「イスラエル大使館、その後」
東京の大使館の一室で、一石誠二は「岐阜県内における特筆すべき事案なし」と結んだ報告書を、静かに上司へ提出していた。
だが、その報告書が保管庫に収められる一方で、現場に近いところでは、まだ小さな燻りが残っていた。
「……本当に、あれで終わりでいいんですか」
そう切り出したのは、まだ本編の表舞台には出てこなかった大使館職員の一人、メサイア・ミカルだった。三十代後半、情報分析を専門とするミカルは、一石の報告書に目を通しながら、どこか納得のいかない表情を浮かべていた。
「一石さんの判断ですから、私が口を出すことではありませんが……あの誓約の文書、本当に、ただの過去の記録として片付けていいものでしょうか」
傍らにいたヨセフ・シャロームが、静かに頷いた。
「僕も同感です。杉原さんの功績は、我々の国でも語り継がれています。……その裏に、まだ知られていない繋がりがあったとすれば、それは単なる『過去』では終わらない気がします」
二人のやり取りを聞いていたナホム・アリエルが、腕を組みながら口を挟んだ。
「とはいえ、一石さんが『関与すべきではない』と判断したのには、それなりの理由があるはずだ。……あの家々が、自分たちの手で守り継いでいくと決めたことに、我々がいつまでも首を突っ込むのは、筋が違うんじゃないか」
「それは、わかっています。ただ……」
ミカルは言葉を濁した。彼女の祖父もまた、かつて杉原のビザによって救われた一族の一人だった。
だからこそ、この一件には、公的な報告書だけでは片付けられない、個人的な感情が絡んでいた。
その様子を、少し離れた場所で見ていたレイチェル・ミゲルが、静かに声をかけた。
「ミカル。気持ちはわかるけど、一石さんの判断は正しいと思う。……あの誓いは、あの土地の人たちのものよ。私たちが横から手を出すべきものじゃない」
「でも、私たちにも、どこかで繋がりがあるかもしれない」
「繋がりがあるからこそ、余計に大事にすべきなんじゃない? ……見守ることも、一つの関わり方よ」
ミゲルの言葉に、ミカルはしばらく黙り込んだあと、小さく頷いた。
「……そうですね。分かりました」
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同じ頃、大使館の別室では、サロメ・ウリエルが、一石から直接、あの夜の詳細な報告を受けていた。
「三柱鳥居……三つの家の誓約、ですか」
「ああ。財宝でも、兵器の設計図でもなかった。ただの、命を守るという約束の記録だった」
ウリエルは、しばらく報告書を見つめたあと、静かに口を開いた。
「一石さん、正直に伺いますが……本当に、それだけで終わらせていいと思っていますか?」
一石は、少しの間、答えを探すように黙り込んだ。
「……終わらせる、というより、あれはそもそも、我々が『終わらせる』とか『続ける』とか、判断すべき性質のものではなかったんだと思う。あの土地には、あの土地なりの守り方がある。我々にできることは、それを尊重することだけだ」
「……それが、モサドの人間らしくない答えだとは思いませんか」
一石は、その言葉に、初めて小さく笑った。
「らしくない、で構わない。時には、何もしないことが、一番の仕事になることもある」
ウリエルはしばらくその顔を見つめていたが、やがて小さく頭を下げ、部屋を後にした。
窓の外には、東京の夜景が、いつもと変わらない喧騒を湛えて広がっていた。
だが、その喧騒の遠く向こう、岐阜の小さな土地では、誰にも気づかれることなく、静かな約束が、今日もまた一つ、受け継がれようとしていた。




