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可児奇譚  作者: 賀茂丈晴
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猫神社の四人

【 十二月 午後 玉野御嶽神社 】

?? 玉野御嶽神社(通称・猫神社)

猫がいた。


鳥居の前に一匹、拝殿の階段に二匹、社務所の軒下に三匹。

冬の午後の日差しの中で、それぞれ好き勝手に丸くなっている。

玉野御嶽神社??地元では「猫神社」と呼ばれている??は、今日も猫の楽園だった。


鳴海美佑はスマートフォンを三脚にセットしながら、小声で実況していた。


「猫神社です。登録者の皆さんからリクエストが多かったので来ました。猫が何匹いるか数えながら見てください??」


そこへ、境内の奥からロドリゲス斎藤が現れた。五十二歳、褐色の肌、白髪まじりの無精髭。

大きなカメラを首からぶら下げている。


「美佑ちゃん、奥にもおったで。茶トラが三匹。あっちの方が映える」


「ロドさん、カメラ向けると逃げるんですよ猫は」


「俺のカメラには慣れとる。長年の信頼関係や」



ロドリゲス斎藤は可児に来てから一ヶ月、すっかり地元に溶け込んでいた。

バイヤー兼YouTuberという肩書きで、地元の食材や古道具を探しながら動画を撮り続けている。

登録者数は全国区で十二万。鳴海の三万とは桁が違うが、本人は一切気にしていない。


石段の下から、フェルナンド村田が上がってきた。五十三歳、関西弁、派手な柄シャツ。

冬なのに薄着だった。


「寒い寒い。なんで十二月に野外ロケやねん」


「村田さんが来てって言ったんじゃないですか」と鳴海が言った。


「俺はラクカで根古さんと話しながら撮るつもりやったんや。屋外やとは聞いてへん」


「猫神社って言いましたよ」


「猫神社が屋外とは限らんやろ」


ロドリゲス斎藤が呆れた顔で村田を見た。


「神社が屋内のわけないやろ」


「そうか、そやな。ははは」


石段の端に江戸川勉が座って、手帳に何かを書いていた。

二十五歳の私立探偵が、なぜ猫神社にいるかというと??理由は単純で、村田に「面白い話があるから来い」と言われたからだ。


「村田さん。面白い話というのは」と江戸川が言った。


「まあ待ちや。全員揃ってから話す」


「全員って、まだ来るんですか」


村田は境内の入口を指した。


鳥居の外に、軽自動車が一台停まった。


根古親司が降りてきた。

コートのポケットに手を入れて、境内を見回した。

猫が一匹、根古の足元に寄ってきた。根古はしゃがんで猫の頭を撫でた。


「根古さん、来た!」と鳴海がカメラを向けた。


「撮らないでください」


「もう撮りました」


根古はため息をついて、村田の隣に立った。


「何の話ですか、村田さん」


「実はな??」


村田は声を低くした。全員が自然と村田を囲んだ。


「千歳楼、知ってるか」


【 同日 夕方 茶店ラクカ 】

村田が話したのは、こういうことだった。


廃墟ホテル「千歳楼」??かつては温泉旅館として賑わったが、二十年前に閉業した。

今は廃墟マニアや心霊スポット目的の人間が時折忍び込む、地元では有名な場所だ。


その千歳楼に、最近不審な人物の出入りがあるという。

地元の老人から村田が聞いた話だった。


「夜中に車が来て、荷物を運び込んでるらしいんや。何度か目撃されてる」


「警察には」と江戸川が言った。


「通報した人もいるけど、廃墟への不法侵入は民事の話になるからって、すぐ動かんらしい。

そもそも所有者が行方不明で、土地の権利関係がぐちゃぐちゃになってるらしいし」


「荷物というのは」と根古が言った。


「わからん。でかいコンテナみたいなもの、って言うてた」


根古は右手を膝の上に置いた。じんわりと熱くなっていた。


??エスメディカルの件が片付いてから、守護霊たちがまたざわめき始めていた。

何かが、近くにある。


「まず下調べが必要ですね」と江戸川が手帳を開いた。

「昼間に外観を確認して、夜の人の動きを把握する」


「私が行きます」と鳴海が手を挙げた。

「廃墟探索、チャンネルでやったことあります。昼間の撮影なら不自然じゃない」


「心霊スポット扱いで行けば、地元YouTuberとして普通ですよね」とロドリゲス斎藤が言った。

「俺も一緒に行く。二人の方が自然や」


「ロドさんは目立ちますよ」


「それが逆に自然や。外国人っぽい顔のバイヤーが珍スポット訪問、ってコンテンツとして成立する」


鳴海は少し考えてから頷いた。


「村田さんは?」と江戸川が聞いた。


「俺は占い師として現地で霊視する動画を撮る。そういうキャラやから」


「霊視は本当にできるんですか」


「できへんこともない」


根古が静かに言った。


「村田さんの勘は当たります。それは本当です」


村田が珍しく照れた顔をした。


「根古さんにそう言われると、照れるな」


「事実を言っています」


江戸川は手帳に書いた。


??チーム編成:鳴海(現地映像)、ロドリゲス(陽動・撮影)、村田(霊視・情報収集)、江戸川(調査・記録)、根古(能力・判断)。



五人。妙な組み合わせだが、それぞれ役割がはっきりしていた。


「まず千歳楼から始めます」と江戸川は言った。

「他の場所??水落観音、古虎渓ハウス、十三号トンネルも、何か繋がりがあるかもしれない」


「繋がりって」と鳴海が言った。


「荷物を運ぶには、複数の拠点が要ります。廃墟や人気のない場所が、その候補になりやすい」


場が静まった。


「……探偵さんって、怖いことさらっと言いますね」と鳴海が言った。


「事実の整理です」


根古はコーヒーを一口飲んだ。右手の熱が、まだある。


??これは、単純な不法侵入ではない。守護霊たちのざわめき方が、そう言っている。


窓の外で、十二月の風が吹いた。

【 翌日 午前 千歳楼 】

?? 千歳楼(廃旅館)

