わると、熱燗を一口飲んで言った。

「お前、また面倒なものを拾ってきたな」

「そうだ」

「証拠は」

「弱い」

「本部長相手に弱い証拠で動くのか」

「動く」

倉田はしばらく黙っていた。

「……付き合うよ」

榊原は何も言わなかった。

「ありがとう」と言えばよかったのかもしれない。でも言えなかった。

三十年来の付き合いで、そういうことを言い合う間柄ではなかった。

代わりに、熱燗をもう一本頼んだ。


捜査が動き始めた。

捜査本部の中で、倉田を通じて桐生本部長と藤堂建設の接点が捜査項目に加えられた。

表向きは「捜査の全容解明のため」という名目だった。

桐生本部長は、最初は動じなかった。

でも三日後??

桐生本部長が、突然の体調不良を訴えた。

検査のため、入院した。

その日の夜、おじさんからLINEが来た。


「動きましたね」


「体調不良で入院しました」


「そうですか」


榊原は少し迷ってから、聞いた。


「あなたが何かしましたか」


しばらく間があった。


「ワシは何もしていません」


「本当ですか」


「ついているものを、少し引き剥がしただけです」


榊原は画面を見つめた。


「それは『何もしていない』とは言わないのでは」


「細かいですね」


榊原は思わず、一人で笑った。


エピローグ

二月。

藤堂隆一が逮捕された。

同時に、桐生本部長の口座への不正送金が公式の捜査対象となった。

桐生は入院中のまま、事情聴取を受けた。

県警本部が揺れた。

マスコミが集まった。

榊原は嵐の中にいた。

上司に呼ばれた。「お前が動かしたのか」と聞かれた。

「捜査の全容解明が必要と判断しました」と答えた。

上司は榊原を長い間見てから、「そうか」とだけ言った。

その夜、おじさんにLINEを送った。


「動きました。あとは司法に任せます」


「お疲れさまでした」


「あなたもお疲れさまでした」


「ワシは何もしていません」


「そうでしたね」


しばらく間があった。


「榊原さん」


「なんですか」


「体に気をつけてください」


榊原は画面を見つめた。

おじさんが、そういうことを言うのは珍しかった。


「何か見えますか」


「見えません。ただ、疲れているはずなので」


榊原は少し笑った。


「ありがとうございます」


窓の外に、冬の星が出ていた。

まだ終わっていない。でも、動いた。

それで十分だった。




榊原友蔵の事件簿 第四話「部下を守る」


三月の県警本部は、人事異動の季節だった。

廊下ですれ違う顔が変わる。挨拶が増える。送別会の案内が回ってくる。

榊原友蔵は自席で、一枚の報告書を読んでいた。

桐生本部長の件は、司法に委ねられた。

捜査本部は縮小され、榊原は通常業務に戻っていた。

表向きは、何も変わっていなかった。

でも榊原には、わかっていた。

自分は、マークされている。

桐生に近い人間が、まだ組織の中にいる。証拠はない。

でも三十二年の勘が、そう告げていた。

そういう時に、部下に危険が及ぶことがある。

榊原が動いたことで、周辺の人間が標的になることがある。

気になっているのは、一人だった。

平 圭。所轄の巡査。二十四歳。

直接の部下ではない。でも榊原は、この若い巡査のことを、ここ数ヶ月で何度も耳にしていた。

根古親司に繋がっている人間。

それだけで、十分に危険だった。


おじさんにLINEを送った。


「平巡査のことが、気になっています」


返信は昼過ぎに来た。


「何かありましたか」


「まだ何もありません。でも、桐生に近い人間がまだ組織にいます」


「平巡査が標的になる可能性がある、ということですか」


「あります。彼女はあなたと繋がっている。それを知っている人間がいれば??」


長い間があった。


「……わかりました」


「彼女に、気をつけるよう伝えてもらえますか」


「伝えます」


「ただ」榊原は続けた。「彼女には、私が心配していることは言わないでください」


「なぜですか」


「余計なプレッシャーをかけたくない」


しばらく間があった。


「榊原さんは、不器用ですね」


榊原は画面を見つめた。


「そうですか」


「わかりました。うまくやります」



三日後の夜。

おじさんから短いLINEが来た。


「平に変な車が尾行しています」


榊原はすぐに返信した。


「今どこですか」


「可児市内。国道沿い」


「車種と色は」


「黒のセダン。ナンバーは??」


数字が続いた。

榊原はすぐに照会をかけた。

登録名義は、運送会社だった。

でも実態は??

