「木下千恵と加藤敬三」
可児の商店街の一角にある動物病院の待合室で、木下千恵はカルテを整理しながら、ふと窓の外に目をやった。五十三歳、この病院の院長を長年務めている千恵は、地元では知らぬ者のいない存在だった。
その日の最後の予約は、根古親司とヤマトだった。
定期健診のためにやってきた根古は、待合室のベンチに腰掛け、ヤマトの入ったキャリーバッグを膝に乗せていた。
「根古さん、お待たせしました。どうぞ」
診察室に通されると、千恵はヤマトを慣れた手つきで診察台に乗せ、体温や心音を確かめ始めた。
「相変わらず元気そうね、この子。十歳とは思えないくらい」
「よく食べてよく寝てるからな」
「そういえば」千恵は聴診器を外しながら、思い出したように言った。
「最近、加藤さんのところで、変な噂を聞いたんだけど」
「加藤さんって、自動車屋の?」
「そう。なんでも、大垣の方から来た車の修理を頼まれたとかで。ずいぶん物々しい感じの人たちだったって言ってたわ」
根古は思わず苦笑いを浮かべた。あの一件の余波が、こんなところにまで届いているとは思わなかった。
「まあ、詳しいことは俺も言えんが……大したことじゃないさ」
「あら、根古さんも何か知ってるの?」
「いや、俺は何も」
根古はしらばっくれるように目を逸らしたが、千恵は疑わしそうに目を細めた。
長年この土地で開業医をしていると、患者の飼い主たちの微妙な様子の変化には敏感になるものだった。
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同じ頃、加藤敬三の自動車修理工場では、ちょうどその噂の主が話題になっていた。
六十歳になる加藤は、油で汚れた手を拭きながら、常連客の一人と世間話をしていた。
「いやあ、この前来た客、ちょっと変わっててな。黒塗りの車で、修理代も現金で、名前も名乗らんかった」
「怖い人たちだったんですか」
「怖いっちゅうか……堅気じゃない感じはしたな。まあ、金払いはよかったから、こっちも深くは聞かんかったが」
その会話を、たまたま店先を通りかかった太田豊が耳にしていた。茶店「ラクカ」のマスターである太田は、五十八歳、地元の情報通としても知られている。
「加藤さん、それって、もしかして例の記念館の一件と関係あるんじゃないの」
「ああ、あの暗号がどうとかいう話か? まさか、そんな大それた話、うちの工場には関係ないやろ」
「いや、わからんよ。最近、この辺、妙な人の出入りが多い気がしてなあ」
太田はそう言いながら、腕を組んで首を傾げた。
彼の茶店には、根古をはじめ、色々な人間が立ち寄っては、他愛のない話をしていく。その中には、時折、聞き捨てならない噂話も混じっていた。
「まあ、詮索してもしゃあないな。うちはうちで、いつも通りやるだけや」
加藤はそう言って笑い、また作業に戻っていった。
太田も小さく頷き、茶店へと戻る足を進めた。
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夕方、木下千恵の動物病院を出た根古は、ヤマトのキャリーバッグを提げて、太田の茶店「ラクカ」に立ち寄った。
「よう、親司さん。ヤマトの調子はどうやった」
「相変わらず元気だとさ」
根古がカウンター席に腰掛けると、太田は湯呑みにお茶を注ぎながら、さりげなく切り出した。
「なあ親司さん、最近この辺、色々物々しい話、聞かんか? 加藤さんのとこに変な客が来たとか」
「……さあな。俺は何も知らんよ」
根古はそう言って、お茶をすすった。太田はしばらくじっと根古の顔を見つめていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「まあ、親司さんがそう言うんなら、そういうことにしとくか」
「ああ、そうしてくれ」
二人はそれ以上その話題を深追いすることなく、いつもの他愛のない世間話へと戻っていった。
窓の外では、可児の商店街の夕暮れが、いつもと変わらない穏やかさで暮れていく。
この土地の人々は、大きな出来事の断片を、それぞれの場所で少しずつ耳にしながらも、それを大げさに騒ぎ立てることなく、ただ日常の中に溶け込ませていくのだった。
それもまた、この土地なりの「守り方」なのかもしれなかった。




