鬼ヶ島の怪 第八話 迷宮、あるいは始まり
【 翌朝 茶店ラクカ 】
根古が着いたとき、すでに全員が集まっていた。
雨月と山本、星野たち三人、江戸川、鏑木、長曾我部、鳴海、茜、澪、太田。
ラクカがこれだけ人で埋まったのを、太田は開店以来初めてだと後で言った。
雨月が立ち上がった。顔が昨日より疲れていた。徹夜だったらしい。
「昨夜、ナンバー照会の結果が出ました。
兼山の廃工場のワンボックスは、美濃加茂の建設会社名義です。ただ??」
雨月は一拍置いた。
「安藤修は昨夜、別の場所にいたことが確認されました。春日井です。
春日井署の和田警部補が、別件で安藤の所在を把握していました。アリバイが成立しています」
場が静まり返った。
「じゃあ廃工場にいたのは」と江戸川が言った。
「安藤ではない、別の人物です」
根古は目を閉じた。
??大柄な男。だが安藤ではなかった。
私が鬼が島で見た映像の「大柄な男」も、安藤だと決めつけていた。思い込みだ。
「安藤は何をしているんですか、今」と星野が静かに聞いた。
「春日井でトラック運転手をしています。三年前の退職後からずっと。
捜査情報漏洩の疑いは今も消えていませんが??少なくとも今回の件とは、直接関係がない可能性が高い」
星野は表情を変えなかった。千紗都と麻尋も動かなかった。
「では」と垂井が??いつの間にか来ていた??言った。
「朱音さんを殺した人間は、まだわかっていない」
「現時点では」と雨月は認めた。
「鑑識の結果はまだ出ていない部分があります。遺留品の分析も続いています」
【 同日 午前 茶店ラクカ 続き 】
根古は右手を膝の上に置いた。
??もう一度、整理する。
朱音は組織を抜けようとした。
誰かが彼女を殺した。安藤ではない。では、誰か。
星野の組織の内部か。あるいは朱音が関わっていた名古屋の企業か。
それとも、まだ見えていない第三の何かか。
「江戸川さん」と根古は言った。
「朱音さんが持っていた情報、名古屋の企業の内部資料??それは今どこにありますか」
「私は受け取っていません。依頼内容は根古さんへの連絡だけでした」
「朱音さんが足を洗うと言ったとき」と根古は星野を見た。
「彼女は何かを持っていましたか。交渉材料になるような」
星野は少し考えた。
「……データがある、と言っていました。万が一のための保険だと。場所は教えてくれなかった」
「それが狙われた理由かもしれない」と長曾我部が静かに言った。
「殺すことが目的ではなく、データを回収することが目的で??」
「殺したのは、データの在処を吐かせようとしたが、吐かなかったから」と根古は続けた。
茜の顔が青くなった。それでも口を結んでいた。
「データはまだ、どこかにある」と根古は言った。
「それを持っている人間??あるいは、その在処を知っている人間が、犯人を特定する鍵になる」
「でも今の時点では、誰もそれを持っていない」と江戸川が言った。
「ええ」
沈黙が落ちた。
鳴海が手を挙げた。
「あの……これ、迷宮入りってやつですか」
「迷宮ではありません」と根古は言った。「まだ入口にいるだけです」
【 同日 昼 茶店ラクカ 外 】
人が少しずつ散っていった。
雨月と山本は署に戻った。雨月は帰り際、根古に小さく頭を下げた。
言葉はなかったが、意味は伝わった。
垂井は事務所に戻りながら、根古に一言残した。
「データが出てきたら、すぐ連絡を。証拠保全の手順があります」
鏑木は現場があると言って軽トラで去り、長曾我部は午後に客があると言って丁寧に礼を言って出て行った。
江戸川は残った。
「私はもう少し調べます。朱音さんの名古屋時代の足取りを。データの在処に繋がる何かがあるかもしれない」
「気をつけてください」と根古は言った。「相手はまだ動いています」
「わかっています」
星野たち三人は最後まで残っていた。
星野が根古の前に立った。
「根古さん。朱音さんの件、まだ終わっていない。私たちは当分、この辺にいます」
「江戸川くんの近くに越してきたと聞きました」
「ええ。ご近所付き合いをしながら、待ちます」
千紗都がかすかに笑った。麻尋は相変わらず無表情だったが、根古に向かって小さく頭を下げた。
三人が出て行くと、ラクカには根古、太田、茜、澪だけが残った。
【 同日 午後 茶店ラクカ 】
太田がサンドイッチを作って出した。誰も頼んでいなかったが、誰も断らなかった。
茜がコーヒーカップを両手で包みながら言った。
「犯人がわからないまま、どうすればいいんですか」
「待ちます」と根古は言った。
「手がかりは必ず動きます。データがある限り、相手も動かざるを得ない」
「いつまでも待てません」
「わかっています」
根古はサンドイッチを一口食べた。太田の作るものは、いつも少しだけ塩が多い。
それが根古は嫌いではなかった。
「茜さん。あなたは姉の部屋に、まだ入っていませんね」
「……名古屋の部屋、警察が封鎖しています」
「封鎖が解けたら、一緒に行きましょう。朱音さんが何かを残しているかもしれない」
茜は少し目を細めた。
「根古さんは、また能力を使うつもりですか」
「部屋の空気を読む。残留思念というものが、あれば」
「残留思念」と澪が目を輝かせた。「私も行きます」
「弟子でもないのに来るんですか」
「弟子候補です。まだ諦めていません」
茜が小さく笑った。今日、初めて見る笑顔だった。
太田がカウンターの中でそれを見て、静かに微笑んだ。
【 同日 夕方 根古の家 】
帰宅すると、ヤマトが玄関で待っていた。にゃあ、と一声鳴いて、根古の足首に頭を擦り付けた。
根古はしゃがんでヤマトの頭を撫でた。黒い毛が夕陽の中でわずかに茶色く見えた。
??朱音さんの魂は川を離れた。だが事件は終わっていない。
犯人はまだどこかにいる。データもまだどこかにある。
根古は右手を開いて見た。熱はまだ残っていた。
??守護霊たちは、まだ静かにしていない。これが終わるまでは、静かにならないだろう。
ヤマトが根古の膝に飛び乗ってきた。重い。十歳の黒猫は、なかなかの重さがある。
根古は壁に背を預けて目を閉じた。
??ラクカにまた人が集まるだろう。江戸川くんが何かを掴むかもしれない。
雨月が動くかもしれない。あるいは、まったく予想外の方向から何かが来るかもしれない。
それまでは、待つ。
根古親司、五十八歳。引きこもりがち。FXで生計を立てる。
黒猫ヤマトと暮らす。体調が良い日だけ、少し特別なことができる。
それで十分だった。
【 後日 某所 】
ロドリゲス斎藤は動画の編集をしながら、スマートフォンを見た。
フェルナンド・村田からメッセージが来ていた。
??「可児で面白いことが起きてるらしい。根古さんが動いた。まだ終わってないみたいやで」
ロドリゲス斎藤は五十二歳、バイヤー兼YouTuberで、根古とは温泉で知り合った仲だった。
ここしばらく関西にいたが、可児が気になり始めていた。
彼は編集の手を止め、新幹線の時刻表を開いた。