千歳楼は川の斜面に建っていた。


かつては三階建ての温泉旅館で、玉野川(庄内川)の眺めが売りだったという。今は外壁が崩れ、窓ガラスはほぼ割れ、玄関のアーチだけが往時の面影を残していた。


鳴海はカメラを回しながら歩いた。

ロドリゲス斎藤がその横で、大げさに驚いた顔をしてみせた。コンテンツ的には最高の廃墟だった。


だが鳴海は、別のものを見ていた。


建物の裏手に、タイヤの跡があった。最近のものだ。泥の上にくっきり残っている。


「ロドさん、さりげなくあっちを撮ってください」と鳴海は小声で言った。


「了解。自然な感じで行くわ」


ロドリゲス斎藤は「廃墟の全景を撮る」ふりをしながら、タイヤ跡を数秒映した。


そのとき、建物の中から音がした。


金属が床に落ちるような音。一度だけ。


鳴海とロドリゲス斎藤は目を見合わせた。


鳴海はカメラを回したまま、村田に電話した。


「村田さん。中に誰かいます」


「わかった。江戸川くんと根古さんに連絡する。その場から離れたらあかんで。ただし、中には入るな」


「入りませんよ!」


鳴海は電話を切って、カメラを建物の入口に向けたまま、一歩も動かなかった。


ロドリゲス斎藤が小声で言った。


「美佑ちゃん、怖くないか」


「怖いです。でも……」


鳴海はカメラのレンズ越しに、建物を見た。


「撮れてます」


ロドリゲス斎藤は笑った。小さく、でも本当に楽しそうに。


「ええ子や、君は」


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第三話

千歳楼の中身

― 可児奇譚 ―


【 深夜 茶店ラクカ 】

太田のコーヒーは、深夜でも本物だった。


五人がカウンターとテーブルに散らばった。誰も最初はしばらく何も言わなかった。

トンネルの冷気がまだ体に残っていた。


鳴海がコーヒーを両手で包んで、ゆっくり言った。


「コンテナの中に、何があると思いますか」


「わかりません」と根古は言った。「ただ??あの男が見て、逃げ出した。体一つで、冬の夜中に」


「見てはいけないものだった」と江戸川が言った。手帳を開いて、ペンを走らせていた。

「エスメディカルの関係者が、千歳楼を倉庫代わりに使っていた。榊原の件は片付いたが、組織の末端はまだ動いていたということか」


「持田勇二は逮捕されていない」と根古が言った。「会社は家宅捜索されたが、本人はまだ任意同行の段階だ」


「逃げる前に、何かを動かそうとした」と江戸川は続けた。「証拠隠滅か、資産の移動か」


村田が急に立ち上がった。


「根古さん。さっきのサイコメトリー、もう少し細かく言えるか。コンテナの中、何が見えた」


「暗い部屋にコンテナが複数。男が何かを見て顔が青ざめた。それだけです」


「コンテナの大きさは」


「……人が入るくらいの大きさでした」


場が、静まり返った。


太田がカウンターの中で手を止めた。


鳴海が息を飲んだ。


「人……」


「エスメディカルは臓器売買の疑いがあった」と江戸川が静かに言った。

「臓器だけではないかもしれない。人身売買の可能性がある」


誰も返事をしなかった。


根古は右手を膝の上で握った。

??守護霊たちが、強く押してきた。右肩の古い霊が、はっきりと言った。「生きている」と。


「コンテナの中の人は、生きています」と根古は言った。「今夜中に動かなければならない」


江戸川はすでに立ち上がっていた。


「雨月さんに電話します。令状を待っている時間はない」


【 同夜 千歳楼 】

?? 千歳楼(廃旅館)

