可児川呪術殺人事件『黒い交差、奪われたパンドラ』
「――あーあ、やっぱり。先を越されちゃったみたいね」
静まり返った部屋の障子が開け放たれ、夜風と共にあの甘ったるい香水の匂いが流れ込んできた。
振り返ると、月明かりを背に浴びて、星野由紀子、西野千紗都、古田麻尋の三人組が、まるで散歩の途中のような気安さで縁側に佇んでいた。
「お前たち……! なぜここに」
安藤が瞬時に身構え、美佑を背後に隠す。
しかし由紀子は面白そうに目を細め、人形のように転がっている「見知らぬ女」を見下ろした。
「そんなに警戒しないで頂戴。私たちはただ、その『抜け殻』になっちゃった彼女を引き取りに来ただけ。……ねえ、千紗都、麻尋。やっぱり組織は、私たちだけじゃ信用できなかったみたいよ?」
千紗都が冷ややかな笑みを浮かべて一歩前に出る。
「ええ。彼女は『マリア』。フィリピンの本部が、私たちとは別に送り込んできた『本職の刺客』ですよ。
私たちの動きが遅いからって、ルシアの口封じとデータ回収のために直々に派遣されたみたいだけど……まさか根古さんの『お家芸』を喰らうなんてね」
「マリア……フィリピンの組織の刺客……」
勉が眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「ということは、やはりルシアさんを殺したのはこの女か。君たちじゃないんだな?」
「当然でしょ」麻尋が淡々と答える。「私たちは元プロだけど、今はただの『隠居』。頼まれたって、あんな雑な撲殺なんてやらないわ」
由紀子がワイングラスの代わりに、マリアのポケットから抜き取った小さな「黒いUSBメモリ」を指先で弄んだ。
「それより探偵さん。ルシアが命懸けで盗み出したのは、さっき根古さんが言ってた『上納金の名簿』なんて可愛いものじゃないわよ。
このUSBの中に入っているのは、フィリピンの秘密組織がこの30年間、日本国内で洗脳し、資産を巻き上げてきた『全信者の洗脳カルテ』と『政治家・地元の名士たちの弱み(スキャンダル)の全データ』――いわば、この国を裏から揺るがすパンドラの箱よ」
「なっ……!」安藤が息を呑む。
「ルシアはそのデータを、カレー店のムハンマドを介してどこかへ逃がそうとしていた。だから消された。……そしてマリアは、根古さんがそのデータを持っていると勘違いして襲った。
違うかしら、根古さん?」
由紀子の鋭い視線が、ヤマトを抱いたまま震えている根古に突き刺さる。
その時、美佑の持つスマホの画面が激しく明滅した。
『同接10万人突破』『これガチの国家機密じゃん』『警察何やってるの!?』コメント欄が恐ろしい速度で流れていく。
根古の呪術、殺し屋三人組の告白、そして国家をも揺るがす秘密組織のデータ。すべてがリアルタイムで世界に拡散されていた。
「……面白いことになってきたじゃない」
由紀子が不敵に微笑む。その背後、遠くから何台ものパトカーのサイレンの音が、この根古の家へと急速に近づいてくるのが聞こえ始めた――。
パトカーの赤色灯が、夜の日本庭園の木々を激しく明滅させる。
県警の榊原警部を先頭に、所轄の雨月雅之警部補、山本巡査長、平巡査長たち捜査員が一斉に家へと突入してきた。
「総員、動くな!……これは、どういう状況だ!」
榊原警部の怒号が響く。しかし、警察が目にしたのは、血を流して倒れる根古親司と、その傍らで完全に意識を失い、白目を剥いて転がっている見知らぬ革ジャンの女の姿だった。
「救急車を! 鳴海、お前はまたこんなところに――おい、そのスマホをしまえ!」
雨月が怒り狂ったように美佑に掴みかかる。美佑は恐怖で震えながら、ようやくライブ配信を終了させた。同接数はすでに15万人を超え、ネット上は「可児市の呪術殺人」のワードで蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
「謎の突然の昏睡」
「雨月、こいつの容態はどうだ」
榊原警部がマリアの身体を検分する。
「……不可解です。外傷は一切ありません。心拍も呼吸も極めて安定しています。ただ、呼びかけにも、強い痛み刺激にも全く反応しない。
脳卒中か、あるいは強力な麻薬による急性昏睡のようですが……現場には薬物の痕跡もありません」
雨月は苦渋の表情で報告する。
近代警察の科学捜査、鑑識の技術を以てしても、根古の放った『魂剥離の技』を証明することなど不可能だった。
医学的にも、彼女はただ「原因不明の深い昏睡状態(植物状態)」としか処理できないのだ。
「江戸川、安藤。お前たち、何があったか分かっているんだろう」
榊原警部が鋭い目で二人を睨みつける。
「さあね、警部」
安藤がタバコを咥えようとして、警察の目に気づきポケットに戻した。
「俺たちが駆けつけた時には、その女が根古さんを襲った後、突然自分でぶっ倒れたんだ。狐にでも包まれたんじゃねえか?」
「ふざけるな!」
?? 闇に消える三人組、そして次なる陰謀
警察がマリアの救護と根古の事情聴取に追われるドサクサに紛れ、勉は素早く庭の暗闇に視線を走らせた。
先ほどまで縁側にいたはずの星野由紀子、西野千紗都、古田麻尋の姿は、影も形もなく消え去っていた。
しかし、勉のコートのポケットには、確かな重量感が残っていた。
警察が踏み込んでくる直前、由紀子が「これ、あんたに預けるわ」と笑いながら勉のポケットに滑り込ませた、あの黒いUSBメモリだ。
勉が警察の目を盗み、手元の小型端末にUSBを差し込んで画面を確認する。
そこには、フィリピンの秘密組織が握る、日本国内の信者や協力者の名簿が狂ったように羅列されていた。
画面をスクロールしていた勉の指が、ピタリと止まる。
「……嘘だろ」
そこには、ルシアを殺害し、根古を襲撃させたフィリピンの組織から「次の暗殺対象」として指定された、この街の重要人物たちの名前が並んでいた。
鏑木 俊哉(60・大工)
長曾我部 圭吾(59・会計士)
松平 秀麿(55・神主)
30年前の「呪術詐欺」に関わった地元の人たちが、次々と組織の口封じの標的にされている。
警察の科学捜査が「原因不明の昏睡」に頭を悩ませている裏で、本物のプロによる命の奪い合いは、まだ始まったばかりだった。
「安藤さん……」勉が低く呟く。「急がないと、次の犠牲者が出ます」