藤堂建設の関連会社だった。

榊原は上着を掴んで立ち上がった。


国道に出るまで、二十分かかった。

おじさんからLINEが続いていた。


「コンビニの駐車場に入りました」


「平は気づいていません」


「車は外で待っています」


榊原は車を飛ばした。


「もうすぐ着きます。平巡査には近づかせないでください」


「どうやってですか」


「あなたなら方法があるでしょう」


しばらく間があった。


「……まあ、あります」


コンビニが見えてきた。

駐車場に、黒いセダンが止まっていた。

榊原は手前の路肩に車を止めた。

セダンに近づいた。

窓をノックした。

運転席の男が、窓を開けた。四十代。無表情。

「県警の榊原です」榊原は警察手帳を見せた。「少し話を聞かせてもらえますか」

男の顔が、一瞬強張った。



男の名前は、藤堂建設の関連会社の社員だった。

「なぜここにいますか」と榊原は聞いた。

「たまたま通りかかっただけです」

「そうですか。ずいぶん長い時間、この駐車場で止まっていますね」

男は黙った。

「あなたの会社の関係者が、現在捜査を受けています。ご存じですか」

「知りません」

「そうですか」

榊原はしばらく男を見た。

「今夜は帰ってください。それと??この周辺に来る必要は、もうないと思います」

男は何も言わなかった。

しばらくして、エンジンをかけた。

セダンが走り去った。

榊原は駐車場を見た。

コンビニの中に、制服を着ていない若い女性がいた。ジーンズにパーカー。

缶コーヒーを買っている。

平圭だった。

何も知らない顔をしていた。


コンビニを出た平巡査が、駐車場で榊原に気づいた。

明らかに驚いた顔をした。

「榊原警部、なぜここに」

「近くに用事があった」榊原は言った。「たまたまだ」

平は榊原を見た。それから駐車場を見た。さっきまで黒いセダンが止まっていた場所を。

「……何かありましたか」

「何もない」

平は少し間を置いた。

「根古さんから、さっきLINEが来ました」

「何と」

「『今夜は早く帰れ』と」平は苦笑いをした。「理由は書いてなかったんですが」

榊原は何も言わなかった。

「榊原警部」

「なんだ」

「ありがとうございます」

榊原は平を見た。

「何のことだ」

「わかりません」平はまっすぐに榊原を見た。

「でも、ありがとうございます」

榊原は少し間を置いた。

「早く帰れ」

「はい」

平が歩き出した。

榊原はその背中を見送った。

二十四歳。この仕事を、まだ何もわかっていない年齢で始めた。

でも??この目は、本物だった。


車に戻ってから、おじさんにLINEを送った。


「対処しました」


「見てました」


「見ていたんですか」


「近くにいました。たまたま」


榊原は思わず、画面を見つめた。


「あなたも『たまたま』を使うんですね」


「便利な言葉ですから」


「平巡査は気づいていましたか」


「半分くらいは」しばらく間があった。「あの子は勘がいいので」


「そうですか」


「榊原さんのことも、半分くらいわかっています」


「何がですか」


「心配していること」


榊原はしばらく画面を見た。


「余計なことを」


「言っていません。ただ、わかる子なので」


榊原はため息をついた。


「あの子を、よろしく頼みます」


「それはこっちの台詞です」おじさんは言った。

「榊原さんが組織の中で動いてくれないと、ワシには手が届かないことがある」


榊原は窓の外を見た。

夜の国道に、車の流れが続いていた。


「わかりました」



翌週。

倉田警部補から連絡が来た。

「桐生に近い人間が、もう一人いる」

「誰だ」

「安藤 修。所轄の警部補だ」

榊原は手を止めた。

安藤修。平圭の直属の上司だった。

「桐生との接点は」

「はっきりしない。でも、金の動きが少しおかしい」

「わかった。調べる」

電話を切って、おじさんにLINEを送った。


「安藤警部補について、何か知っていますか」


返信は夜に来た。


「平からよく名前を聞きます」


「彼について、気になることは」


長い間があった。


「……悪い人ではないと思います」


「ただ」


「ただ?」


「弱い人だと思います。強い方に流される」


榊原はメモを取った。

悪人ではなく、弱い人間。

それが一番、厄介だった。



安藤警部補の調査を、倉田と二人で進めた。

一週間後、輪郭が見えてきた。

安藤は藤堂建設の関係者から、数回にわたって食事の接待を受けていた。

金銭の授受はなかった。ただ、情報を漏らしていた可能性があった。

捜査の進捗。関係者の動向。

悪意があったかどうか、わからなかった。

ただ、結果として、情報が流れていた。

榊原は一人で考えた。

安藤を告発すれば??平巡査の直属の上司が処分される。平に影響が及ぶ。

