水落と古虎渓
【 翌々日 午前 御嵩町 水落観音 】
水落観音(御嵩町)
水落観音は山の中腹にあった。
岩壁に観音像が刻まれ、その前に小さな祠がある。地元の人間が昔からお参りに来る場所だ。
観光地ではないが、知る人ぞ知る静かな聖域だった。
根古は車を麓に停めて、山道を歩いた。体調は良かった。
昨日一日、ヤマトと引きこもって温泉に入り、よく眠った。
右手の熱が、朝から安定していた。
江戸川が隣を歩いた。安藤が後ろを歩いた。三人だけだった。
「YouTuber三人は?」と江戸川が言った。
「来てもらいません。今日は静かに動きたい」と根古は言った。
「村田さんが拗ねてましたよ」
「村田さんには後で話します」
山道を十五分ほど登ると、観音像の前に出た。
岩に刻まれた観音の顔は穏やかで、長い年月の風雨に削られながらも、確かにそこにあった。
根古は祠の前で手を合わせた。
それから、右手を観音像の方へかざした。
??静かだ。ここには古い祈りだけがある。悪いものはない。
だが祠の裏に回ったとき、根古の右手が反応した。
祠の裏の岩陰に、ビニール袋が隠されていた。
「江戸川さん」と根古が言った。
江戸川が手袋をはめて近づいた。袋の中を確認した。
「USB……それと、手書きのメモです」
「読めますか」
「……名前と、金額の数字が並んでいます。振込記録の写しのようです。
持田勇二の名前、それから??」
江戸川は顔を上げた。
「政治家の名前が三つ。県議と、国会議員が一人」
安藤が低く言った。
「エスメディカルの資金が、政界にまで流れていた」
「ここに隠したのは誰ですか」と江戸川が根古を見た。
根古は右手を岩に向けた。
??女の手の感触。慎重に、急いで、ここに置いた。祈りながら。
「女性です。若い。急いでいた。ここなら安全だと思って隠した」
「千歳楼から逃げた誰かか……あるいは」と安藤が言った。
「朱音さんかもしれません」と根古は言った。
「ロドリゲスさんが持っていたUSBとは別に、もう一部を作っていた可能性がある」
江戸川は袋を慎重に持った。
「垂井さんに持っていきます。今すぐ」
「その前に」と根古は言った。「古虎渓ハウスへ行きます」
「まだ行きますか」と安藤が言った。
「右手が、あそこを指しています」
【 同日 午後 古虎渓ハウス 】
?? 古虎渓ハウス
古虎渓ハウスは、山合いの廃墟だった。
かつては保養施設か何かだったらしく、複数の棟が連なっている。窓は板で塞がれ、庭は雑草に覆われていた。
地元では心霊スポットとして千歳楼と並んで名前が上がる場所だ。
三人で敷地の外から見た。
根古の右手が、強く熱くなった。
??誰かいる。生きている人間の気配だ。
「中に人がいます」と根古は言った。
「千歳楼と同じですか」と江戸川が言った。声が低くなった。
「違います。今度は??一人です。隠れている」
「隠れている、というのは閉じ込められているとは違う?」
「自分の意志で、ここにいる気配です」
安藤が敷地の周囲を確認した。
「車が一台、裏手の茂みに隠してあります。軽自動車。ナンバーを控えます」
江戸川が建物の入口に近づいた。板が一枚、外れていた。
最近外されたらしく、釘の跡が新しかった。
「根古さん、中に呼びかけてみてください」と江戸川は言った。
「あなたの声の方が、相手が警戒しないかもしれない」
根古は板の隙間に向かって、静かに言った。
「根古です。助けに来ました。出てきてください」
しばらく、何もなかった。
それから、建物の奥で足音がした。
ゆっくりと、近づいてくる。
板の隙間から、目が覗いた。女の目だった。
その目が、根古を見て??安堵したように細くなった。
板が内側から動いた。
出てきたのは、四十代の女性だった。コートが汚れ、頬がこけていた。
だが目は落ち着いていた。逃げていた人間の目ではなく、待っていた人間の目だった。
「根古さんですね」と女は言った。
「フェルナンド村田さんから、あなたのことを聞いていました。いつか来てくれると思っていた」
根古は女を見た。右手が静かだった。嘘はない。
「お名前は」
「持田……節子といいます」
江戸川が小さく息を飲んだ。
「持田勇二の……」
「妻です。別居して三年になります。夫が何をしているか、私は知っていた。でも動けなかった。子どもを人質に取られていたから」
女は根古を見た。
「水落観音に、証拠を隠しました。あなたが来るまでの間、ここで待っていました。子どもはもう、安全な場所に逃がした。だから??」
女は深く息を吸った。
「すべて話します。警察に、すべて話します」
根古は安藤を見た。安藤はすでにスマートフォンを手に持っていた。
「雨月さんに連絡します」と安藤は言った。
「お願いします」
根古は節子に言った。
「寒かったですね。車の中で待ちましょう」
「……はい」
女は初めて、少しだけ表情を崩した。
十二月の山の中に、冬の日差しがあった。
【 同日 夕方 茶店ラクカ 】