可児署の雨月と山本が来たのは、一時間後だった。


令状は間に合わなかったが、雨月は緊急性を判断して動いた。山本と二人、制服ではなく私服で来た。


「根古さんの言うことを信じます」と雨月は言った。「ただし??もし何もなければ、私の責任です」


「何かあります」と根古は言った。「確信しています」


千歳楼の裏手から入った。タイヤ跡をライトで確認しながら、崩れかけた廊下を進んだ。


江戸川と安藤??安藤は雨月から連絡を受けて急遽合流していた??が先頭を歩いた。

安藤の大きな体が、廃墟の暗がりで頼もしかった。


地下への階段を見つけたのは山本だった。


「ここです」と山本が懐中電灯で照らした。「段ボールで隠してありました」


全員が階段を降りた。


地下室があった。かつての旅館の貯蔵庫らしかった。石造りの壁に、六つのコンテナが並んでいた。


根古は右手を前に出した。


??熱い。強い。生きている人間の気配だ。


「三番目と五番目です」と根古は言った。


安藤がコンテナの鍵を確認した。南京錠だった。


「壊します」と安藤は言った。


「やってください」と雨月が答えた。


安藤が持参した工具で南京錠を外した。三番目のコンテナのドアを開けた。


中に、人がいた。


若い女性が二人、毛布に包まれて座っていた。目が光に反応した。生きていた。


「大丈夫ですか」と山本が中に入った。穏やかな声だった。「警察です。助けに来ました」


女性の一人が、かすれた声で何かを言った。日本語ではなかった。


「東南アジア系の言語です」と江戸川が言った。「通訳が必要です」


五番目のコンテナにも同様に若い女性が二人いた。計四人。全員、衰弱していたが生きていた。


雨月がすでに電話していた。救急と、県警の特別班への連絡。


根古は地下室の入口に立ったまま、動かなかった。


??守護霊たちが、今夜は静かだった。ざわめきが、止まっていた。やるべきことをやった、という静けさだった。


鳴海が江戸川の隣に来た。


「これ……撮っていいですか」と鳴海は言った。


江戸川は少し考えてから言った。


「被害者の方が映らないように。建物と状況だけ。それなら、後で証拠にもなります」


鳴海はカメラを構えた。手が震えていた。それでも、レンズは動かなかった。


ロドリゲス斎藤が鳴海の後ろに立った。


「撮れ。これは伝えなあかん」


村田は地下室の壁際で静かに手を合わせていた。


【 翌朝 茶店ラクカ 】

夜明けが来た。


四人の女性は病院に搬送された。千歳楼は県警が封鎖した。持田勇二への逮捕状が、朝一番で請求された。


ラクカに全員が戻った。今度は太田がトーストも出した。誰も頼んでいなかったが、誰も断らなかった。


鳴海はトーストを一口食べてから、根古を見た。


「根古さん。私、これをどう動画にすればいいかわかりません」


「動画にしなくていい」と根古は言った。


「でも、伝えなければいけないことがあると思います。人身売買がこの街で起きていたということを」


「それは警察と報道が伝えます。あなたは??」


根古はしばらく考えてから続けた。


「昨夜、あなたは配信を止めた。撮れているのに上げなかった。それが正しかった。

その判断ができる人間が、地元で情報を出し続けることに意味があります」


鳴海は下を向いた。


「……ありがとうございます」


ロドリゲス斎藤がコーヒーを飲みながら言った。


「俺の動画は、今回は一本も上げへん。でも??春になったら可児の特集を作る。ええ街やから」


「それは楽しみですね」と太田が言った。


「俺も出る」と村田が即座に言った。


「村田さんはいつでも出ていいです」とロドリゲス斎藤は笑った。


江戸川が手帳を閉じた。


「今回の依頼書はないですね」と江戸川は言った。「誰に頼まれたわけでもない」


「探偵は依頼がないと動けないんですか」と根古が言った。


「……動けます。今夜、それがわかりました」


根古は窓の外を見た。十二月の朝が、可児の山の向こうから来ていた。


??守護霊たちが、またゆっくりとざわめき始めていた。まだ終わっていない。

持田勇二はまだ捕まっていない。水落観音と古虎渓ハウスは、まだ確認できていない。


??でも今日は、ここまでだ。


ヤマトのことを思い出した。昨夜から一人にしていた。


「帰ります」と根古は言った。「猫が待っています」


「根古さん、水落観音と古虎渓ハウスはどうしますか」と江戸川が言った。


「続きは、また次に」


「次、というのはいつですか」


「体調のいい日に」


村田がけらけらと笑った。


「根古さんらしいな」


根古は上着を着て、ラクカを出た。


十二月の朝の空気が、頬に冷たかった。


軽自動車に乗り込んで、エンジンをかけた。


??水落観音。古虎渓ハウス。まだ何かある。


でも今日は、ヤマトに会いに帰る。


それだけで、十分だった。



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第四話

水落と古虎渓

― 可児奇譚 ―


【 翌々日 午前 御嵩町 水落観音 】

?? 水落観音(御嵩町)

