「三柱鳥居の夜」
その夜、大垣の樋口家の庭には、月明かりだけが降り注いでいた。
三本柱の鳥居が、闇の中に静かなシルエットを浮かび上がらせている。
最初にその場に足を踏み入れたのは、根古親司と松平秀麿だった。
ヤマトは根古の腕の中で、いつになく緊張した様子で耳を立てている。
「秀麿さん、本当にここでいいのか」
「樋口さんから、今夜このタイミングで来てほしいと連絡があった。
……何かが動く夜になる、とだけ言っていた」
二人が鳥居の前に立ったちょうどその時、庭の反対側の暗がりから、静かな足音が近づいてきた。江戸川勉と安藤修だった。
「根古さん、松平さん……こんな時間に、あなたたちも?」
「樋口さんに呼ばれてな。お前さんたちは?」
「同じく依頼です。当主が『今夜、大事な話をしたい人たち全員に声をかけた』と」
四人が言葉を交わしていると、屋敷の裏手からもう一つの人影が現れた。西野千紗都、古田麻尋、星野由紀子の三人だった。月光の下で見るその姿は、噂されていたような剣呑さよりも、むしろ張り詰めた緊張感を纏っていた。
「……あなたたちが」
江戸川が思わず身構えると、星野由紀子が静かに手を上げた。
「争うつもりはありません。今夜は、私たちも樋口さんに呼ばれてここに来ました」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、庭の外周にさらに複数の気配が現れた。
黒い服に身を包んだ屈強な男女――ジェイコブ・ラファエルとアンナ・レヴィを先頭に、マーク・コーエン、ベン・ダヴィドが音もなく庭に入り込んでくる。
その後方には、情報幹部の一石誠二が、落ち着いた足取りで続いていた。
「これは……穏やかではありませんね」
一石が静かに口を開くと、根古たちの間に緊張が走った。
だが、それとほぼ同時に、反対側の塀の陰から、北村唯と遠藤成気の二人が姿を現す。
「NSAだ。全員、動かないでもらいたい」
北村が抑えた声で告げると、庭の空気は一気に張り詰めたものになった。
誰も彼もが動きを止め、月明かりの下で睨み合うような沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは、屋敷の縁側に姿を現した樋口家の当主だった。
「……皆さん、揃いましたね」
当主の声は、驚くほど落ち着いていた。
杖をつきながらゆっくりと庭に降り立つと、彼は三柱鳥居の前に立ち、集まった一同を見渡した。
「今夜、皆さんをお呼びしたのは、争ってもらうためではありません。……終わらせるためです」
「終わらせる、とは?」一石が静かに尋ねた。
「この鳥居が指し示す先について、皆さんそれぞれが、それぞれの思惑で調べておられることは存じております。……ですが、あなた方が探しているものは、おそらく期待しているようなものではない」
当主は懐から、古い封筒を取り出した。
「これは、祖父から託された最後の手がかりです。今夜、この場で初めて開封します」
全員の視線が、その封筒に集中した。西野千紗都が思わず一歩踏み出す。
「待ってください。……その前に、一つだけ確認させてください。私たちは、樋口の家の血を引いている可能性がある、と聞いて調べてきました。それは、本当のことなんでしょうか」
当主は、月明かりの下で三人の女性の顔を、一人ずつゆっくりと見つめた。
「……千紗都さん、と仰いましたか。あなたのお祖母様のお名前を、伺ってもよろしいか」
「……樋口、静。祖父の代で、家を出たと聞いています」
当主の表情が、大きく揺れた。杖を握る手が、わずかに震える。
「……静姉さんの、お孫さんか」
庭に、静かなどよめきが広がった。根古はヤマトを抱いたまま、成り行きを見守ることしかできなかった。松平が小さく息を呑む。
江戸川と安藤も、言葉を失ったように立ち尽くしている。
当主は封筒を開け、中から一枚の古い文書を取り出した。震える声で、それを読み上げ始めた。
「『我ら、杉原、樋口、松平の三家は、ここに誓う。いかなる時代、いかなる権力の要請があろうとも、行き場を失いし者を、二度と見捨てぬことを。この誓いの証として、三本の柱を組み、三つの地に、その心を刻む』」
庭に、長い沈黙が落ちた。ジェイコブ・ラファエルとアンナ・レヴィが、戦闘態勢を解くように、わずかに肩の力を抜く。
一石誠二は静かに目を閉じ、何かを噛み締めるように立っていた。北村唯と遠藤成気も、互いに顔を見合わせている。
「……それだけ、ですか」
沈黙を破ったのは、コーエンだった。
どこか拍子抜けしたような、しかしそれ以上に安堵したような声だった。
「それだけです」当主は静かに頷いた。「財宝でも、兵器の設計図でもない。ただの、約束の記録です。……あなた方が想像していたようなものは、ここにはない」
その時、庭の外周の暗がりから、さらに新たな気配が近づいてきた。
佐藤明を先頭に、杉本幻、深沢彩織を伴った一団だった。東京の組織から派遣されたその一団は、明らかに他の誰よりも殺気立った雰囲気を纏っている。
「……随分と、静かな夜みたいだな」
佐藤の低い声に、庭の空気が再び張り詰めた。ラファエルとレヴィが、瞬時に体勢を戻す。
その一触即発の空気の中、根古の腕の中にいたヤマトが、突然するりと抜け出し、三柱鳥居の根元へと駆け寄った。全員の視線が、思わずその小さな黒猫に集まる。
「ヤマト!?」
ヤマトは鳥居の根元の石を、前足で執拗に引っ掻き始めた。
根古が慌てて駆け寄ると、その石の下に、小さな金属の筒が埋まっているのが見えた。
「……これは」
「待ってください」
当主が静かに、しかし有無を言わせぬ声で制した。
「それは、もう一つの鍵です。……ですが、今夜この場で開けるべきものではない。この場に集まった全員が、今、確かに聞いたはずです。これは奪い合うものではなく、守り継ぐものだと」
佐藤明が、しばらく無言で当主を睨みつけていたが、やがて小さく舌打ちをして、部下たちに引くよう合図をした。
「……今夜のところは、退くとするか。だが、この話、まだ終わったわけじゃない」
東京の一団が闇の中に消えていくのを見送りながら、一石誠二が静かに口を開いた。
「我々も、これ以上は関与すべきではなさそうですね。……大使館には、私から報告しておきます。『特筆すべきことは何もなかった』と」
その言葉に、コーエンとダヴィドが小さく頷く。
北村と遠藤も、互いに目配せをしてから、静かに庭を後にした。
月明かりの下、最後まで残ったのは、根古、松平、江戸川、安藤、そして樋口の当主と、三人の女性たちだけだった。
「静姉さんの、お孫さんたちか」
当主は、改めて千紗都、麻尋、由紀子の三人の顔を見渡し、深く頭を下げた。
「長い間、探させてしまって、すまなかった。……ようやく、家族に会えた」
千紗都の目に、こらえきれない涙が滲んだ。麻尋がその肩にそっと手を置く。
星野由紀子――彼女もまた、遠い縁続きの一人だったのだと、この夜、初めて明かされることになる。
ヤマトは、掘り出された金属の筒の傍らで、まるで役目を終えたかのように、静かに座り込んでいた。