告発しなければ??腐敗を見逃すことになる。

どちらも、正解ではなかった。

おじさんにLINEを送った。


「安藤警部補の件、証拠が出ました」


「どうするつもりですか」


「迷っています」


しばらく間があった。


「平に影響が出ることを、気にしていますか」



「そうです」


「榊原さん」


「なんですか」


「平はそんなに、柔じゃないですよ」


榊原は画面を見つめた。


「上司が処分されても、大丈夫だと思いますか」


「大丈夫かどうかはわかりません」おじさんは言った。「ただ、真実を曲げることのほうが、あの子には辛いと思います」


榊原はしばらく動かなかった。

それから、倉田に電話した。

「動く」



エピローグ

安藤修は、依願退職という形で処分された。刑事罰は問われなかった。

平圭は、その日の夜に一人で居酒屋に入ったと、後で聞いた。

翌朝、出勤してきた平は、いつもと変わらない顔をしていた。

榊原は廊下ですれ違った時、何も言わなかった。

平も何も言わなかった。

ただ、一度だけ、目が合った。

それだけだった。

その夜、おじさんにLINEを送った。


「平巡査は大丈夫でしたか」


「大丈夫でした」


「そうですか」


「ヤマトのそばで少し泣いたそうですが」

榊原は画面を見つめた。


「……そうですか」


「それだけ泣けたら大丈夫です」おじさんは言った。「泣けない人間のほうが心配です」


榊原は窓の外を見た。

春の夜が、静かだった。

平圭は大丈夫だ。

この仕事を、続けていける。

それだけで、十分だった。



榊原友蔵の事件簿 最終話「それでも警察官だ」


四月の県警本部は、桜が咲いていた。

駐車場の隅に、誰が植えたかわからない桜の木が一本ある。

毎年この時期だけ、誰も気にとめない場所で静かに咲く。

榊原友蔵は、その桜を窓から見ていた。

桐生正則の件は、検察に送られた。

藤堂隆一の裁判は、秋に始まる予定だった。

産廃の件は、ミーコさんが引き続き動いていた。外国人労働者二名の遺族への補償交渉が、ようやく始まっていた。

安藤修は、もういない。

組織は揺れたが、倒れなかった。

榊原のキャリアは??終わらなかった。

それが少し、意外だった。

上司に呼ばれた時、覚悟していた。

でも上司は「よくやった」とだけ言った。

それ以上でも以下でもなかった。

三十二年間、この組織にいた。

腐敗があった。でも、正しくあろうとしている人間も、いた。

それだけのことだった。



おじさんにLINEを送った。


「桐生の件、検察に送られました」


返信は夕方に来た。


「そうですか。お疲れさまでした」


「あなたもお疲れさまでした」


「ワシは何もしていません」


榊原は思わず、画面の前で笑った。


「そうでしたね」


「ただ」


「なんですか」


「一度、会いませんか」


榊原は画面を見つめた。

おじさんから、会おうと言ってきたのは初めてだった。


「いつですか」


「今週末、都合はどうですか」


「空けます」


「三峰温泉、来たことありますか」


「ないです」


「ええ湯ですよ」


土曜日の昼。

三峰温泉の駐車場に、軽自動車が止まっていた。

榊原が隣に車を止めると、おじさんが降りてきた。助手席から、黒猫が顔を出した。

「来ましたね」

「来ました」

「温泉、入りますか」

「それが目的ですか」

「半分は」

二人で温泉に入った。

平日でも休日でもない中途半端な時間のせいか、他に客はいなかった。

露天風呂から、山の稜線が見えた。

春霞の中に、山がぼんやりと浮かんでいた。

二人とも、しばらく黙っていた。

こういう時間が、三十二年ぶりにあった気がした。

何も話さなくていい時間。

何も考えなくていい時間。

榊原は湯に浸かりながら、思った。

この男は、いつもこうして湯に入っているのか。

事件と事件の間に。誰かを救った後に。誰にも言えない重さを抱えながら。

一人で、湯に入っている。



風呂を出て、休憩室で茶を飲んだ。

ヤマトが榊原の膝に乗ってきた。

「懐かれましたね」とおじさんが言った。

「猫は苦手ではないが、慣れていない」

「じっとしていたら大丈夫です」

榊原はヤマトをそっと撫でた。ヤマトは目を細めた。

「根古さん」

「なんですか」

「二十二年前、あの路地でワシに声をかけたのは、なぜですか」

おじさんはお茶を飲んだ。

しばらく、答えなかった。

「わかってしまったので」とおじさんは言った。「女の子がいることが。

それを知っていて、黙っていることができなかった」

「でも、名乗りもしなかった」

「名乗る必要がなかったので」

「証拠にもならないことを、教えてくれた」

「榊原さんが動くと思ったので」

榊原はヤマトを撫でながら、言った。

「なぜそう思ったんですか」