水落観音は山の中腹にあった。


岩壁に観音像が刻まれ、その前に小さな祠がある。

地元の人間が昔からお参りに来る場所だ。

観光地ではないが、知る人ぞ知る静かな聖域だった。


根古は車を麓に停めて、山道を歩いた。体調は良かった。

昨日一日、ヤマトと引きこもって温泉に入り、よく眠った。

右手の熱が、朝から安定していた。


江戸川が隣を歩いた。安藤が後ろを歩いた。三人だけだった。


「YouTuber三人は?」と江戸川が言った。


「来てもらいません。今日は静かに動きたい」と根古は言った。


「村田さんが拗ねてましたよ」


「村田さんには後で話します」


山道を十五分ほど登ると、観音像の前に出た。

岩に刻まれた観音の顔は穏やかで、長い年月の風雨に削られながらも、確かにそこにあった。


根古は祠の前で手を合わせた。


それから、右手を観音像の方へかざした。


??静かだ。ここには古い祈りだけがある。悪いものはない。


だが祠の裏に回ったとき、根古の右手が反応した。


祠の裏の岩陰に、ビニール袋が隠されていた。


「江戸川さん」と根古が言った。


江戸川が手袋をはめて近づいた。袋の中を確認した。


「USB……それと、手書きのメモです」


「読めますか」


「……名前と、金額の数字が並んでいます。振込記録の写しのようです。

持田勇二の名前、それから??」


江戸川は顔を上げた。


「政治家の名前が三つ。県議と、国会議員が一人」


安藤が低く言った。


「エスメディカルの資金が、政界にまで流れていた」


「ここに隠したのは誰ですか」と江戸川が根古を見た。


根古は右手を岩に向けた。


??女の手の感触。慎重に、急いで、ここに置いた。祈りながら。


「女性です。若い。急いでいた。ここなら安全だと思って隠した」


「千歳楼から逃げた誰かか……あるいは」と安藤が言った。


「朱音さんかもしれません」と根古は言った。

「ロドリゲスさんが持っていたUSBとは別に、もう一部を作っていた可能性がある」


江戸川は袋を慎重に持った。


「垂井さんに持っていきます。今すぐ」


「その前に」と根古は言った。「古虎渓ハウスへ行きます」


「まだ行きますか」と安藤が言った。


「右手が、あそこを指しています」


【 同日 午後 古虎渓ハウス 】

?? 古虎渓ハウス

古虎渓ハウスは、山合いの廃墟だった。


かつては保養施設か何かだったらしく、複数の棟が連なっている。

窓は板で塞がれ、庭は雑草に覆われていた。

地元では心霊スポットとして千歳楼と並んで名前が上がる場所だ。


三人で敷地の外から見た。


根古の右手が、強く熱くなった。


??誰かいる。生きている人間の気配だ。


「中に人がいます」と根古は言った。


「千歳楼と同じですか」と江戸川が言った。声が低くなった。


「違います。今度は??一人です。隠れている」


「隠れている、というのは閉じ込められているとは違う?」


「自分の意志で、ここにいる気配です」


安藤が敷地の周囲を確認した。


「車が一台、裏手の茂みに隠してあります。軽自動車。ナンバーを控えます」


江戸川が建物の入口に近づいた。板が一枚、外れていた。

最近外されたらしく、釘の跡が新しかった。


「根古さん、中に呼びかけてみてください」と江戸川は言った。

「あなたの声の方が、相手が警戒しないかもしれない」


根古は板の隙間に向かって、静かに言った。


「根古です。助けに来ました。出てきてください」


しばらく、何もなかった。


それから、建物の奥で足音がした。


ゆっくりと、近づいてくる。


板の隙間から、目が覗いた。女の目だった。


その目が、根古を見て??安堵したように細くなった。


