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可児奇譚  作者: 賀茂丈晴
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第二章 第七話 「夜明け前」

視点:根古 親司


---


 夜が明ける少し前、空が一番暗くなる時間がある。


 その時間に、レビンが来た。


---


 ラクカの裏口を叩く音がした。静かな音だった。でも迷いがなかった。


 俺は鍵を開けた。


 レビンが入ってきた。黒いジャケット。手ぶら。目が醒めていた。眠っていない目だった。


「コーヒー、飲むか」


「いただきます」


 俺はカウンターに回った。太田の豆を使った。太田は今夜も何も言わないだろう。


 レビンはカウンターの椅子に座った。カウンターに両手を置いた。大きな手だった。傷がいくつかあった。仕事の傷だ。


 コーヒーを二杯分淹れた。レビンの前に置いた。


 俺も隣に座った。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


---


 レビンが先に口を開いた。


「根古さんは、何者ですか」


 また同じ質問だ。でも今回は、少し違う聞き方だった。今まではどこか探っていた。今朝は、ただ聞いていた。


「ただの市民だ」


「それは、最初から聞いています」


「だから同じことを言っている」


 レビンはコーヒーを飲んだ。


「私の祖母は、杉原ビザで生き延びました」


「知っている」


「私がモサドに入ったのは、守るためです。命を。歴史を」


「わかる」


「根古さんも、何かを守るために動いていますか」


 俺は少し考えた。


「守る、という意識はない」


「では」


「見ていられないから、動く。それだけだ」


 レビンが俺を見た。


 しばらく、俺を見続けた。


「……それは、私と同じです」


「そうか」


「見ていられない。だから動く」レビンが繰り返した。「国籍も仕事も関係ない。見ていられないから、動く」


 俺はコーヒーを飲んだ。


 外が、少しだけ明るくなり始めていた。


---


「根古さん」


「なんだ」


「今日、鳴海さんは必ず戻ってきますか」


 俺は答えなかった。すぐには。


 必ず、という言葉は好きじゃない。この仕事に「必ず」はない。


 でも??。


「戻ってくる」


 俺は言った。


「根拠は」


「あの女は、カメラの録画ボタンを押した。見ることを諦めていない人間は、そう簡単に消えない」


 レビンは少し間を置いた。


「……論理的ではありませんね」


「ああ」


「でも」レビンが言った。「私も、そう思います」


 俺はレビンを見た。


 四十歳。モサドのエージェント。祖母の命を繋いだビザの恩義を背負って、この街に来た男。


 目が真っ直ぐだった。


 曲がっていない目だ、と俺は思った。


 長く仕事をしていると、目が曲がる人間がいる。疲れて、諦めて、どこかで折れて、目が曲がる。


 レビンの目は曲がっていなかった。


 それだけで、信用できると俺は思った。


---


「一つ、聞いてもいいですか」


 レビンが言った。


「どうぞ」


「根古さんは、杉原千畝のことを、どう思いますか」


 俺は少し考えた。


「命令に背いた人間だ」


「それだけですか」


「それだけじゃない。でも、まずそれだ。命令に背いた。上の言うことを聞かなかった。それで何千人もの命が繋がった」


「根古さんも、命令に背いたことがありますか」


 俺は答えなかった。


 答えなかったことが、答えだった。


 レビンはそれを読んだらしく、それ以上聞かなかった。


---


 五時五十分になった。


 レビンが立ち上がった。


「行きましょう」


「ああ」


 俺もコーヒーカップを置いた。


 立ち上がる前に、一度だけカウンターを見た。


 太田の店だ。二十年来、ここに来ていた。何かある前の夜も、何かが終わった後の夜も、ここに来ていた。


 今日が終わったら、また来ようと思った。


 俺は立ち上がった。


 レビンが裏口のドアを開けた。


 外に出た。


 空が白くなり始めていた。


 夜明けだった。


---


 二人で歩いた。


 並んで、でも少し間を置いて。二人とも、自分のペースで歩く人間だから。


 レビンが歩きながら言った。


「根古さん、今日が終わったら??」


「終わってから言え」


 レビンが少し笑った。


「そうですね」


 可児市の夜明けは、静かだった。


 でももうすぐ、全部が動く。


 俺はそれを知っていた。


 ヤマトは今頃、家で丸くなっているだろう。


 終わったら帰ろう、と俺は思った。


---


*── 第七話 了 ──*



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