節子の話は、二時間かかった。
雨月と山本が来て、垂井が来て、節子は机の前に座り、すべてを話した。
持田勇二が何をしていたか。
いつから始まったか。どこに金が流れていたか。政治家の名前。警察幹部の名前。
水落観音のUSBの内容と、節子の証言が一致した。
夕方、垂井が言った。
「これで持田勇二の逮捕状が出ます。今夜中に」
節子はラクカのコーヒーを一口飲んで、目を閉じた。
太田がそっと、もう一杯注いだ。
鳴海が遅れて来た。
千歳楼の件を動画にするかどうか、ずっと考えていたらしく、目が赤かった。
「根古さん。今日、また何かありましたか」
「ありました」と根古は言った。「大きな話になりました」
「私はいなかった」
「今日は、いなくて良かった」
鳴海は少し考えてから言った。
「次は、呼んでください」
「体調のいい日に」
「それ、いつですか」
「明日かもしれないし、来週かもしれない」
鳴海はため息をついた。ロドリゲス斎藤が隣で笑った。
「根古さんのペースに慣れたら、大体のことは平気になるで」
「それは本当ですか」
「俺はなった」
村田が入ってきた。今日来なかったことを、まだ拗ねているらしかった。
「根古さん、水落観音、行きましたね」
「行きました」
「俺抜きで」
「あなたには後で話すと言いました」
「今が後でですか」
「そうです」
根古はコーヒーを飲みながら、今日のことを村田に話した。
節子のこと、USBのこと、政治家の名前。
村田はだんだん真剣な顔になった。
「……大きなったな、この話」
「あなたが千歳楼の情報を持ってきたから、ここまで来ました」
村田は少し黙った。それから照れたように笑った。
「俺、役に立ったんか」
「最初から役に立っていました」
村田はコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。
「根古さん。来年も、こういうことありますかね」
「あると思います」
「また呼んでくれますか」
「体調のいい日に」
「またそれか!」
ラクカの中で笑いが起きた。
根古だけが笑わなかったが、口の端が少し上がっていた。
太田はそれを見て、静かに微笑んだ。
第五話・終章
十二月の可児、大団円
― 可児奇譚 ―
【 翌朝 可児市内 】
持田勇二が逮捕されたのは、夜明け前だった。
名古屋市内のマンションに潜伏していたところを、愛知県警特別捜査班が確保した。
逮捕容疑は人身売買の幇助と収益の隠匿。節子の証言と、
水落観音のUSBと、ロドリゲス斎藤が預かっていたUSBの三つが証拠として揃った。
政治家への資金流出についても、県警が内偵を開始した。
国会議員の名前がニュースに出るのは、もう少し先になるだろう。
千歳楼から救出された四人の女性は、入院加療中だった。
通訳が手配され、それぞれの事情聴取が始まっていた。
十三号トンネルの斜面で倒れていた男??エスメディカルの社員、三枝という名前だった??は意識を取り戻し、事情聴取に応じ始めた。
コンテナの中身を見て怖くなり、逃げ出したと証言した。
可児の朝は静かだった。
【 同日 午前 茶店ラクカ 】
ラクカに全員が集まったのは、朝十時だった。
根古、太田、江戸川、安藤、雨月、山本、鳴海、ロドリゲス斎藤、村田、垂井。それから澪、茜、朱音。
星野と千紗都と麻尋。鏑木と長曾我部。松平神主と、イエンガーまでいた。
太田がテーブルを四つ繋げた。過去最大の人数だった。
「今日はケーキも出します」と太田は言った。「二回目ですが」
「奮発ですね」と長曾我部が言った。
「たまには」
持田逮捕のニュースが、テレビから流れていた。
誰かが音を小さくした。みんな、もう十分知っていた。
雨月が根古の隣に座った。
「根古さん。今回の件、正式に礼を言わせてください」
「礼は結構です」
「受け取ってください。こちらの気が済まない」
根古はしばらく考えてから言った。
「コーヒーをもう一杯、おごってください」
「……それだけですか」
「それだけです」
山本が隣で笑った。雨月はため息をついてから、太田に声をかけた。
「すみません、根古さんにコーヒーをもう一杯」
「はい」と太田は笑顔で答えた。
【 同日 午前 ラクカ 続き 】
鳴海がスマートフォンを取り出した。
「今日、動画を上げます。千歳楼と十三号トンネルの件??被害者の方は映さず、状況だけ。それと今回の一連の流れを、地元の視点でまとめます」
「タイトルは」とロドリゲス斎藤が聞いた。
「『可児で起きていたこと』にします。派手なタイトルはつけません」
「ええな」とロドリゲス斎藤は言った。「俺のチャンネルでも拡散する」
「村田さんのチャンネルでも」と村田が言った。
「占い師が地元の事件を語る、ってコンテンツになるかもしれん」
「それはやめてください」と根古が言った。
「なんで!」
「目立ちすぎます」
「地元の安全のために広めるのは意義があると思うんやけど」