おじさんは少し間を置いた。

「目を見ればわかります。動く目をしていた」

榊原は窓の外を見た。

春の山が、静かだった。

「あの時から、ずっと電話番号を持っていました」

「知っています」

「なぜ知っているんですか」

「見ればわかります」

榊原は少し笑った。

「不思議な人ですね」

「よく言われます」



お茶を飲み終えてから、おじさんが言った。

「榊原さん、来年どうするつもりですか」

「来年?」

「定年まで、あと何年ですか」

「五年です」

「その後は」

榊原は少し考えた。

「考えていません」

「そうですか」

「あなたは考えていますか。この先のことを」

おじさんは窓の外を見た。

「考えません。その日その日で精一杯なので」

「ヤマトとどこかの温泉に行って、頼まれたら動いて、また温泉に帰る」

「だいたいそうです」

「疲れませんか」

おじさんは少し間を置いた。

「疲れます。でも??やめられない」

「なぜですか」

「向こうが見えてしまうので」おじさんは静かに言った。

「見えたものを、見なかったことにできない」

榊原は黙った。

「榊原さんも、同じじゃないですか」

「同じ?」

「引っかかるものを、見なかったことにできない。

三十二年間、ずっとそうしてきたでしょう」榊原はヤマトを見た。

黒猫が、じっと榊原を見返していた。

「……そうかもしれません」


帰り際、駐車場で別れた。

おじさんが軽自動車のドアを開けて、ヤマトを助手席に乗せた。

「根古さん」

「なんですか」

「二十二年間、ありがとうございました」

おじさんは少し驚いた顔をした。

榊原が礼を言ったのは、初めてだったかもしれない。

「ワシは何もしていません」

「そうでしたね」

「証拠にもなりません」

「証拠にならなくても、動けました」

おじさんは少し間を置いた。

「榊原さんが動いたから、動けた人間がいます」おじさんは言った。

「中村誠さんも。西田美佐子さんも。産廃の二人も」

「あなたがいなければ、ワシには見えても動けなかった」

榊原は黙った。

「お互いさまですよ」とおじさんは言った。

「そうですか」

「そうです」

おじさんが車に乗り込んだ。

窓が少し開いた。

「また何かあったら、LINEしてください」

「こちらこそ」

「温泉旅行券、いりますか」

榊原は少し間を置いた。

「……いただきます」

おじさんが笑った。

初めて見た、おじさんの笑顔だった。

軽自動車が走り去った。



夕方の国道を、榊原は一人で走った。

助手席に、温泉旅行券が入った封筒が置いてあった。

三峰温泉。一名様。有効期限一年。

手書きで「お疲れさまでした」と書いてあった。

榊原はそれを見ながら、思った。

三十二年間。

腐敗を見た。理不尽を見た。報われない正義を見た。

それでも??やめなかった。

やめられなかった。

引っかかるものを、見なかったことにできなかった。

おじさんと、同じだった。

能力も、立場も、何もかも違う。

でも、根っこのところで、同じだった。

見えたものから、目を逸らせない人間だった。

榊原は窓を少し開けた。

春の風が入ってきた。

桜の匂いがした。



八 

エピローグ

五月。

平圭が巡査部長に昇進した。

辞令の日、廊下ですれ違った。

平が立ち止まって、頭を下げた。

「ありがとうございます」

「何がだ」

「いろいろと」

榊原は少し間を置いた。

「仕事をしただけだ」

「それでも、ありがとうございます」

平はまっすぐに榊原を見た。

二十五歳になっていた。

この目は、本物だ。

三十二年前、最初に警察官になった時に持っていたものを、この目はまだ持っている。

「精進しろ」

「はい」

平が歩き出した。

榊原はその背中を見送った。

その夜、おじさんにLINEを送った。


「平巡査が昇進しました」


「知っています。旅行券を渡しました」


「そうですか」


「榊原さんも何か渡せばよかったのに」


「仕事をしただけです」


しばらく間があった。


「不器用ですね」


「そうですか」


「でも、それが榊原さんですから」


榊原は画面を見た。


「根古さん」


「なんですか」


「これからも、よろしくお願いします」


長い間があった。

既読がついたまま、返信はなかった。

でも榊原にはわかった。

返信がないことが、返信だった。


窓の外に、夜の街が広がっていた。

明日も、仕事がある。

引っかかるものが、また出てくるだろう。

証拠にならない真実を、また受け取るだろう。

嘘の報告書を、また書くかもしれない。

それでも??


榊原友蔵は、警察官だった。

三十二年間、そうだった。

これからも、そうだ。

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