「大垣、樋口家」
多治見の古いアパートの一室を事務所代わりにしている私立探偵、江戸川勉のもとに、その依頼が舞い込んだのは、記念館の騒動から数日後のことだった。
「樋口家の当主から、直接の依頼だそうです」
助手の安藤修が、電話を切りながらそう告げた。安藤は元刑事で、三十六歳。
江戸川より十一歳年上だが、探偵としてはまだ駆け出しの江戸川を陰から支える形で助手を務めている。
「樋口家って、大垣の?」
「ええ。旧家らしいです。電話の様子だと、かなり切羽詰まった感じでしたね」
江戸川は二十五歳、探偵業を始めて間もない。
この手の「旧家からの相談」というのは、たいてい相続争いか蔵の整理程度のものだったが、今回はどうも様子が違うようだった。
二人は軽自動車を飛ばし、大垣の郊外にある樋口家へと向かった。
長い塀に囲まれた屋敷は、いかにも由緒ありげな佇まいで、庭の奥には手入れの行き届いた小さな社が見えた。
「ようこそいらっしゃいました」
出迎えたのは、七十代半ばと思しき当主、樋口家の主だった。
座敷に通された江戸川と安藤に、当主は茶を出しながら、ゆっくりと切り出した。
「単刀直入に申し上げます。
……先日、うちの蔵に何者かが侵入しようとした形跡がありました」
「何か盗まれたものは?」
「幸い、何も。ですが、蔵の奥にある文書箱の周辺だけが、荒らされておりました」
江戸川と安藤は顔を見合わせた。八百津の記念館で起きたという侵入未遂と、まったく同じ手口だった。
「その文書箱には、何が入っているんですか」
当主はしばらく躊躇うように黙り込んだあと、意を決したように語り始めた。
「……うちの家は、戦時中、ある方と縁がございました。杉原千畝さんです」
「杉原千畝……」
江戸川が思わず声を上げると、当主は頷いた。
「詳しいいきさつは、私も祖父から聞いた話でしかありませんが……。
杉原さんが領事館の職を離れられたあと、ある一族の記録と系譜を、うちが預かることになったのだそうです。それは財産でも何でもない。ただの、約束の記録だと」
「約束の記録?」
「杉原さんと、うちの先祖と、それからもう一軒、位山の方の神官の家と……三つの家で交わした約束だと聞いております。
『難民を、二度と見捨てない』という」
座敷に、しばしの沈黙が流れた。安藤が静かに口を開く。
「その約束の記録の『読み方』が、何かの形で暗号化されている、ということですか」
「その通りです。祖父の代からの言い伝えでは……うちの敷地内にある、あの社の鳥居の配置が、鍵になっているのだそうです」
当主は障子を開け、庭の奥にある小さな社を指し示した。夕暮れの光の中、その社の前には、根古が松平の巻物で見たものと同じ形の、三本柱の鳥居が静かに佇んでいた。
「あれが……三柱鳥居ですか」
「ご存じでしたか。……この鳥居は、三方向を指しております。一つは、おそらく八百津の方角。もう一つは、位山の方角だと聞いております。三つ目については、祖父も『それはまだ話す時ではない』とだけ言い残して、詳しくは教えてくれませんでした」
江戸川はメモを取りながら、慎重に尋ねた。
「その侵入者について、心当たりは?」
「実は……」当主は一段と声を落とした。
「近頃、うちの周りをうろついている女性たちがいると、使用人が申しております。東京から来たという、三人組だとか」
江戸川と安藤の間に、緊張が走った。まさにその三人組は、江戸川自身のアパートの隣室に越してきたばかりの女性たちと、特徴が一致していた。
「……その三人組について、もう少し詳しく」
「若い女性が二人と、少し年配の女性が一人。
……妙な話ですが、うちの家系図を古くから調べているような素振りがあったと」
江戸川は安藤と目を合わせた。何かが、繋がりかけていた。
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その帰り道、車を運転しながら、安藤が呟いた。
「江戸川、お前のアパートの隣に越してきた三人組……」
「ああ。まさかとは思うが……偶然にしちゃ出来すぎてる」
「探ってみるか」
「いや」江戸川はハンドルを握る安藤の横顔をちらりと見た。
「もう少し様子を見よう。相手が本当に危険な連中なら、迂闊に動くのはまずい」
二人が去った後の樋口家では、当主が一人、庭の三柱鳥居の前に立っていた。夕闇が深まる中、彼はポケットから一枚の古い写真を取り出した。若かりし頃の祖父と、三人の見知らぬ女性が並んで写っている、色褪せたモノクロ写真だった。
「……そろそろ、時が来たのかもしれんな」
彼はそう呟くと、写真を大切に懐にしまい、静かに社に向かって手を合わせた。
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その頃、多治見のアパートでは、三人の女性――西野千紗都、古田麻尋、そして年長の星野由紀子が、狭い居間に集まって、古びた地図を広げていた。
「樋口家の蔵、やっぱり簡単には入れそうにないわね」
星野由紀子が静かに言うと、西野千紗都が地図の上の一点を指でなぞった。
「でも、これで八百津、位山、大垣の三点が繋がった。あとは……」
「あとは、私たちが本当にあの家の血を引いているのか、それを確かめるだけ」
古田麻尋がぽつりと呟いた言葉に、部屋の空気が一瞬、張り詰めた。
窓の外には、多治見の静かな夜景が広がっている。三人の女性たちの表情には、殺し屋という噂とはまるで違う、どこか切実な色が浮かんでいた。