「鳴海さんの動画で十分です」
鳴海がちょっと誇らしそうな顔をした。
江戸川が手帳を開いた。
「今回の依頼書はありませんでした。でも??報告書は書きました」
「何と書きましたか」と根古が聞いた。
「『心霊コラボより本物の方が怖い。ただし、本物の方が解決できる』」
ロドリゲス斎藤が吹き出した。村田がうんうんと頷いた。澪が手を叩いた。
「それ、名言ですよ江戸川さん」と澪が言った。
「普通のことを言っただけです」
安藤がコーヒーを飲みながら、静かに言った。
「根古さん。今回、右手はよく働きましたか」
「体調が良かったので」
「体調管理が大事ですね」
「温泉のおかげです」
ロドリゲス斎藤が身を乗り出した。
「根古さん、今度温泉一緒に行きましょう。俺も最近行けてない」
「行きましょう」と根古は即答した。
「え、根古さんが即答した」と澪が驚いた。
「温泉は別です」
【 同日 昼 ラクカ外 路地 】
食事が終わって、人が少しずつ散り始めた頃、根古は一人で路地に出た。
十二月の空は高く、冷たく、青かった。可児川の方から風が来た。
村田が後から来た。
「根古さん。ちょっとええか」
「何ですか」
「俺、来年もここに来るつもりや。可児、気に入ってもうた」
「それはあなたの自由です」
「また何かあったとき、俺に声をかけてくれるか」
根古はしばらく空を見ていた。
「村田さん。あなたは最初の事件から、ずっと糸を繋いでいましたね」
「俺がですか」
「朱音さんをロドリゲスさんに繋いだ。安藤さんを私に繋いだ。節子さんも、あなたを知っていた。江戸川くんにも私の名前を教えた」
村田は少し照れたように頭を掻いた。
「俺、そんなに大したことしてへんで。ただ、困ってる人がおったら知ってる人を紹介するだけや」
「それが、一番大事なことです」と根古は言った。
村田は黙った。珍しかった。
「……根古さんにそう言われると、ほんまに照れるな」
「事実を言っています」
根古は路地を戻り始めた。
村田が後ろから言った。
「根古さん。来年も、よろしゅう頼みます」
根古は振り返らずに言った。
「体調のいい日に」
「もうそれしか言わんな!」
村田の声が、冬の路地に響いた。
【 同日 夕方 根古のアパート 】
帰宅すると、ヤマトが玄関で待っていた。
根古はヤマトを抱き上げた。重い。温かい。
窓際に座った。十二月の夕陽が、可児の山の向こうに沈んでいく。
空が橙から紫に変わっていく。
守護霊たちが、静かだった。
右肩の古い霊も、左側の女の霊も、今夜は何も言わなかった。ただ、穏やかにそこにいた。
??今年は、色々あった。
鬼が島の遺体から始まった。朱音が死んでいなかった。エスメディカルが潰れた。
千歳楼で四人が救われた。持田勇二が逮捕された。
そしてラクカに、人が集まるようになった。
??もともと太田さんのコーヒー目当てに来ていたが、今は少し違う理由でみんな来ている気がする。
根古にはよくわからなかった。ただ、悪いことではなかった。
ヤマトが根古の膝の上で丸くなった。
スマートフォンに、ロドリゲス斎藤からメッセージが来た。
??「温泉、今週末でどうですか。村田さんも来るって言ってます」
根古は少し考えてから返信した。
??「体調が良ければ」
すぐに返信が来た。
??「それ、行くってことですよね」
根古はスマートフォンを置いた。
??まあ、行くかもしれない。
ヤマトが一声、にゃあと鳴いた。
根古は黒猫の頭を撫でながら、夕陽が完全に沈むのを、静かに見ていた。
【 後日談 】
持田勇二は起訴された。裁判は翌年の春まで続いた。
政治家二名が議員辞職し、元警察幹部一名が収賄で逮捕された。
千歳楼から救出された四人の女性は、それぞれの国への帰国支援を受けた。
うち一人は日本に残ることを選んだ。
節子は子どもと可児市内に部屋を借りた。垂井美智子が離婚の手続きを引き受けた。
鳴海美佑の動画「可児で起きていたこと」は、公開三日で五十万再生を超えた。
コメント欄には「地元に住んでいて知らなかった」という声が溢れた。
彼女はその後も可児だけを撮り続けた。
ロドリゲス斎藤は春に「可児の特集」動画を公開した。
猫神社の猫、ラクカのコーヒー、可児川の朝霧。百二十万再生になった。
フェルナンド村田は年明けに可児に戻ってきた。
「占い師が可児に移住」という動画を撮った。登録者が二万増えた。
江戸川勉の事務所に依頼が増えた。
安藤修が週三日、手伝いに来るようになった。ふたりは相変わらず、夜の川沿いを時々歩いた。
星野由紀子たちは江戸川の隣に住み続けた。
江戸川は朝になると三人分のコーヒーを買ってくることがあった。本人は認めなかった。
根古親司は今日も引きこもっている。ヤマトは相変わらず重い。
温泉には週三回行く。体調のいい日だけ、少し特別なことができる。
ラクカには今日もコーヒーの香りがする。太田豊は今日も同じ顔でコーヒーを出す。それが、この街の変わらないものだった。