板が内側から動いた。


出てきたのは、四十代の女性だった。コートが汚れ、頬がこけていた。

だが目は落ち着いていた。逃げていた人間の目ではなく、待っていた人間の目だった。


「根古さんですね」と女は言った。

「フェルナンド村田さんから、あなたのことを聞いていました。いつか来てくれると思っていた」


根古は女を見た。右手が静かだった。嘘はない。


「お名前は」


「持田……節子といいます」


江戸川が小さく息を飲んだ。


「持田勇二の……」


「妻です。別居して三年になります。夫が何をしているか、私は知っていた。でも動けなかった。子どもを人質に取られていたから」


女は根古を見た。


「水落観音に、証拠を隠しました。あなたが来るまでの間、ここで待っていました。子どもはもう、安全な場所に逃がした。だから??」


女は深く息を吸った。

「すべて話します。警察に、すべて話します」


根古は安藤を見た。安藤はすでにスマートフォンを手に持っていた。


「雨月さんに連絡します」と安藤は言った。


「お願いします」


根古は節子に言った。


「寒かったですね。車の中で待ちましょう」


「……はい」


女は初めて、少しだけ表情を崩した。


十二月の山の中に、冬の日差しがあった。


【 同日 夕方 茶店ラクカ 】

節子の話は、二時間かかった。


雨月と山本が来て、垂井が来て、節子は机の前に座り、すべてを話した。

持田勇二が何をしていたか。いつから始まったか。どこに金が流れていたか。

政治家の名前。警察幹部の名前。


水落観音のUSBの内容と、節子の証言が一致した。


夕方、垂井が言った。


「これで持田勇二の逮捕状が出ます。今夜中に」


節子はラクカのコーヒーを一口飲んで、目を閉じた。


太田がそっと、もう一杯注いだ。


鳴海が遅れて来た。千歳楼の件を動画にするかどうか、ずっと考えていたらしく、目が赤かった。


「根古さん。今日、また何かありましたか」


「ありました」と根古は言った。「大きな話になりました」


「私はいなかった」


「今日は、いなくて良かった」


鳴海は少し考えてから言った。


「次は、呼んでください」


「体調のいい日に」


「それ、いつですか」


「明日かもしれないし、来週かもしれない」


鳴海はため息をついた。ロドリゲス斎藤が隣で笑った。


「根古さんのペースに慣れたら、大体のことは平気になるで」


「それは本当ですか」


「俺はなった」


村田が入ってきた。今日来なかったことを、まだ拗ねているらしかった。


「根古さん、水落観音、行きましたね」


「行きました」


「俺抜きで」


「あなたには後で話すと言いました」


「今が後でですか」


「そうです」


根古はコーヒーを飲みながら、今日のことを村田に話した。

節子のこと、USBのこと、政治家の名前。


村田はだんだん真剣な顔になった。


「……大きなったな、この話」


「あなたが千歳楼の情報を持ってきたから、ここまで来ました」


村田は少し黙った。それから照れたように笑った。


「俺、役に立ったんか」


「最初から役に立っていました」


村田はコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。


「根古さん。来年も、こういうことありますかね」


「あると思います」


「また呼んでくれますか」


「体調のいい日に」


「またそれか!」


ラクカの中で笑いが起きた。


根古だけが笑わなかったが、口の端が少し上がっていた。


太田はそれを見て、静かに微笑んだ。



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