鬼ヶ島の怪 第七話 兼山の夜
【 同日 午後二時 兼山 廃工場付近 】
鏑木俊哉の軽トラックが、兼山の旧道をゆっくり走った。
助手席に江戸川勉。窓を少し開けると、木曽川の匂いがした。
「あの建物ですかね」と江戸川が前方を指した。
錆びたトタン屋根の工場が見えた。
かつては金属加工の下請けをしていたらしく、煙突が二本、斜めに傾いている。敷地を囲むフェンスの一部が曲がっていた。
「通り過ぎますよ」と鏑木は言い、速度を落とさず走り抜けた。
五十メートル先で路肩に停め、ドアミラーで確認した。
「フェンスの内側に、車が一台」と江戸川が言った。
「黒のワンボックス。ナンバーが……愛知じゃないですね」
「岐阜か」
「多治見か美濃加茂あたりに見えます。遠くて読めない」
鏑木はしばらく黙ってミラーを見ていた。工場に動きはない。
だが煙突からではなく、建物の裏側のどこかから、細い煙が上がっていた。
「いますね」と鏑木は言った。「根古さんの言う通り、昼間は遠目でここまでにしましょう」
「写真だけ」
江戸川はスマートフォンを望遠モードにして、ワンボックスと建物を数枚撮った。
そのとき、工場の裏口のドアが開いた。
大柄な男が出てきた。百八十センチを超える体格。
作業着を着て、手に缶コーヒーを持っていた。顔はまだ遠くてわからない。
男はゆっくりあたりを見回した。
??こちらには気づいていない。
江戸川の指がシャッターを押した。男はすぐに建物の中へ戻った。
「撮れました」と江戸川が小声で言った。「根古さんに送ります」
鏑木はエンジンをかけた。
「帰りましょう。今日はここまでです」
【 同日 夕方 可児川沿い 】
夕暮れの川沿いに、小さな一行が集まった。
松平秀麿が白衣に烏帽子で立っていた。根古、茜、澪、太田。川の水面が橙色に染まっていた。
松平が祝詞を唱え始めた。低く、ゆっくりとした声が川の音に混じった。
根古は目を閉じた。
??右肩の霊が、静かになっていく。
祝詞が続く中、根古の左側に何かが来た。女の気配。
昨夜と同じ、新しい霊だった。だが今日はずっと近かった。
??「ありがとう」
声というより、感触に近かった。温かい、軽いもの。
それから、すっと遠くなった。
根古は目を開けた。川が光っていた。
隣で茜が泣いていた。声は出していなかった。澪がその肩に手を置いていた。
「行きましたよ」と根古は小さく言った。「苦しんではいなかった」
茜は頷いた。それだけだった。
【 同日 夜八時 垂井法律事務所 】
垂井美智子の事務所は可児市内の雑居ビルの三階にあった。
四十四歳、背が高く、常に少し眠そうな目をしている。
頭は鋭い。根古が知る限り、彼女が法律の問題で間違えたことは一度もない。
「で、元警察官が民間組織に流れて殺しをやっている、という話ですね」
「断定はできません。状況証拠と、私の感覚だけです」
「感覚、ね」
垂井はコーヒーをすすり、根古を見た。
「私が聞きたいのは、どう動くつもりかということです。殺し屋三人組を連れて、元刑事に突撃するつもりですか」
「そういうつもりはありません」
「でも星野さんたちは、そのつもりがあるかもしれない」
根古は黙った。垂井は続けた。
「彼女たちの動機は朱音さんへの義理でしょう。感情が入ればその筋の人間は動く。あなたが制御できますか」
「……難しい」
「正直ですね」と垂井は少し笑った。
「法律の話をします。安藤修を追うなら、民事でできることと、できないことがある。
証拠が揃えば告訴状を私が書く。ただし証拠は適法に取得されたもので??」
「江戸川くんが今日、廃工場付近で写真を撮りました。公道から望遠で」
「それは問題ない。ナンバーが読めれば、照会は警察に頼むしかないですが??あなたのところに今、所轄の警部補がいるんでしょう」
「非公式ですが」
「非公式でも人間です。動機があれば動く」
根古は椅子の背に寄りかかった。
「ミーコさん。あなたはなぜ、こういう話に毎回付き合ってくれるんですか」
垂井は少し考えてから言った。
「退屈しないから、です。それだけですよ」
【 同日 深夜 茶店ラクカ近く 】
根古が車に戻ったのは夜十時過ぎだった。
ラクカの前を通ったとき、店の灯りがまだついていた。
覗くと、太田と澪と茜が三人でテーブルに座っていた。
何かを話している。澪が身振り手振りで何かを説明し、茜が少し笑っていた。
??あの子は、茜さんのそばにいようとしている。
根古はドアを開けなかった。そのまま軽自動車に乗り込んだ。
スマートフォンに江戸川からの写真が届いていた。
廃工場と、大柄な男の後ろ姿。顔は写っていなかったが、体格は鬼が島で見た映像の断片と一致していた。
根古は写真を雨月に転送した。メッセージを一行だけ添えた。
??「兼山の廃工場。ナンバーの照会をお願いできますか」
返信はすぐに来た。
??「明朝、動きます」
根古はエンジンをかけた。家に帰れば、ヤマトが腹を空かせて待っている。
走り出したとき、バックミラーの中でラクカの灯りが小さくなった。
その灯りの向こう、路地の暗がりに??人影が立っているのを、根古は見た。
大きな、影だった。




