「記念館の忘れ物」
朝からよく晴れていた。木曽川沿いの風は初夏にしては涼しく、根古親司は軽トラの窓を半分開けて、助手席に丸まった黒猫のヤマトに話しかけていた。
「今日はちょっと遠出だぞ、ヤマト。八百津まで行ってくる」
ヤマトは片耳をぴくりと動かしただけで、また目を閉じた。
十歳になるこの猫は、根古が独り身になってからの十年をずっと共に過ごしてきた相棒で、言葉こそ返さないが、根古の声色の変化にはやけに敏感だった。
目的は特別なものではない。多治見の骨董市で知り合った男から「杉原記念館の展示替えを手伝ってくれる人を探している」と頼まれ、暇を持て余していた根古が軽い気持ちで引き受けただけのことだった。五十八にもなって、大工でも会計士でもない根古には、これといった肩書がない。強いて言えば「暇な人」というのが、この土地での通り名だった。
八百津町の杉原千畝記念館に着くと、館長らしき年配の女性と、若いスタッフが二人、収蔵庫の奥で段ボール箱を開けていた。
「根古さん、ちょうどよかった。奥の資料、ちょっと重いのがあって」
声をかけてきたのは、鏑木俊哉だった。大工の腕を見込まれて、展示台の補修に呼ばれていたらしい。六十を過ぎてもがっしりとした体つきで、木材を担ぐ姿は根古よりよほど若々しい。
「俊哉さんも来てたのか。この歳でよく身体が動くな」
「お前さんに言われたくないわ」
軽口を叩き合いながら、根古は収蔵庫に足を踏み入れた。
埃っぽい匂いと、古い紙の匂いが混じっている。
棚には杉原千畝にまつわる遺品や複製資料が整理され、まだラベルの貼られていない箱がいくつも積まれていた。
その中の一つ、古い革張りの手帳を収めた箱を開けた瞬間、根古の手が止まった。
表紙はすっかり色褪せているが、間違いなく杉原千畝本人の手による日誌の一部だった。
ページを慎重にめくっていくと、ある一枚だけ、他とは明らかに筆致の違う走り書きがあった。
数字の羅列と、見慣れない文字――おそらくヘブライ文字らしきものが、几帳面に、しかしどこか急いだ様子で書き込まれている。
「……これは何だ」
根古がつぶやくと、隣で作業していた若いスタッフの女性が覗き込んだ。
「わあ、これ、今まで見たことないページですね。館長、ちょっと来てください!」
館長が駆け寄り、老眼鏡越しに紙面をしげしげと眺める。
「……本当だわ。この手帳、寄贈された時点でリストにはなかったページよ。誰かが後から挟んだのかしら」
根古はその紙を、まるで熱いものに触れるように、そっと箱の中に戻した。
何か、触れてはいけないものに触れてしまったような、妙な感覚があった。
ヤマトが軽トラの中で、いつになく落ち着きなく鳴いていたことを、根古はふと思い出した。
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その日の夕方、記念館の駐車場には一台の軽自動車が停まり、中から一人の若い女性がスマートフォンを構えて降りてきた。
地元では名の知れたユーチューバー、鳴海美佑だった。二十四歳、地域の話題を軽妙な語り口で紹介する動画で、若干の再生数を稼いでいる。
「はいこんにちは、美佑チャンネルです! 今日は八百津の杉原千畝記念館に来ています。実はさっき、ちょっと面白い噂を聞いちゃいまして……」
鳴海は展示リニューアルの噂を、知人づてに聞きつけていた。館長からは詳細を聞き出せなかったものの、「未公開の手帳の切れ端が見つかったらしい」という話だけを掴み、そのままカメラに向かって声を弾ませる。
「杉原千畝さんといえば『命のビザ』で有名な方ですけど、今回見つかったのは、なんと暗号のような走り書きだったとかなかったとか……! これはもう、大発見じゃないですか!?」
半分は演出、半分は本気の好奇心で作られたその動画は、その晩のうちに投稿され、翌朝には地元ニュースサイトが小さく取り上げるまでになっていた。
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同じ頃、遠く離れたところで、いくつかのアンテナがこの小さな話題を拾い上げていた。
東京・港区のとあるビルの一室では、イスラエル大使館の情報幹部、一石誠二が、部下から差し出されたタブレットの画面を無言で見つめていた。
地元動画サイトの自動翻訳字幕には「暗号」「ヘブライ文字らしき記号」という単語が並んでいる。
「……これは、確認する価値がありそうだな」
一石は静かにそう呟くと、傍らに控えていたマーク・コーエンとベン・ダヴィドに目配せをした。二人は無言で頷き、部屋を出ていった。
一方、太平洋の向こう、あるいはもっと近くの某所からも、別の視線がこの動画に注がれていた。
米国NSAの幹部、ステーブ・ヘイブンスは、かつて大学の後輩として世話になった根古親司の名前が、記念館の関係者としてわずかに動画の背景に映り込んでいたことに気づき、思わず口元を緩めた。
「親司さんか。まさかこんな形で名前を見るとはな」
彼は部下の北村唯と遠藤成気を呼び、簡潔に指示を出した。
「岐阜の件、少し調べてくれ。念のためだ」
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根古自身は、そんな騒ぎが自分の与り知らぬところで動き始めていることなど、まるで知る由もなかった。その晩、可児の自宅に戻った根古は、縁側でヤマトを膝に乗せながら、ぼんやりとテレビの地方ニュースを眺めていた。
「なあヤマト。今日見つかったあの手帳のページ、お前、なんであんなに落ち着かなかったんだ?」
ヤマトは答える代わりに、根古の膝の上でくるりと丸くなった。庭先では、初夏の虫の声が控えめに響いている。
この静かな夜が、これから訪れる騒動の入り口に過ぎないことを、根古はまだ知らなかった。
そしてちょうどこの頃、江戸川勉が暮らす多治見の古いアパートの隣室に、東京から越してきたという三人の女性が、静かに荷物を運び込んでいた。
物音一つ立てず、挨拶も最低限で済ませる彼女たちの様子を、通りすがりの近隣住民が「ちょっと変わった人たちね」と噂する程度で、その日は何事もなく暮れていった。




