「温泉の予言者たち」
可児から車で三十分ほどの山あいに、地元の者しか通わないような小さな温泉宿があった。
派手な看板もなく、日帰り入浴だけを細々と続けているその宿の湯船で、根古親司は週に一度、決まった顔ぶれと顔を合わせるのを楽しみにしていた。
「よお、親司さん。八百津の記念館、行ったんだって?」
湯気の向こうから声をかけてきたのは、カレー店を営むイエンガー・ムハンマドだった。
五十五になる今も、腹の底から響くような太い声は変わらない。
国籍こそインドだが、この土地に根を下ろして二十年以上、地元の言葉も訛りも完全に馴染んでいる。
「ああ、鏑木さんに手伝いを頼まれてな。まさかあんなことになるとは思わなかったよ」
「あんなこと、って?」
湯船の反対側から顔を出したのは、フェルナンド・村田だった。
関西弁交じりの喋り方で、占い師にしてユーチューバーという肩書を持つ、五十三歳の男である。
「杉原さんの手帳から、変な暗号みたいなのが出てきたんだよ。ヘブライ文字っぽいのが混じっててな」
その一言に、湯船の空気がわずかに変わった。ムハンマドが眉を上げ、少し身を乗り出す。
「ヘブライ文字か……。親司さん、それは、ちょっと気をつけたほうがええで」
「気をつける? 何をだよ」
ムハンマドは湯を両手ですくい、顔を洗うようにしながら、少し間を置いて口を開いた。
「わしはな、たまにこういう勘が働くんや。ここに来てからもう二十年やけど、何度か『これは危ない』ちゅう感じがして、それが当たったことがある。……最近、また同じ感じがしとる」
「またかいな。ムハンマドはん、この前も温泉の脱衣所で財布落とすの言い当てて、ロドリゲスはんのカメラがバッテリー切れになったやろ」
村田が茶化すように言うと、ムハンマドは苦笑いしながらも、真剣な目のままだった。
「今回は、規模が違う気がするんや。……親司さん、『三本足の門』に気をつけや」
「三本足の門?」
根古が聞き返したところに、脱衣所の方からバイヤー兼ユーチューバーのロドリゲス斎藤が、大きなタオルを腰に巻いたまま顔を出した。
「おいおい、ムハンマドさんの予言、また始まったんか。この前も『赤い車に気をつけろ』言うて、結局ただの消防車やったやないか」
「あれは前兆やったんや! ……とにかく親司さん、頭の隅に置いといてくれ。『三本足の門』や」
根古は生返事をしながら湯に浸かり直したが、内心では少し引っかかるものを感じていた。
三本足の門――そんな言葉に心当たりはなかったが、なぜかその晩、寝床に入ってからも耳の奥に残って離れなかった。
翌日、根古はふと思い立って、氏神様の社を守る松平秀麿のもとを訪ねた。
五十五歳になる神主で、根古とは若い頃からの付き合いだった。
「秀麿さん、ちょっと聞きたいことがあるんだが」
「珍しいな、親司が神社に顔を出すなんて。厄払いか?」
「いや、そういうのじゃなくてな。『三本足の門』って、聞いたことあるか?」
松平の表情が、わずかに硬くなった。
それまでの軽い調子が消え、しばらく黙り込んだあと、静かに口を開いた。
「……どこでその話を聞いた」
「温泉でムハンマドさんが言ってた。何かの予感がするとかで」
松平は社務所の奥から、古い巻物を一つ取り出してきた。丁寧に広げると、そこには手描きの図が記されている。
三本の柱が、正三角形を描くように立てられた奇妙な形の鳥居だった。
「これは、うちの家に代々伝わる図だ。……三柱鳥居という。三本の柱を組んで作る、珍しい形の鳥居でな。この地方にも、一つだけそういうものがあると聞いたことがある」
「どこにあるんだ」
「大垣の方だと聞いている。樋口という旧家が、代々管理しているとかいう話だ。……なぜ急にそんなことを聞く?」
根古は、八百津の記念館で見た手帳の切れ端のことを、かいつまんで話した。
ヘブライ文字らしき記号、慌てて書かれたような数字の羅列。
松平は話を聞き終えると、しばらく巻物を見つめたまま、何かを考え込んでいた。
「……親司。これは、あまり軽い気持ちで首を突っ込まん方がいいかもしれん」
「どういうことだ」
「うちの家に伝わる言い伝えでは、三柱鳥居というのは、三つの場所を結ぶ『しるべ』なんだそうだ。どこの三つか、ということまでは、わしも詳しくは知らんが……。もし本当に、杉原さんの手帳がその一つに関わるものだとしたら」
松平はそこで言葉を切り、巻物を丁寧に巻き戻した。
「まあ、ただの言い伝えかもしれん。だが、念のため、しばらくは深追いせんほうがいい。特に、あの三人組……」
「三人組?」
「江戸川くんの近所に越してきたという、女性たちだ。噂では物騒な話も聞く。……根拠のない噂だとは思うがな」
根古は、その名を聞いてもまだピンとくるものはなかったが、なんとなく胸の奥がざわついた。
同じ日の午後、可児警察署では、山本彩織と平圭の二人の巡査長が、八百津の記念館から寄せられた通報について話し合っていた。
「昨夜、収蔵庫に何者かが侵入しようとした形跡があったそうです」平が報告書を読み上げる。
「窓ガラスに傷、防犯カメラの映像には、黒っぽい服装の人物が一人」
「盗まれたものは?」
「それが……何も盗まれていないんです。ただ、例の手帳が保管されている棚の周辺だけ、荒らされたような跡があって」
山本彩織は腕を組み、窓の外を見やった。
「例の、ネットで話題になってるあの暗号の件と関係あるのかしらね」
「まさか、ただの噂話でしょう」
「……そうだといいけど」
彩織の声には、確信のない不安がにじんでいた。
同じ頃、署の別室では、県警から出向してきている警視正、安田達郎が、上層部からの一本の電話を受けていた。
「……はい。……はい、承知しました。可児署の件は、こちらで注視しておきます」
電話を切った安田の表情は、いつになく硬かった。
窓の外には、初夏の穏やかな空が広がっていたが、その空の下で、いくつもの糸がゆっくりと、しかし確実に、大垣の一点に向かって手繰り寄せられ始めていた。




