湯の花の夜
【 十一月 某夜 可児市内 某温泉施設 露天風呂 】
湯の花が舞っていた。
白く細かい粒が、湯の表面をゆっくりと漂っている。
根古親司は岩の縁に頭を預け、夜空を見ていた。十一月の星は鋭く、湯気の向こうでも輪郭がはっきりしていた。
第一章の事件??朱音の死、安藤の誤認、データの行方??それらはまだ霧の中だった。
雨月が内部で動いている。江戸川が名古屋を調べている。だが二週間、目立った進展はなかった。
??守護霊たちは、今夜は静かだ。
それが根古には少し、不安だった。静かなときほど、次の嵐が近い。
露天風呂の奥、岩陰のあたりから声がした。
「あんた、根古さんやろ」
根古は目を開けた。
五十がらみの男が入ってきた。褐色の肌、白髪まじりの無精髭。
体格はがっしりしているが、どこか飄々とした空気がある。
タオルを肩にかけて、遠慮なく根古の隣に腰を下ろした。
「ロドリゲス斎藤です。村田さんから聞いてます」
根古はしばらく男を見た。右手は静かだった。嘘はない。
……来ましたか」
「来ました。新幹線と在来線乗り継いで。可児、ええとこですね。温泉もある」
「ここで私を待っていたんですか」
「ラクカのマスターに聞いたら、根古さんは週に三回ここに来るって。今夜で二日目です」
太田め、と根古は思ったが、声には出さなかった。
「村田さんから何を聞きましたか」
「朱音さんのデータのことです」
根古の右手が、じん、と熱くなった。
「……知っているんですか」
「知ってます。というか??」
ロドリゲス斎藤は湯の花が舞う水面を見ながら言った。
私が、預かっています」
【 同夜 温泉施設 休憩室 】
湯上がりの休憩室は空いていた。
自動販売機の前にふたりで座り、ロドリゲス斎藤は缶コーヒーを開けた。
「朱音さんとは、二年前に知り合いました。
私はバイヤーをやりながらYouTubeもやっているんですが、名古屋のある企業の調達先を追っていた。
その過程で彼女と接触した。お互い、同じものを調べていた」
「その企業というのは」と根古が言った。
「表向きは医療機器の輸入商社です。
ただ裏では、東南アジアとの間でかなり黒いものを動かしている。
臓器売買に近い話も含めて。朱音さんはその内部資料を持っていた。
私には、バックアップを渡したいと言ってきた」
「それが、失踪する前のことですか」
「三ヶ月前です。USBメモリを受け取りました。『何かあったら可児の根古さんに渡してほしい』と言われた。村田さん経由でその名前を知っていた」
??やはり村田か。あの男は、いったいどこまで話をつないでいるのか。
「USBは今、手元にありますか」
「あります。ホテルの金庫の中に」
根古は缶コーヒーを一口飲んだ。
「明日、垂井さんという弁護士に立ち会ってもらって、受け取ります。一人では受け取らない。それでいいですか」
「賢明ですね」とロドリゲス斎藤は言った。「私もそのほうがありがたい。ずっと持ってるのは、正直しんどかった」
男はそう言って、缶コーヒーを飲み干した。それから根古を見た。
「根古さん。私、このまま可児に少し居座っていいですか。面白くなってきた」
「あなたの自由です」
「ラクカ、毎日行っていいですか」
「太田さんの自由です」
ロドリゲス斎藤はけらけらと笑った。
根古は笑わなかったが、右手の熱がゆっくりと落ち着いていくのを感じていた。
??この男は、信用できる。
【 同夜 遅く 根古のアパート 】
帰宅すると、ヤマトが玄関で待っていた。いつものことだった。
根古はヤマトを抱き上げ、布団の上に座った。黒猫は根古の膝の上で丸くなった。
スマートフォンを開いた。江戸川から短いメッセージが来ていた。
??「名古屋の企業、絞れてきました。明日、話せますか」
根古は返信した。
??「明日、ラクカに来てください。重要な話があります。全員に連絡してください」
送信してから、根古はスマートフォンを置いた。
ヤマトが根古の腕に顎を乗せた。
??データが動く。事件が動く。
守護霊たちが、また少しざわめき始めた。
右肩の古い霊が、今夜は珍しく穏やかだった。まるで、ようやく歯車が噛み合い始めたことを、喜んでいるようだった。
根古は目を閉じた。
十一月の可児の夜は、静かだった。
【 同夜 別の場所 】
イエンガー・ムハンマドは店を閉める準備をしながら、電話を受けた。
可児市内でカレー店を営む五十五歳。温厚な顔つきで、スパイスの調合には定評がある。だが彼にはもうひとつの顔があった。この街と名古屋をつなぐ、細い情報の糸を束ねている人間だ。
「イエンガーさん。少し聞きたいことがあります」
電話の向こうは楓幸恵だった。
三十八歳の医者で、根古の知り合いでもある。声がいつもより低かった。
「今夜、患者が来ました。外傷があった。本人は転んだと言っているが??絶対に違う。そして名前を教えてくれなかった」
「どんな方でしたか」
「二十代の女性。左腕に、古い火傷の跡がありました。それと??」
楓は少し間を置いた。
「右手首に、小さなほくろがありました」
イエンガーは手を止めた。
「……わかりました。根古さんに連絡します」
電話を切って、イエンガーはしばらく動かなかった。
??右手首に、小さなほくろ。
それは、藤原朱音の特徴だった。
茜から聞いていた。




