第2話 あなたは、怜司を幸せにできますか
三年前、怜司の前から逃げた美桜。
海沿いの街で静かに暮らしながらも、
彼の番号だけは、どうしても消せませんでした。
かけてはいけない。
もう声を聞いてはいけない。
そう思っていたはずなのに、
ある夜、震える指が発信ボタンに触れてしまいます。
発車ベルが鳴った瞬間、私はスマートフォンの電源を切った。
画面の最後に残っていたのは、怜司の名前だった。
着信、七件。
メッセージ、三件。
――今どこにいる?
――迎えに行く。
――美桜、ちゃんと話そう。
ちゃんと話す。
その言葉が、胸の奥に刺さった。
私は東京駅のホームで、スーツケースの持ち手を握りしめていた。行き先は、海沿いの地方都市。知り合いは誰もいない。仕事も、住む場所も、急いで決めた。
逃げるためだけに選んだ街だった。
電車のドアが閉まる直前、私はもう一度だけホームを振り返った。
怜司はいない。
いるはずがなかった。
彼は今ごろ、大学病院の外来を終えて、いつものように白衣を脱ぎ、私を迎えに来るつもりで車のキーを手にしている頃だろう。
何も知らずに。
私がもう帰らないことも。
たった一通のメールで、二人の未来を終わらせようとしていることも。
送ったメールは短かった。
『ごめんなさい。もう迎えに来ないでください。私は、怜司のそばにはいられません』
それだけだった。
理由を書いたら、怜司はきっと来てしまう。
来て、怒って、抱きしめて、全部を私ではなく、自分の問題にしてしまう。
それがわかっていたから、私は理由を書かなかった。
数日前、怜司の母に呼び出された。
ホテルのラウンジだった。天井の高い、静かすぎる場所。白いカップに注がれた紅茶は、湯気まで上品だった。
怜司の母、白石志乃は、品のある人だった。
背筋が伸びていて、言葉が丁寧で、感情を荒らげることがなかった。
その静けさが、かえって怖かった。
「あなたが悪い人だとは思っていないの」
志乃さんは、そう切り出した。
声は穏やかだった。
怒鳴られたわけではない。
責められたわけでもない。
けれど、穏やかだからこそ、私は逃げ場を失った。
「でも、怜司には怜司の人生があるわ。大学病院での立場も、将来も、背負っているものもある。あなたと一緒になれば、あの子はきっと、あなたを守ろうとするでしょう」
私は、膝の上で手を握りしめていた。
「怜司は、苦しんでいる人を放っておけない子なの」
志乃さんは、紅茶には手をつけなかった。
「あの子の父親も、そうだった」
その声に、ほんの少しだけ影が差した。
怜司の父が医師だったことは聞いていた。
けれど、詳しい話は知らなかった。
「夫は、患者さんにも、病院にも、家族にも、全部に応えようとする人でした。誰かが困っていたら、自分を削ってでも助けに行く。周りは、優しい人だと言ったわ」
志乃さんは、静かに目を伏せた。
「でも、優しさだけで人は生きられないの。自分を削り続けた人は、いつか本当に壊れてしまう」
その言葉が、重かった。
「夫は倒れました。命は助かったけれど、以前のようには働けなくなった。私は、そうなるまで止められなかった」
私は何も言えなかった。
志乃さんが私を嫌っているわけではないことは、わかった。
でも、そのぶん余計に、逃げ場がなかった。
「怜司は父親に似ています。あなたを愛しているなら、きっとあなたを守ろうとするでしょう。どれだけ疲れていても、あなたが不安だと言えば来る。あなたが泣けば、自分のことは後回しにする」
胸が、痛かった。
思い当たることが多すぎた。
熱を出した夜。
仕事で泣いた夜。
不安になって電話した夜。
怜司はいつも来てくれた。
いつも、私を優先してくれた。
私はそれを愛情だと思っていた。
でも、志乃さんの言葉は、違う角度から私の心を刺した。
「あなたが怜司に救われてきたことを、責めたいわけではないの」
志乃さんは静かに言った。
「けれど、救われることと、支え合うことは違うわ」
その一言で、何かが崩れた。
私は怜司を支えているのだろうか。
私は怜司の人生の隣に立てているのだろうか。
それとも私は、ただ怜司の優しさに甘えているだけなのだろうか。
「怜司は、あなたを選ぶでしょうね。あの子は優しいから。でも、その優しさに甘えて、あなたは本当に平気なの?」
何も言えなかった。
怜司なら、私を選んでくれる。
たぶん、母親と衝突しても、将来に傷がついても、私を守ろうとしてくれる。
それが嬉しかった。
それが怖かった。
私は本当に、怜司の人生の隣に立てる人間なのだろうか。
電車が動き出した。
窓の外で、ホームの柱が流れていく。人影が線になって消えていく。昨日までの暮らしが、音もなく遠ざかっていく。
私は声を殺して泣いた。
好きだった。
今も、好きだった。
だから逃げた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
消せなかった番号。
かけるつもりのなかった電話。
三年ぶりにつながった先で、
美桜は怜司の声を聞いてしまいました。
次話では、切ることも逃げることもできない電話越しに、
二人の止まっていた時間が少しずつ動き出します。




