「工藤俊一と秋月小五郎」
横浜から岐阜へ休養に来ていた私立探偵、工藤俊一が、多治見の場末の居酒屋で盃を傾けていたのは、樋口家での夜からちょうど数日後のことだった。
「なあ、秋月さん。この土地、思ったより静かでいいですね」
「静かすぎて、逆に落ち着かんわ」
元警視庁刑事、秋月小五郎は四十八歳。
工藤とは事務所の先輩後輩の間柄だが、探偵としては秋月の方が付き添い役に徹していた。
「休養休養言うても、お前、結局仕事の勘、抜けとらんやろ」
「そりゃ、職業病ですから」
工藤は苦笑いしながら、猪口を傾けた。
三十二歳、独立して間もない探偵で、横浜での立て続けの激務に疲れ、上司から半ば強制的に休暇を取らされていた。だが、生来の性分か、土地の噂話を聞くとつい耳がそちらに向いてしまう。
「そういえば、最近この辺で妙な話、聞きませんでした? 八百津の記念館がどうとか」
「聞いたな。ネットでちょっと話題になっとったやつやろ。暗号がどうとか」
「気になりません? 探偵の血が騒ぐというか」
「お前な……休みに来て何やっとんねん」
秋月は呆れたように笑ったが、その実、彼自身も少なからず興味を惹かれていた。
刑事時代の勘というのは、そう簡単には抜けないものだった。
二人がそんな話をしていた矢先、居酒屋の入口から、体格のいい男が三人、店に入ってきた。先頭に立つのは、佐藤明だった。
まだこの土地に未練を残していたのか、樋口家での一件からしばらく経っても、東京の組織はこの周辺をうろついていたらしい。
「……おい、あの男」
秋月が声を潜めて工藤に囁いた。
「知り合いですか」
「いや。だが、あの空気は堅気やない。刑事の勘や」
佐藤たちは店の奥のテーブルに座り、低い声で何かを話し込んでいた。
工藤は聞き耳を立てるつもりはなかったが、断片的に「大垣」「鳥居」「まだ何か残ってる」という単語が漏れ聞こえてきて、思わず箸を止めた。
「秋月さん、あれ……」
「聞くな。関わるな。お前は今、休暇中や」
秋月はそう釘を刺したが、工藤の目には、すでに探偵としての好奇心の火が灯っていた。
その夜、店を出た二人の後を、佐藤たちの一人がしばらく尾行するようについてきた。
気づいた秋月が、さりげなく工藤を路地に引き込む。
「……追われとるな」
「僕らが、ですか? なんでまた」
「さあな。だが、あの手の連中は、目撃者一人にも神経質になる。……お前、あの店で顔、覚えられたんとちゃうか」
工藤は思わず自分の顔を撫でた。
刑事時代の勘に加え、秋月の身のこなしはまだ現役だった頃と変わらず、二人は路地を巧みに縫って、尾行を難なく撒いてしまった。
「……はあ、疲れた。休暇のはずなのに、なんでこんなことに」
「言うたやろ、関わるなと」
秋月は苦笑いしながら、工藤の肩を軽く叩いた。
「まあ、当面は大人しくしとけ。この土地には、もうしばらくおるつもりなんやろ?」
「そのつもりですけど……」
「なら、あんまり首突っ込むな。
……もっとも、こういう話は、放っといても向こうから寄ってくるもんやけどな」
秋月の言葉通り、その予感は、あながち外れてはいなかった。数日後、工藤が滞在先の旅館に戻ると、フロントに一枚のメモが残されていた。
差出人の名前はなく、ただ一言、こう書かれていた。
「探偵さん、詮索はほどほどに。」
工藤はそのメモを、しばらく無言で見つめていた。
窓の外では、多治見の静かな夜景が、いつもと変わらず広がっている。
「……秋月さん、これ」
メモを見せられた秋月は、しばらく黙り込んだあと、低く呟いた。
「……まだ、燻っとるみたいやな」
二人の休暇は、思いのほか長引くことになりそうだった。




