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可児奇譚  作者: 賀茂丈晴
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生きている

【 翌朝 午前六時 根古のアパート 】

スマートフォンが鳴ったのは夜明け前だった。


イエンガーからだった。根古は布団の中で画面を見て、すぐに出た。


「根古さん、夜分に申し訳ありません。楓先生から連絡がありまして」


イエンガーが話した内容を聞きながら、根古は布団から出た。

ヤマトが迷惑そうに目を開けた。


「右手首のほくろ」と根古は繰り返した。


「はい。楓先生もすぐには言えなかったようですが、気になって連絡してくださいました」


「その女性は今、どこにいますか」


「診察を終えてすぐ出て行ったそうです。

行き先はわからない。ただ??楓先生が、車のナンバーを控えていました」


根古は窓を開けた。十一月の朝の冷気が入ってきた。


「茜さんに話す前に、確認が要ります。人違いかもしれない」


「おっしゃる通りです」


「雨月さんに連絡します。ナンバーを照会してもらえるか聞いてみます」


電話を切って、根古はしばらく立ったままでいた。


??鬼が島で遺体が上がった。身元は藤原朱音と確認された。

だが??右手首のほくろ。茜が言っていた特徴と一致する。


??死んだはずの人間が、生きているのか。それとも、まったくの別人か。


守護霊たちが一斉にざわめいた。右肩の古い霊が、強く押してきた。


??「違う」


初めて言葉になった。はっきりと。


??鬼が島で死んだのは、朱音ではない。



【 同日 午前八時 茶店ラクカ 】

根古が着いたとき、太田はすでにコーヒーを淹れていた。


根古は茜に話す前に太田に話した。太田は黙って聞いた。それから静かに言った。


「茜さんに話さないわけにはいかないですね」


「確証がない」


「でも希望がある。それを黙って持っているのは、あなたらしくない」


根古は答えなかった。太田はコーヒーを根古の前に置いた。


三十分後、茜が澪と一緒に来た。

二週間でこのふたりはすっかり行動を共にするようになっていた。


根古は話した。すべてではなく、事実だけを。楓先生の診察、右手首のほくろ、ナンバーの照会待ち。


茜は根古の話を聞きながら、一度も表情を変えなかった。


根古が話し終えると、茜はコーヒーカップを両手で包んで言った。


「鬼が島で死んだのは、姉じゃないかもしれないということですか」


「可能性の話です。まだわからない」


「でも根古さんは、そう思っている」


根古は少し間を置いた。


「守護霊が、そう言っています」


澪が息を飲んだ。茜はまだ動かなかった。


それから、茜の目に薄く光が浮かんだ。泣くのかと根古は思ったが、茜は泣かなかった。ただ、深く息を吸った。


「……どこにいると思いますか、姉は」


「まだわかりません。でも、昨夜この市内にいた」



【 同日 午前十時 茶店ラクカ 】

全員が集まるまで一時間かからなかった。


雨月がナンバー照会の結果を持ってきた。山本も一緒だった。


「車は可児市内のレンタカーです。昨日の昼に借りられた。免許証の名前は??」


雨月は手帳を見た。


「藤原朱音」


ラクカが静まり返った。


茜が立ち上がりかけた。澪がその腕を支えた。


「死亡確認された人物の免許証が使われた」と長曾我部が眼鏡を直しながら言った。「つまり??」


「鬼が島で死んだのは別人です」と根古は言った。

「そしてその人物の身元を、朱音さんのものとして処理された。意図的に」


「身元確認はDNAではなく、所持品と外見での照合でした」と雨月が認めた。声が低かった。「行方不明届の情報と一致したから、それで確定した。私たちのミスです」


「いや」と根古は言った。「誰かが意図的に、そう見えるように仕組んだんです」


星野が静かに立ち上がった。


「朱音は生きている」


言葉ではなく、確信だった。


「だとすれば、なぜ姿を隠している」と江戸川が言った。「なぜ妹に連絡しない」


「茜さんを守るためでしょう」と根古は言った。

「自分が狙われているなら、妹に近づけない。でも??昨夜、楓先生のところに来た。

怪我をしていた。限界に近いのかもしれない」


茜が静かに言った。


「見つけてください。今度こそ」


【 同日 午後 各所 】

ラクカが動き始めた。


鳴海美佑は視聴者ネットワークに、怪我をした二十代女性の目撃情報を??顔写真なしで、そっと流した。


江戸川はレンタカー会社に行き、貸し出し時の状況を聞いた。

朱音らしき女は一人で来た。左腕に包帯を巻いていた。支払いは現金だった。


ロドリゲス斎藤は可児市内のホテルや民宿に、知り合いのふりをして電話をかけ始めた。


根古は一人で楓幸恵の診療所へ行った。



【 同日 午後 楓診療所 】

楓幸恵は三十八歳、細面で眼鏡をかけている。

患者への言葉は少なく、代わりに手が早い。


「昨夜の女性です」と楓はカルテを見ながら言った。

「左腕に裂傷。縫合しました。右手首のほくろは、直径五ミリほどの楕円形。本人は名前を言わなかった。ただ??」


楓は少し考えてから続けた。


「帰り際に一度だけ振り返って、こう言いました。『根古さんに、川の近くにいると伝えてください』と」


根古は動かなかった。


「私の名前を言いましたか」


「はい。根古さんを知っているようでした」


??川の近く。可児川。鬼が島から下流か、あるいは上流か。


根古は右手を開いた。掌が熱かった。


??彼女は、私に来てほしかった。でも自分からは動けない。

誰かに監視されているか、あるいは誰かを巻き込むことを恐れている。


「ありがとうございました」と根古は立ち上がった。


「根古さん」と楓が呼び止めた。

「無事に見つけてあげてください。あの子、相当無理をしていました。体が限界です」


【 同日 夕方 可児川沿い 】

根古は一人で川沿いを歩いた。


十一月の川は水量が少なく、石が多く露出していた。

葦は枯れかけていた。鬼が島より上流、人気の少ない河川敷を根古はゆっくりと歩いた。


右手が熱い。近い。


草の茂みの向こうに、古い東屋があった。屋根が半分崩れている。

誰も使っていないような場所だった。


根古は足を止めた。


??いる。


東屋に近づいた。中に人影があった。膝を抱えて座っている女。コートを頭からかぶっていた。


「藤原朱音さん」と根古は言った。静かに、はっきりと。


コートの中で、女がゆっくりと顔を上げた。


二十三歳。目の下に隈、頬がこけていた。左腕に白い包帯。でも目は生きていた。


女は根古を見て、それから小さく笑った。


「……遅かったですね」


「すみません」と根古は言った。「妹が待っています」


朱音の目が、かすかに揺れた。


十一月の川が、静かに流れていた。

 

朱音は可児市内に部屋を借りた。茜と近くに住むためだった。左腕の傷は、楓先生の手で丁寧に治療され、三週間後にはほぼ目立たなくなった。


星野由紀子、西野千紗都、古田麻尋の三人は江戸川勉の隣に住み続けた。江戸川はそれを「静かな地獄」と表現したが、顔は悪くなかった。


雨月雅之は内部告発の功績により、県警への異動が打診された。返事はまだ保留中だった。


鳴海美佑の登録者数は事件後に急増し、三万人を超えた。彼女はそれでも可児市内だけを撮り続けた。


柊澪は週に四日、ラクカに来た。弟子ではなく、仲間として。


ロドリゲス斎藤は可児に居座った。理由を聞くと「飯が旨い」と言った。


根古親司は今日も引きこもっている。体調が良い日だけ、少し特別なことができる。ヤマトは相変わらず重い。


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